第三一話 ヘルプレス・クイーン
地面から振動が伝わってくる。
デザートラインが巡航走行から高速走行に切り替えられた証拠だ。そんな中、広大な農園の小屋の影で、アンはハワードを前に詰め寄っていた。
「どういうことなのじゃ。そんなことがこれまでも罷り通って来たのか」
アンは、マーガレットフリートが最下級の市民の一部を車両ごと葬り去ろうとしている、という現実に怒っていた。女王である彼女は、これまでそんな話を聞かされたことはなかったし、そのような非道が公然と行われているとは、夢にも思ってこなかった。
「これは事実だ。車両を建造しなおせた時代であれば、必要はなかったが。車両が直せなくなれば、人が住める場所は減る。全員が住む場所が確保できないのであれば、いらぬ者から捨てられる。それが非道であることは皆分かっているのだ。だが、他に方法がないのであれば、理想よりも現実を選択する他ない」
ハワードも、それが許されることだとは思っていない。他に選択があればそれを提案していただろう。皆、そうだ。
だが、もともと不満の多いデザートラインの生活だ。生活環境の確保もままならないとなれば、内部から崩壊の引き金にもなる。もっとも、身内や知り合いが棄てられた者が出れば、それも不満となって蓄積されることになる。故に、放逐される市民には、旅団に残る者達に狩根が残らぬよう、慎重に選ばれていた。
「なんたることじゃ」
アンも、理屈では理解できた。それでも、感情は割り切れなかった。
「そこまでなのか。我が旅団の車輛は、そのようなことをせねばいかん程、虫の息なのか」
「実際の処、そうだ。そして、ほとんどの旅団のデザートラインが同じ問題を抱えている」
ハワードが知る限り。
「だからこそ、その問題を抱えていない、アイアンリバーの特異性が、際立つ」
その問題を抱えていない唯一の旅団が、ここ、アイアンリバーだった。その理由は、ハワードにも分からない。コチョウの能力によって、最近作られたばかりの車両を使っているからだなどということに、想像もつく筈もなかった。
「私はその話を一言も聞いておらんかったぞ? 先のフェリーチェル女帝との会談で、真っ先に教えを乞うべき話題じゃったろうに」
アンの憤慨は、彼女自身には、当然のことのようにしか思えなかった。もし聞けていたとしたら、こんな事件は起きていなかっただろうと思えば、情けないやら、口惜しいやらで、我慢がならなかった。
「それを聞かれても、フェリーチェルさまには答えられなかったと、スズネは思います」
少し離れてやり取りを聞いていたスズネが、申し訳なさそうな表情で、口を挟んだ。スズネは、彼女の性格から、思います、という言い方をしたが、実際には、断言できることを、スズネは知っている。
「何故じゃ? アイアンリバーだけが対処できたとして、良いことあるとは思えんぞ?」
と、アンに語気を強められたとて、
「お師匠さまにしか分からない話だからです。フェリーチェルさまには分からないのです」
スズネには、フェリーチェルには答えようのない質問なのだと答える他なかった。
「それは、誰じゃ? お師匠さまとは?」
その言葉に、アンはさらに食いついた。何としてでも聞かねばならないと決意しているように、視線はスズネを捉えて離さなかった。
「コチョウ、といいます。スズネのお師匠さまです」
もとより、スズネにも隠すつもりはない。すんなりと答えた。
「コチョウ」
と、アンもその名を口にする。軽い眩暈と、脱力感に、彼女は思わず座り込みそうになった。
「成程、そういうことだったか。彼女なら可能かもしれん。確かに他に可能な者もいまい」
ハワードも納得した。アイアンリバーにコチョウが関わっていることは既に理解していたし、アイアンリバーに纏わるすべての不可解な謎が、すべてコチョウ由来なものだとすれば、ある意味もっとも説得力のある話にも思えた。
「だが、他の旅団がかのフェアリーに協力を求めたところで、引き受けてくれんのだろう」
「どうでしょう。お師匠さまは気紛れな方です。スズネには、お考えは推測できません」
ハワードの推察に、スズネはかぶりを振った。正直に言って、コチョウの行動は、スズネには、本当にまったく予測が付かなかった。考えがあるのか、ただの気の迷いなのかさえ、理解できる気がしないのだ。
「そうかもしれん」
ハワードも頷く。彼にも、それは何となく分かる気がした。
「じゃが、あのフェアリーにしかできんのであれば、何としてでも、救ってもらわねば」
ただ、アンだけがそんな焦燥を言葉にした。彼女は気真面目で、そして、優しすぎた。
「そのことであれば、フェリーチェルさまに相談いただくのが良いのでしょう」
と、スズネが静かに笑う。
「お師匠さまと、対等に会話が成り立つ方は、他にはおられないかと、スズネは存じます」
「ほほう」
むしろその話の方に、ハワードは関心を覚えたようだった。コチョウにまともに耳を傾けさせる人物が、存在していることの方が不思議だと言いたげに、彼は思案声を発した。
「なんとも奇異な話だな」
「スズネも、そう思います。ですが実際、お師匠さまにとって、フェリーチェルさまだけは別格なようなのです」
小さく頷いたスズネも、ハワードの感覚に同意した。弟子を名乗ってはいるが、彼女も、コチョウを理解できるようになれるとはとても思えなかった。
そんな風に話題が横道にそれ始めた時、
「アンちゃ~ん」
と、アンを呼ぶ妙齢の女性の声が畑の方から聞こえてきた。エラ・レドナンという名の女性の声だった。アンが畑を手伝っている、レドナン夫妻の奥さんの方だ。
「サボってすまん。こっちじゃ」
小屋の影から出て、エラに呼ばれる声に、アンが答える。エラはその声に導かれるように、すぐにやってきた。やや恰幅の良い、いかにも農家の嫁、と言った風な女性だった。
「いいんだよ。今日はもう手伝いはいいから。どうするんだい? 下宿に帰る? なんならうちにいらっしゃいな。振動が凄いだろ? これから戦闘になるってことさ。危ないから、帰るなら急いだ方がいいよ?」
確かに、地面から伝わってくる振動は、だんだん大きくなってきている。アンも、間違いなく、アイアンリバー全体が臨戦態勢に入っているのだろうと理解した。
「そうじゃな。今日は、お邪魔させてもらっても良いかのう。下宿に帰ると一人じゃ。隣の部屋にハワードがいると分かっておっても、落ち着かんでのう」
本音を言うと、アンはデザートライン同士の戦闘が嫌いだ。そんないざこざは世界からなくなってしまえばいいと思っている。それ以上に、もし砲弾がこの列車に飛んできて、レドナン夫妻が被害を受けたらと思うと、不安だった。
「そうかい。うんうん。分かるよ。あたしらも、戦の最中は、怖いとは思うからね。さあおいで。今日はもう家に籠ろうじゃないか」
エラの言葉を裏付けるように、農夫の男性も畑道具を片付けるために抱えて小屋へと歩いてくる。エラよりも細身で、背が高い中年の男性だ。名前はジャック・レドナン。エラの夫で、畑の持ち主だ。
「お待たせ。帰ろうか」
ジャックの声は優しい。いつもそうだ。レドナン夫妻は気さくで、素朴な、お人好しとも評せる程の人柄だと、アンもずっと感じている。
「うむ。今日はお世話になるのじゃ。エラに誘って貰ったから、お言葉に甘えたくての」
アンが答えると、
「おお、そうか。それがいい。そうしなさい」
ジャックもにこやかな顔でアンが彼等の家に泊まることを喜んだ。
「では、お二人を、お任せしても宜しいでしょうか?」
スズネだけは、一緒にいることを辞退するように、ジャック達に告げる。アンやハワードも、そんなスズネの態度を不思議には思わなかった。スズネの役目はアン達の護衛だけではない。旅団全体の戦闘時ともなれば、出撃していかなければならないこともあるのだ。それは分かっていた。
「気を付けるのじゃよ。余計なお世話とは分かっておるが」
アンが身を案じると、
「はい。ありがとうございます」
スズネも、笑顔で礼を言った。
「頼んだよ。こういうときは、あんた達が頑張って車両の安全を守ってくれないとね」
スズネの立場は、レドナン夫妻も知っている。エラが、スズネに発破をかけるように応援した。
「お任せください」
それにも笑顔で応じ、スズネは身を翻してその場を辞していった。本来ならばアンが救うべき民を救う為、アイアンリバーが戦おうとしてくれている。それがアンには痛かった。
「何ということじゃ」
何もできない自分に、アンは微かに呟いた。