第五一話 ウェーブレス・オーシャン
飛び込み、深く沈む。
コチョウは不安定になりかけた空間の亀裂に、自分から身を躍らせた。
視界は役に立たない。光がないだけではない。闇すらないのだ。そこが物理的な空間なのかどうかも、コチョウには認識できなかった。
力を感じる。五体をバラバラに引き千切ろうとするエネルギーだ。或いは、五体を粉々に押しつぶそうとするエネルギーなのかもしれない。兎に角、強烈なエネルギーで満たされた場所だった。
どろりとした、粘性のあるものが張りついてくる。空気ではなかった。もっと重苦しく、むしろ水に近い感覚だった。それ故に、コチョウの全身に被さるように、それは余すところなくあらゆる場所に絡みついた。
不快感は覚えない。かといって快楽を催すようなこともない。コチョウでなければ何らかの、激しいフィードバックがあったのかもしれないが、今の彼女はフェアリーでありながら、既に女であるのかも怪しい存在に成り果てていた。
コラプスドエニーの何処かに移動した訳ではない。そうコチョウは確信した。空間的にも、時間的にも、コラプスドエニーと地続きの場所でないことだけは読み取れた。そもそも、時空の概念があるのかさえ、怪しい。
空気ではない何かに満たされた場所で、コチョウは翅を動かさずに浮いていた。彼女自身の能力でそうしている訳ではなく、何かに包まれ、浮かされている感覚だった。
海か。
呟こうとして、声にならないことにコチョウは気付いた。震わす為の物質が、何もないのだ。ただその呟きは光になって、周囲に漂うエネルギーを震わせた。それも僅かな間だけで、周囲のエネルギーの中に溶けて、消えた。
波はない。静かだ。一切の動が、存在しなかった。ただ、その正体が、コチョウには少しずつ推測できるようになった。彼女にとって馴染みがあるエネルギーで、まるで古巣にいるような親和感を得た。
興味深い。
コチョウはこの得体のしれない場所が、どんな場所なのかを詳しく知る為、危険とも言える実験に乗り出した。こんな場所で魔法や超能力をもちいたとき、どんなことが起きるか想像もつかないが、彼女はそれが彼女にとって致命的な結果を招くのであればそれでいいと割り切った。
どろりとしたものがコチョウの体を圧し固めるように絡みつき、腕を動かそうとすると強い抵抗があった。尋常な圧力ではない。コチョウでさえ、ゆっくりと腕を上げるだけでやっとの思いをさせられた。普通の生物であれば、動く以前に、とっくに潰されていたことだろう。
魔力を込める。使うのはごく初歩の、発火呪文だ。見習いレベルの魔術で、通常ならコチョウが失敗する余地などない術だ。
しかし、それは効果を及ぼさなかった。
炎とは程遠い、細かい火花を散らすと、魔力は周囲に拡散し飲み込まれていった。魔法が使えない。無理矢理掻き消されたというより、その存在が自然に消えていった感覚に近かった。この海を空間と呼んでいいのであれば、空間に溶けて混ざってしまったような現象が起きた。
魔力は、消える。
そう結論付けたコチョウは、次に超能力を試してみる気になった。とはいえ、コチョウの他に、効果を確認する対象がない。しばらく思案したあとで、テレポーテーションを試してみることに決めた。
集中し、念じる。
そして、僅かに空間が揺らいだ気がした。しかしそれは期待した正常な結果とは程遠い現象を生み出したということに他ならなかった。コチョウは何処へも移動していない。超能力も無効化されたのではなく、そもそも前提から成立しなかったように思えた。
肩透かしを食らったような格好ではあるが、何も起きなかったという訳でもなかった。予想外に、全身に対する負荷が上昇したことが、確実に気付けた。
まるで魔法効果を生み出すことや、超能力による変化を拒むように、空間からの圧力は増した。それはコチョウをすり潰すことを諦め、どこか遠くへ流し去ろうとするような反応にも感じられた。
だんだんと、コチョウにはこの空間の真実が理解できてきたように思えた。それでも短絡的にそれが結論とは断定しない。早合点による些細な見落としが、得てして見当違いな勘違いに繋がるものだ。宝の直前の意地悪な仕掛けのようなものだ。間違ったレバーを引けば、宝の山を目の前にして、奈落へと叩き落とされる。真実とは、それに似ている。
つまりは、核心に迫れる実験はまだ行っていないと考えるべきなのだ。事実の観測が必要だ。
コチョウは自分の憶測が正しいのかを確かめる為に、形ある像を作り上げてみた。モチーフは何でも良かったが、迷うのも馬鹿馬鹿しかったから、自分自身のレプリカにしておいた。とはいえ、魂も入っておらず、動くこともない。ただの土くれの塊のようなものだ。
その像は、空間の干渉を避ける為、竜神の力で保護して造り上げた。完成するまでは、あらゆる力から隔絶された状態に隔離する。時間と空間を切り取る術のようなものだった。さらに、その土くれに何が起きるのかを知る為に、コチョウは、感覚の幾らかを、像に忍ばせた。
像が完成すると、コチョウはその保護を解いた。その瞬間、土くれは粉微塵に砕け、その砂粒さえ飲み込むエネルギーによって、空間に溶けて消えていった。像に込めていた間隔が薄れ、何処かに流されていくような不快感があった。コチョウ自身何度か経験したことがある、死に瀕した時の、あの嫌な感じと同じだった。
そのフィードバックはコチョウにも訪れる。空間からの圧力がさらに増し、流石のコチョウでも平然と抗うという訳にはいかなくなり始めた。そう何度も実験を試せそうにない。どうやら、この空間は、コチョウがお気に召さないようだった。
と、いうよりも、誰であろうと、何であろうと、同じことだろう。コチョウは自分の推測がほぼ正しいことを確信した。土くれを通して得たフィードバックから、
この空間は、存在というものを拒絶しているのだ。消滅を要求しているのではない。原初のカオス、実体のないエネルギーに溶けたものだけが存在する筈の場所なのだ。それ故に、命あるコチョウの存在は拒絶されるし、土くれはばらばらに分解されてエネルギーに還ったのだ。
それだけに、ここはエネルギーの坩堝だ。言うなれば、滅んだ世界が行き着く場、とでも言おうか。しかしそれらはかつては存在した現実のものであり、それは無には還らない。それらが物質に変換し、或いは、エネルギーのまま保持していた力は、純粋なエネルギーとして保存され、だが、決して動くことはないのだ。動きがあるということは、滅んでいないということになるからだ。
欲しい。
当然、コチョウはそう考えた。この空間のすべてを自分のものにしたい、その我欲を、コチョウが抱かない筈がなかった。彼女が亀裂に感じた強烈な興味は気のせいではなかった。ろくでなしの嗅覚とでも表現しようか、コチョウはここに、これまでとは比にもならない力があることを、勘付いていたのだ。
だが、生あるコチョウを、この場は完全に拒絶している。まだ滅んでいない唯一の染みを追い出そうと、圧力を強めている。今のままでは、この場をコチョウが飲むことはできないことも、理解できた。生死を超え概念に至るか、自分自身が滅ばなければ、この場に溶け込むことはできそうになかった。
しかし、一度この空間を離れれば、戻って来られる保証はない。再びデザートラインを稼働できる状態に魔力流を戻し、再度砲弾を集めて虚空へ送ることができれば戻って来られるだろうが、コラプスドエニーに影響がまったく出ないという訳ではない。
コラプスドエニーは複数回の施行には耐えられないだろう。今も荒廃を早めている筈だ。いずれ、人々の目にもはっきりと世界の破滅が早まっていることを、認識できる筈だ。これ以上、デザートラインをのさばらせておいては、コチョウが新たに見つけた、この空間を従えるという目的を達成する為に力を得る時間が足りなくなる。
滅びの力を得るか、己が滅びるか。
そう考えると、むしろ逆に考えてもいいのかもしれない、と、コチョウは気付いた。
この空間に詰まったエネルギーを自分のものとするには、コラプスドエニーを見捨てる決断が必要なのだ。ここが滅んだ世界の行く末が集まる場所であるならば、コラプスドエニーが滅べば、自ずとこの場所に辿り着くのだろう。
この時、コチョウの意志は、確実に変わった。これまでは五つの魂を生き永らえさせる為に活動してきたが、その必要もなくなるだろうと考えた。それらが滅んでしまったとしても、この空間を手に入れたあとで、淀む水の中から再度汲み上げなおせば良い。
空間の拒絶はいや増しにコチョウを弾き出そうとした。そろそろ抵抗も限界だ。
また戻ってくるぞ。
声にならない呟きで、コチョウは宣言した。