第三八話 魔神
魔神の剣を振り上げ、コチョウはヌルに襲い掛かった。ヌルとの距離は近いが、それでもコチョウの刃が届く距離に近づくまでの間に、ヌルに一度だけ魔法での迎撃の機会を許した。
帯電した闇の筋が、コチョウに襲い掛かる。コチョウは覚えていない呪文だ。チャージダークレイは、魔術師達が使う攻撃系の術にも見えるが、邪悪な神聖魔法の筈だった。邪神を信奉する邪悪な神官共がこのんで用いる術系統なのだ。
逸らしの指輪は弾丸系でない線条系の呪文は弾いてくれない。コチョウは自分の身を翻し、躱す必要があった。その為に、距離を詰めるのが僅かに遅れ、二発目の迎撃を許した。
ダークボム。ファイアボールの闇版とも言える、拡散増幅する闇の塊で相手を飲み込み、濃い瘴気でダメージを与える範囲呪文だった。コチョウはそれを掠めて飛ぶ。僅かに彼女の肌に触れるように、飛び散った闇の粒が当たったが、その程度であれば無視できた。彼女が超能力で作り出したローブは以前纏っていた呪われたローブよりも更に黒く、闇の破片程度であれば吸収してローブそのものの素材に変えた。まるで黒く輝くように、ローブは波打った。
剣を振り上げ、コチョウがヌルを切りつける。コチョウは普段、剣を使うことはないが、持てる剣がないというだけで、使えないという訳ではなかった。その為の技術は、冒険者共や人型のモンスター共から十分に経験を奪っている。いきなり殺すと強さを奪えないおそれがある。急所は狙わずに、まずは腕を落とす為に右肩を狙った。
もっとも、ヌルとて数多の冒険者を屠って来た魔神なのだろう。容易く斬られてくれる程に甘い相手という訳でもなかった。素手ではあるが、筋骨隆々とした左腕でがっちりとガードし、腕の甲に傷跡すらつかなかった。硬い。
そして、二度のメンタルシュートで既に学習しているヌルは、勝ち誇って刃を腕で受け続けるような愚も犯さなかった。すぐに剣を振り払い、体勢を整える。しかも、そのままではコチョウが死角に入ると悟り、すぐに姿勢も入れ替えた。再び、コチョウとヌルは真正面から対面する状況に戻った。コチョウをたかがフェアリー一匹と侮れば負ける、そう認めるような真剣な表情を、ヌルは見せた。
ただの木っ端として油断はしてくれそうにないとコチョウも認めた。往々にして、面倒臭い、強い相手程そうだ。遊んでやるとは言ったものの、手を抜いて勝てる相手でないことは間違いなかった。
「恐れ入った」
油断なく身を鎮めるように構えながら、ヌルが言葉を吐いた。
「そりゃこっちの台詞だ。思ったよりやるなお前。小細工しかできないのかと思ったぞ」
コチョウも応じた。魔神の剣は思ったよりも振り回しやすい。斬りつけた相手の魂を吸い出す効果があることは分かった。それもコチョウのドレイン能力と相性がいい。普通ならそれを使用者の一時的な身体能力ブーストに使えるだけなのだろうが、コチョウはそれをそのまま経験として吸収することが可能だった。殺さなくとも経験が奪えるのは大きい。またソウルサッカーの効果はドレインとは異なる。系統としては生命力を奪う系統に分類されるのだろう。つまり、防具などによるドレイン耐性を回避して経験が奪えると言うことでもあった。ダメージ無効でも持っていない限り、ソウルサッカーの効果は回避できないだろう。もしいるとして、ダメージ無効など、無敵の神にも等しいとんでもなくばかげた耐性だ。
コチョウは再び切りかかる。相手は魔神だ。魔法や超能力がストレートに効く程、甘い耐性はしていないだろう。暗示が効く程軟弱な精神をしているとも思えなかった。暗示効果は強力だが、一定以上の強さのレベルの相手には通用しない。
直接攻撃が最も早い。相手の肉体は確かに頑強で硬いが、壊れないということとは別だ。防御を掻い潜ることさえできれば、ダメージを与えることはできることは確信していた。でなければガードは必要ないからだ。
緩急をつけ、連続で斬撃を繰り出すコチョウを前に、ヌルは下がりながら決して背面を取らせようとはしなかった。腕でガードし、身を逸らして躱し、受け流しながら、だが、反撃は飛んでこない。余裕のない表情から分かる。コチョウの連続攻撃が激しすぎて、防ぐだけで反撃まで手が回っていないのだ。どれ程の術や力を操るか知れない相手でも、それを行使する隙さえ与えなければ同じだった。
「頑張って!」
サンクチュアリのフィールドの中から、エノハの元気な声援が飛ぶ。彼女には、これが押していると見えるのだろうか。実際にはまだ有効打の一撃も入っていないというのに。だからお前は半端者なのだ、コチョウは心の中で毒づいた。コチョウもまた、余裕などなかった。隙を与えれば、何が飛んで来るか予測もつかないのだ。危機感を持たずにいられようか。
魔神の剣の品質が悪い訳ではない。品質や魔力での強化はコチョウの腰のチャクラムなどよりもずっと上等で、流石に魔神が持つに相応しい剣と言えた。それですら歯が立たない魔神の腕の硬さの方が異常なのだ。
「硬いなおい。何喰ったらそんなふざけたことになる」
コチョウはついに不平を零した。それでも手は止まらない。やや遅れて魔神は答えた。
「魂と死を啜ったのだ。我は死だ。言ったであろう。死に匹敵するお前が異常なのだ」
と、ヌルは答えた。声にはやはり余裕の響きはない。
「そりゃどうも」
コチョウは片手で剣を振りながら、目晦ましとばかりに、変化を混ぜる為に腰のチャクラムを一枚投げつけた。たいしたダメージにはならないだろうが、怯ませるか隙を作れるかさえできればいい。狙いは、ヌルの顔面だ。
ヌルは突然飛んできたチャクラムに反応した。反射的にガードが上がる。チャンスだ。コチョウは本命の剣で、ヌルの腹を斬り裂いた。ヌルの肉体は、案の定深く傷つき、腹から闇の欠片が漏れ零れた。
「ぐ、ぬかったか」
ヌルが自分の失敗を悟ったように、距離を取ろうとさらに大きく下がる。コチョウはもう一撃を入れる為に、真っすぐにそれよりも速く距離を詰めた。
しかし、それはヌルの誘いだ。
コチョウにそれが分かっていたのか、分かっていなかったのか、傍からはまったく分かりはしないことだった。
ヌルの避けた腹から、闇が大きく染み出し、溢れた。それはゲル状の物体のように追い縋るコチョウを、避ける暇もなく飲み込んだ。ともすれば忘れがちになることだが、今のコチョウには肉体がない。魂だけの状態だった。超能力で造ったローブも、装備したアイテムも、すべてそのように再現されているだけで、言うなればすべて纏めてコチョウの魂の一部だった。
そして、ヌルは魂を啜る魔神だった。実際には、魂に実体はない。それを啜るのには、口から飲む必要もなかったのだ。コチョウはゲルに打たれた衝撃で魔神の剣を手放し、その中に飲まれると、溢れ出した闇と一緒にヌルの肉体の中に取り込まれた。フェアリーサイズの剣と、片方だけのチャクラムが、ヌルの足元に転がる。一瞬の逆転。コチョウは、ヌルに食われたのだった。
即ち。
コチョウが張った、ピリネ達を守る為のサンクチュアリの効果もまた、霧散する。対抗手段もなく、ヌルの前に放り出されるかたちになったピリネ達は、驚愕し、困惑した。
「え……嘘、でしょう」
ピリネが呆然と、呟く。その顔に怒りと絶望が浮かぶのには、時間は掛からなかった。
「あれだけ大口を叩いておいて、あっさり取り込まれて死ぬなんて、何なのですかあなた」
サンクチュアリは消えた。それが事実だ。コチョウの力は消え、ヌルが立っている。それが現実だ。ヌルが指先で、フェアリーサイズまで縮んだ自分の剣を拾い上げる。腹の傷はもう消えていた。おそらく傷そのものも罠で、治そうと思えばいつでも治せたのだろう。ヌルの手の中で、魔神の剣は元の大きさを取り戻し、ヌルは右腕で、その感触をたしかめるように握った。
それから、ヌルはピリネに、スズネに、エノハに視線を向ける。コチョウのような強敵ではない、そう理解するような、落ち着き払った目をした。
「さて。では、お前達の魂も頂くとしようか」
開いて左手の人差し指を、三人に向け、跳ね上げる。ヌルのその動きの先に目に見えない力が出ているのだろう、ピリネ、スズネ、エノハの三人の体は宙高く吊り上げられた。彼女達は横一列に並ばされて、大の字の姿勢を取らされ、自分では指一本自由に動かせなかった。
「ああ、本当に。敗けてしまったのですね」
スズネが苦しげに言う。見えない力で縛りつけられていて、喋るだけでも難しいのだ。
「偉そうにしておいて何です。死んじゃいけない時は弁えているのではなかったのですか」
ピリネも、まだ悪態をついていた。
「きっと違う。何が起きても自暴自棄にはなるなって言ってたもの。わたしは信じるよ」
ただ一人、エノハは信じた。コチョウは避けられなかったのでなく避けなかったのだと。