第三五話 深淵
「……ぅがっ」
悲鳴とも、呻きともつかない声が出た。
腹部からは、背中から突き立てられた刃が突き出ている。だが、おかしい。血も出ないうえに、コチョウの意識も暗転しなかった。代わりに、何かどす黒い、不吉なものが腹の傷から零れ落ちていた。
これは。
「私が……消されてる」
失っているのは、コチョウの中に蓄積された力であり、経験だった。しかし、ドレインではない。この奇妙な場所に吸い出されているような、抜き取られているような、ひどく不快な感覚があった。
「これが……深淵か」
コチョウは気付いた。ダークハートの深淵の、まさに深淵に自分が落ちたのだろうと。物理的な最下層よりより深い、隠された本当の深淵と呼べる場所に、彼女の魂は引きずり落とされたのだ。
「私を……奪うなっ!」
だが、コチョウも軟弱で哀れな犠牲者ではなかった。咆哮を上げ、自分の腹から突き出た刃を殴りつけ、叩き折った。彼女の精神の強さか、それともこれまでに倒した者達から奪ってきた純粋な武力か、コチョウは刃を硝子細工のように叩き割った。
刃が消え失せ、コチョウは虚空に浮いた。奇妙な赤で染まる風景は一面細胞のようで、脈打つように絶えず蠢き、不気味な雰囲気をこれでもかと醸し出していた。コチョウはその景色に自分の魂が深淵に引きずり込まれ囚われたことを確信し、憤怒に燃えた。
「良い度胸じゃないか。何者か知らんが、その挑戦、受けてやる」
そして、コチョウはその肉の塊のような景観の迷宮に挑んだ。コチョウがいた場所からは一方にしか通路が伸びておらず、小部屋というよりも通路の行き止まりといった方が正しい場所だった。通路に従って進むしかない。不吉に蠢く壁には触れ難く、コチョウは道なりに進んだ。
そして、幾らも進まないうちに辿り着いた小部屋で。
「お前等何してる」
コチョウは面食らわされ、馬鹿馬鹿しい程の呆れに頭を振った。
小部屋の壁に、三人の女が埋め込まれていた。向かって左の壁には、スズネとエノハが、右の壁にはピリネが埋まっていた。キリヒメはいない。ゴーレムに魂はないからだろう。
「その」
「あの」
「ええと」
三人は、壁に埋め込まれている境遇とは裏腹に意識ははっきりしており、元気だった。嫌なところを見られた、とばかりに、一斉にコチョウから顔を逸らした。
「ああ」
考えもしなかった。ピリネ達が戻って行ったのは、地下八階の最奥だ。地下五層のレイスにも負けそうなパーティーが、地下八層を徘徊しているアンデッド(ボーンイーターと呼ばれる巨人の骸の不死や、ポイズンデッドと呼ばれる死体から生じたガスに死者の恨みが宿ったモンスター等)に勝てる筈もなかった。おそらく、少しも戻らないうちに、徘徊しているモンスターに負けて、魂が深淵に堕ちたのだろう。
「そうか。あそこから無事に帰れないよな、そりゃお前等じゃ」
流石にちょっとだけ可哀想な気がした。コチョウの姿は相変わらず呪われたローブ姿だが、それは魂に投影されているだけで、今は実際装備の効果はないのだろう。ほんの僅かに残ったコチョウの良心が、むくむくと湧き立ってきたのだった。
「悪かったよ。不可能なことを要求した」
コチョウは三人を壁から引っ張り出した。半ば埋まっていて、手をとることはできなかったが、突き出た出た肩や膝を引っ張ると、簡単に壁から引き剝がせた。
「あなた、死んだのですか?」
全員が引っ張り出されるのを待ってから、さも意外そうに、ピリネが尋ねた。彼女達からすれば、コチョウが死ぬようなことがあるというのが信じられないことのようだった。
「ああ。地下九層でな。翅をもがれたもんで、自分で死んだ。探索できないからな」
嘘は言っていない。石化して解除されたことを省略しただけだ。コチョウは、今でもあれは助けてもらったとは言えないと思っていた。
「私はここ――どこだか知らんし、奈落と言った方がいいのかもしれんが――を攻略する」
コチョウは告げ、苦笑した。
「こんな場所でくたばるつもりはないからな。来るか? 弾避けくらいには使ってやる」
言い方は意地が悪いが、ピリネ達が自力では脱出できないだろうことも、分かっての冗談だった。
「守ってくれるなら、頼りにしますけど。私達が盾になるとは思えないです」
ピリネは、背に腹はかえられないと言いたげな表情をした。コチョウが、もし盾が必要になるような危険なシチュエーションでは、ピリネ達の魂など、吹けば飛ぶような木っ端に過ぎないだろう。
「仕方ない。気は進まんが、護衛はしてやる」
肉体があれば、コチョウが絶対に口にしない言葉だった。正直に言えば、魂だけの状態で、果たして自分がどれだけ危険に対応できるのか分からず、不安だったのだ。ピリネやスズネ、エノハは頼りないが、一人よりはまだマシな気がした。
「お前達戦えそうか?」
その気持ちを隠すように、コチョウは三人に問い掛ける。微妙な表情で、エノハが首を縦に振った。
「わたしは、やれる。式札は何故か知らないけど、ここにある」
気丈に答えるが、エノハは泣きそうな顔をしていた。コチョウはその理由が何となくわかる気がした。
「ああ。あれは私が悪かったよ。ハルツゲ、だったか? 千切れた鶯の札はまだあるか?」
コチョウはきまりが悪そうに答え、尋ねた。エノハが頷くのを見て、コチョウは苦笑いで応えた。
「出してもらって良いか? レストアの呪文を使えば、今でもまだ直せる筈だ」
「え? ほんと?」
半信半疑で、エノハが尋ねる。今度はコチョウが頷く番だった。
「私がゴーレムのキリヒメを直したのを見ただろ? あれは修復でなく復元の呪文だ」
コチョウが説明すると、一定の期待を抱いたらしく、エノハは二つに破れた式札を、懐から取り出した。それをコチョウに差し出すと、コチョウは頭を振って、
「そのまま持ってればいい。私に渡すのは不安だろ? 私が信用されないのは分かってる」
そう受け取るのを拒んだ。そして、そのまま呪文を唱えた。レストアの呪文は肉体がなくとも発動した。以前よりやや負荷を感じるのは、さっきの刃で自分の存在の一部を抜かれたせいだろう。何処かに集積されている筈だ。必ず取り返すと、コチョウは密かに誓った。それでも、式札は光に包まれ、元の状態に一つに戻った。
「呼んでみろ。以前と同じ個体が来るはずだ」
コチョウが告げると、エノハは、不安ながらも頷いて、式札を宙に放った。
「ハルツゲ!」
叫ぶと、式札が、一羽の鶯に変わる。鶯はエノハの肩にとまり、迷宮に不釣り合いな、綺麗な声で文字通り春を告げるかのようにさえずった。右脚に、紅梅色の、小さなリボンが結ばれている。
「ハルツゲ……! ハルツゲだ!」
そのリボンを見たからか、エノハも元の式神であることを確信したようだ。半泣きで、肩に止まった鶯を、指先で愛でた。
「ありがとう。ちゃんと、ちゃんとわたしのハルツゲだ」
「礼はいい。破ったのは私だ。前の通り恨んでくれて構わない」
コチョウは、薄く笑った。その様子を眺めていたスズネが、一言だけ、漏らした。
「本当は、いいひと、なのかもしれません」
「よしてくれ。それはあり得ない。私は自己中心的で、暴力的で、悪人だ。いつだって」
コチョウの魂は、フェリーチェルが以前言った通り、純粋なのかもしれない。だが、そこに溜まった薄ら暗い負の感情は消し難く、それを含めて自分なのだと言うこともコチョウは自信を持っている。
「私はそれで生きてきた。気に食わない者を殺し、邪魔なものは壊す。これからも同じだ」
それしかやり方を知らないからではなく、自分の感情を抑える理由もなく、意味もないことを知っているからだ。それで何度も死んできたが、それは自分の不甲斐なさの結果で、最終的にぶち破るまで折れなければ問題ないだけの話だ。百回死のうが、千回死のうが、復活できれば問題ない。チャンスがある限り突き進む。それで永劫の闇に葬られた時は――それはその時のことだ。
「それよりもだ。お前達はオーブがない筈だ。ということは、体はまだ生きてる」
前置きを言い、コチョウは懸念を口にした。
「だが、魂がここに落ちたということは、お前達は死にかけてるんだろう」
つまり、時間の猶予はあまりないと思っていい。魂の活力が失われた時、そいつは死んだと見ていいのだ。
「急ぐぞ。ついてこい」
コチョウは、先頭に出て、三人を急かした。