第四〇話 イントゥ・ザ・ダークネス
フェリーチェルは、迷っていた。
世界をとれば、市民を危険に晒す。
市民をとれば、世界を危険に晒す。
その選択肢を突き付けられたら、何を正解としたいのか、今まで考えたことがなかった訳でもなかった。世界を取らねば、結局巡り巡って皆を危険に晒すことになるという事実は、理解しているつもりだった。
しかし、現実にその時になってみて、分かる。声が出ない。一言。たった一文の指示でいいのだ。それが分かっているのに、それは声にならなかった。自分の指示ひとつで、避けられない犠牲が出るのだと考えると、恐ろしくて堪らなかった。
孤独だ。はじめて感じた。あまりにも孤独だ。エノハが、スズネが、カインが代わりに告げてくれれば、どんなに気持ちが楽になれたことだろう。私のせいじゃない。犠牲に対して、無責任に顔を背けることができるかもしれないから。
だが、皆は代わってはくれない。皆がフェリーチェルを見て、その言葉を待っているだけだった。女帝。その肩書が、今はフェリーチェルにはとても重いものに感じられた。
「嫌だ」
と、声が漏れた。皆は動かない。聞いていない振りをしているのかもしれなった。
「こんなことは、言いたくない」
分かっている。マグニフィセントが前方の列車で何の準備を進めているのかのピリネの予測が正しかったことは、既にアーケインスケープのメイジから報告を受けている。そのピリネ本人も、ゴーファスのもとに戻っていってしまいここにはいなかった。そもそも、身重のピリネに、無理をさせる訳にもいかなかった。
何度か言いかけて、結局指示を出せないでいた。自分の決断でどれだけの市民に影響が及ぶのかは未知数で、それが何よりもフェリーチェルには怖かった。
『できもしない女帝なんかになるからだ』
コチョウのそんな嘲りの声が聞こえるような気がする。いやむしろ、今ほどこの場にコチョウにいてほしかったと思ったことは、フェリーチェルにはこれまでなかった。不甲斐ない自分を笑い飛ばしてほしかった。だいいち、コチョウに任せれば、市民に犠牲を強いるような決断など必要ない。
しかし、いないものを嘆いても仕方がないのは分かる。ここではフェリーチェルが長で、彼女に対し、頭上から決断を押し付けて来てくれる相手はいない。
「ア……」
逃げたい自分を叱咤し、出ない声を、やっとフェリーチェルは絞り出した。にもかかわらず、彼女の苦渋の言葉は、すぐに遮られることになった。
「報告します。ゴーファス殿の列車が、急速加速しました」
フェリーチェルの執務室に駆け込んできたのは、中央帝宮直属の、各デザートラインの技術管理班のメンバーだった。
「先行するってこと? それとも逃げてる?」
フェリーチェルが確認の問いを投げかけると、
「確認はとれていませんが、先行のつもりかと思われます」
技術者は、そう回答した。直接ゴーファスに聞いた方が早い。ここで議論して解決する問題ではないと、フェリーチェルは机の上の通信デバイスを手にした。
「ゴーファス、応答して」
『陛下。如何されたかな』
すぐに応答はあった。ゴーファス自ら、通信に出た。
「如何じゃないよ、何やってるの? 今先行したら危ない」
フェリーチェルは状況が分かっている筈だとゴーファスへの不満を顕にストレートに声に乗せた。対するゴーファスの声色は変わらず、ただ、饒舌に語った。
『今市民を危険に晒せば、来るべきマーガレットフリート本隊との戦闘の際に、必ず障害となって跳ね返ってくる。市民を盾にするような選択をしてはいかんのだよ。さらに言えば、あの手の連中は狡猾だ。出鼻をくじき、完璧に跳ね返さねば、食らいつかれるぞ。そして一度くらいつかれれば、いつまでも噛まれ続けることになる。その時は無視できるような小さな傷だとしても、やがて病に繋がることもある。そうなる前に防いだ方がいい』
「でも遠距離で破壊すれば、世界にきっと深刻なダメージが……」
フェリーチェルの反論にも、
『承知している。安心するがいい。私はヴァンパイアだ。マグニフィセントの列車を破壊することなく、無力化できる』
さも当然だと言うように、平然と答えた。その方法を、事細かには明かさなかった。
「どうやって」
当然、フェリーチェルはその方法論について議論をしようとはした。しかし、時間は待ってくれない。すぐにその猶予がないことを、知らされることになった。
「部下からの報告だ。前方の列車が動き出したらしい」
無言を貫いていたレイモンドの報告が、フェリーチェルの部屋に響く。フェリーチェルはゆっくりと通信デバイスを机に戻し、
「ピリネと、侍女たちは?」
とだけ、聞いた。答えは彼女にも予想できていた。
『そちらへの退避を命じたが、拒否された。彼女達に割いている時間がない。黙認した』
との答え。フェリーチェルには、
「そう」
としか答えられなかった。
そもそも、ヴァンパイアであるゴーファスに、人間社会の秩序の順守を求める方が愚かだと言える。そうすることのメリットが大きかったから大人しくし中央帝宮に従い、人間達に歩み寄っていたにすぎない。その彼が、独断で動くと決断したからには、中央帝宮といえども、禁止の強制力を発動することは不可能だった。
「ごめんね。ありがとう」
フェリーチェルには、自分の無力を詫び、礼を言うことで精一杯だった。
「彼等の列車の映像を、こちらにも回せますか?」
スズネが、レイモンドに頼む。それすらまだ行えていないくらい、フェリーチェルは追いつめられていたのだ。本来のフェリーチェルであれば、不審な列車が前方に発見された段階で映像を送ってもらっていた筈だった。
すぐに映像が送られてきて、フェリーチェル達の目の前に、外の様子を映した魔術的なスクリーンが展開される。急速に車列から突出していく闇夜の色の列車が見えた。
遥か彼方には、動き出したマグニフィセントのデザートラインが豆粒のように見える。おそらくゴーファスの列車の挙動にも既に気付いている筈だ。撃破の為に砲を向けていることだろう。
『伏兵がいる筈だ。そちらは任せた』
ゴーファスはフェリーチェルの礼には答えず、警告だけを発してきた。
『武装列車に気を取られ、そちらの対応に集中すれば、脇の甘さを晒すことになります』
という発言が、ピリネの声で添えられた。ゴーファスのすぐ隣にピリネがいるのだと、フェリーチェル達にも理解できた。
『乗り込まれる前に蹴散らす必要があります。スズネ。エノハ。それはあなた達の役目です』
「分かった」
エノハが答え、
「はい。車内に入れれば、市民に動揺を蒔かれることになると、スズネにも分かります」
スズネも理解したという意志表示をした。
『お願いします。あの列車による企みを阻止するだけでは足りません。そもそもあれは、あわよくば混乱の火種とすることも狙った、陽動のようなものです。主目的は市民達に不安を蒔く人員を潜り込ませることでしょう。それを許しては、必ず、足元を掬われます』
まるで自分がこれから死ぬかもしれないということを理解していないかのように、ピリネは平然と自分の推測だけを語った。その声は平素通りで、恐怖や不安などの負の感情は、一切合切捨て去ったようだった。
「分かった。その阻止に集中するよ」
フェリーチェルは、そこまで冷静にはなれなかった。ゴーファスとピリネの落ち着きに、彼女は覚悟を読み取ることができたが、それ故にフェリーチェルの感情は波打ち、乱れた。
『貴女達の今後に期待している。時間だ。敵作戦阻止に集中する為、通信を終了する』
ゴーファスのその言葉を最後に、通信はゴーファス側から切られた。
マグニフィセントの車両も加速を強める。通常加速ではゴーファスのデザートラインを突破できないと判断したのだろう。それこそがゴーファス達の狙いではあったのだが、それはゴーファスとピリネ、その側近達だけが知っていることだった。
マグニフィセントの武装列車の砲が火を噴く。狙いはゴーファスの列車だ。既にゴーファスの列車は高速で走行しており、偏差射撃を行った砲撃は、アイアンリバー本体のはるか遠くを狙って弧を描いた。
それを引き付けるように、ゴーファスの列車の前方に展開された暗闇のドームが、砲弾を飲み込んだ。ゴーファスの術だ。
急速加速を続けていたマグニフィセントの車両は大きくは曲がれなかった。そして、それはゴーファスの列車も同様だ。
すれ違おうとしていた二つの列車が闇に飛び込む。列車が出てくることは、なかった。