第二四話 ファーム・フィールズ
モンスターの襲撃があったその日は、結局アン達がその戦闘の余波を感じることはなかった。敵を追い払う為の砲撃も行わず、アイアンリバーの車列は走行を続けた。
アイアンリバーが目指している方角はアン達には分からない。デザートラインが、ひとところに留まることが少ないのは確かで、常に居場所を変えて走行し続けるのは、略奪旅団の襲撃リスクを減らすためだということも、世の常識だった。
兎に角、アン達の一夜は平穏で、用意された下宿で不自由なく睡眠をとることができた。夜半前に通りの方から騒ぐ声が聞こえてきたことがあったが、どうやらモンスターの襲撃を退けた冒険者達が束の間の勝利に酔いしれているだけのことのようだった。
翌朝を迎え、アンとハワードはスズネに案内され、商業区の列車の通りを歩いた。通常、デザートライン旅団ではどこでも、列車間の移動には、専用の小型車両が用いられているが、アイアンリバーには、そう言った乗り物の乗降を行う為のタラップが存在していない。そのことに気付いたアンは、不思議に思い、スズネに歩きながらその理由を問いかけた。
「どうやって列車間を移動しておるのじゃ?」
「まだ、説明していませんでしたね」
もっともな問いだと、スズネも認める。その問いに答える為に、前提として説明しておかなければならないことがあるといった素振りを、彼女は見せた。
「アイアンリバーには、魔術研究所が、あるんです。アーケインスケープ、といいます」
といっても、実のところ、アイアンリバーが現実世界に出てくる前の実態は、スズネもよく知らない。少なくとも、現在のアーケインスケープはアイアンリバー内の魔術の権威でありつつ、人々の生活の基盤を魔術で支える、を理念として活動を続ける、半慈善団体であるという認識をしておけば間違いなかった。当然、デザートライン旅団としてのアイアンリバーの中では、アーケインスケープの評判はすこぶるいい。
「アーケインスケープが、事故もなく、利用も簡単な、魔術ポータル網を、各列車を繋ぐ移動手段として、提供してくれています。とても、便利です」
「魔術か。マーガレットフリートにも魔術院はあるのじゃがなあ」
マーガレットフリートのそれは、市民達の為のものではなく、市民達を効率よく管理する為の、支配層の為のものという性格が強い。あまり人々の生活に寄与するということはなかった。
「これから行く農園にも、一人常駐されています。魔術に頼らない、農園システムの、研究を、されていますよ。やはり、魔術に頼りすぎるのも、長い目で見ると、作物にとって、よくないそうで。スズネには、難しすぎて、よく分かりませんが」
と、スズネは笑う。実際の処、アイアンリバーにおいて、アーケインスケープは必要に重要な役割を担っている。本来人の身では短時間でも危険な、腐れた野外でも冒険者達が活動できるのは、アーケインスケープが力を貸しているからだった。それがなければ、そもそも、アイアンリバー内の社会は、とっくに崩壊している。
代わりに、アーケインスケープは、野外から冒険者達が持ちかえった様々なものを研究することができていると言い、自分達にも恩恵が返ってくることだと嘯く。ときに彼等自身も野外の探索に出向くくらいに、世界の荒廃に対しても、アーケインスケープは、極めて高い関心を寄せていた。
「さあ、着きました」
そんな話をしているうちに、通りの脇の、広場のような場所にスズネはアンとハワードを連れて到着した。広場の地面には装飾のような鈍い銀色の円盤が埋められていて、それこそが車両間を往来する為のポータルだった。
「スズネの傍に、乗ってください。スズネが、起動しますので」
スズネが先に円盤の上に進み、手を差し出す。その手を掴みかけたアンを、ハワードが腕で制止し、自らの半歩うしろに押し留めた。
「先に聞いておくが、転送失敗の危険はないのだな?」
そこは彼としては譲れないところだろう。スズネの誘いに疑問も持たずに乗ろうとしたアンとは異なり、ハワードは慎重だった。
「はい。御心配には、及びません。このシステムが、設置されてからこれまで、一件の事故も、起きてはおりません」
スズネの声は変わらずに穏やかで、ハワードの慎重さにも、当然のことと理解を示した。彼女はただ小首を傾げると、
「デザートラインよりも、よっぽど歴史のある、魔術的な仕組みだと、思われますが?」
とも笑ったが。それは間違いのないことだった。同様な仕組みは、浮遊大陸でも移動手段として多数使用されていた。だが、それはかつて人が空に置いてくるしかなかった筈の技術であることも、ハワードは知っている。空の人々が浮遊大陸を捨て、地上に回帰した時には、すでに地上には、デザートラインをなんとか実用化するだけでもやっとの資源しかなかった。そもそも、地上にデザートラインを建造できるような設備などなく、そこから準備するだけでも辛うじて、というありさまだったことも、自分で体験したこととしてハワードも覚えていた。デザートラインの運航に、直接関係ない付加技術まで保存する余裕は、当時の社会にはなかった。体系だった魔術さえ、最早過去のものだ。空に上がる術を失った人には、失伝された技術だ。正確には、浮遊大陸には、今でも眠っているが、それは現在の人々には手の届かないものだった。
「そうか。であれば、問題ない」
だが、ハワードはそれらの疑問をすべて飲み込んだ。アイアンリバーは何処かおかしいのは確かだが、その存在そのものが幻想のようなもので、何処からを疑問視すべきなのか、あまりにも疑問自体が荒唐無稽で図りかねたのだ。
「あ、そうでした」
ハワードが納得した訳でないことは、スズネも気付いていたようだった。そんな彼女もそれ以上、転送魔術については話さず、話題を変える、と示すように声の高さを変えた。
「ひとつ注意をば。農園列車は、車両以上の広さの畑を画する為、特殊な魔術フィールドで覆われております。慣れないうちは、あまり遠くを、長く、見つめられませんよう。たまに、目を回す人が、いますので」
「う、うむ。気を付けよう」
アンはやや不安に駆られた。果たしてポータルを抜けた先にどのような空間が広がっているというのか。アイアンリバーが、彼女の常識では推し量れないことは既に身に染みているように思える。何があっても不思議ではないが、それだけに怖い、とも感じた。
「ふふ、では参りましょうか」
そんなアンを面白がるように、もう一度スズネが手を差し伸べる。怯えていてもどうにもならないと、アンもその手を握り返した。
引っ張られるようにアンも円盤の上に収まり、ハワードもすぐにその傍に立った。そして、周囲から一度だけ唸りのような音が聞こえてきたかと思うと、
「着きましたよ」
というスズネの声を、アンは聞いていた。どこか遠くから聞こえてくる、ぼんやりとした夢現のように。
というのも、自分の視界に飛び込んできた景色が、とても信じられなかったからだ。一瞬視界がぼやけたかと思った次の瞬間には、アンは、列車の中ではあり得ない程に、奥にも、左右にも広がる、農園と牧場の景色の中に立っていた。
「これは……どういうことじゃ?」
アンの呆然とした声と、
「拡張空間か。これも遺失魔法だな」
興味深そうに呟くハワードの声が重なった。
「そうなんですねえ。アイアンリバー以外の世情には、とんと疎いもので」
ハワードの言葉にはやはり正面から答えず、スズネは微笑むばかりだった。アンもハワードの疑問にはあまり関心を寄せず、周囲に広がる畑を眺め回した。
「見たことがない植物ばかりじゃ。それになんという広さの畑じゃ。これが皆食えるのか」
見渡す限りに広がる農園は遠くが霞んでいて、正しく広大という感想以外のものがアンには思いつかなかった。何という豊かさであることか。彼女が知るマーガレットフリートの農園車両は――世界のデザートライン旅団と比べても、実際には、旅団の規模以上の豊かさを誇ってはいるのだが――みすぼらしいものに思えてきた。
「土じゃ。潤いのある土じゃ」
円盤の外にふらふらと歩み出て、畑の範囲外の土を、アンが素手でひとすくいする。黒々として湿った土の手触りが心地よかった。
「私も、しばらくここで働けんじゃろうか?」
思わず、アンはスズネにそう問いかけていた。そこに、自分が求めている、それが何なのかは分からないものの答えがありそうに感じられたのだ。
「聞いてみましょうね」
と、スズネも頷く。もしそれをアンが望むのなら、そうすればいいと、彼女はアンの希望を肯定した。
「そうだな。良いかもしれん」
ハワードも、アン自身が農作業で汗を流すことを望むのであれば、それは喜ばしい考えだと賛成した。
「畑を手伝うも良し。牧場もいいかもしれん」
畑の向こうの牧場で、羊が草を食んでいた。