第二二話 シビル・ライフ
アンとハワードがスズネに案内された部屋は、商店の片隅にある、二階建ての建物の二階だった。部屋には建物の中から上がるのではなく、外観を回り込んで裏手にあった、金属製の階段を上がってそのまま至る構造になっていた。
扉から入ると、中は一間の部屋があるだけで、台所も手洗いもなかった。
「ここに住むのか?」
アンは流石に不安を感じ、スズネに疑問の視線を向けた。ハワードは部屋に入って家具を確かめて回っており、その疑問に口を挟むつもりも、同意するつもりもないようだった。
「この列車では、皆様、こういった暮らしをなさっていますよ?」
と、スズネが笑う。その微笑には屈託も陰りもなく、少しの問題だとも思っていないようだった。
「車両の広さは有限です。皆で広々と暮らせる環境は、望むべくもありません」
「う、うむ。そういうものか」
アンは、その広々とした暮らし、をマーガレットフリートでは、物心ついてから、ずっと続けてきた。そんな彼女を眺め、ハワードも、ようやく会話に加わる。
「マーガレットフリートの一般階級の自宅よりも上等だ。パイプ剥き出しの部屋でもない」
彼の言葉は事実だった。マーガレットフリートでは厳しい階級社会が形成されている。最上流の階級の者の生活と、一般階級と呼ばれる、所謂最下層の労働階級では、その暮らしは、比べることもナンセンスな程の差があった。
「それはそうじゃが」
無論、そのことはアンも知っている。実際に一般市民の部屋に足を踏み入れたことはないが、知識としては理解していた。とはいえ、自分がそれに近しい暮らしをするとなると、いきなり順応できるのか、心配にもなる。
「私には、経験がないことばかりに、自分が粗相をしないか心配にもなるのじゃ」
「粗相か」
と、ハワードは笑った。
「粗相などという程、高尚なものでも、ありませんよ?」
と、スズネも笑った。彼女はアンにひとまず部屋の奥に進むよう、手振りで促しながら続ける。
「ふたつ隣の部屋に、スズネもいます。お困りでしたら、いつでも、声をかけてください」
「う、うむ……そうか」
曖昧に答えて、アンがもう一度室内を見回す。部屋の中には、一人分のイスとテーブル、一人分のベッド、それに、個室用と明らかに分かる小さなクローゼットが置かれているだけだった。
「じゃが、どうすれば良いのじゃ? これではハワードと交代で生活せんといかんのじゃ」
「まさか。夫婦でも親子でもない男女を、同じ部屋に住まわせるような、そのような無体な話は、スズネもしませんよ?」
スズネの答えは単純だ。
「隣のお部屋が、ハワード様の、その隣が、スズネの住まいです。ひとり、一部屋、です」
と。確かに、その建屋の外観では、その三部屋だけでなく、もう一部屋分、二階には入口の戸が一列に並んでいる。
「もう一部屋は、空き部屋じゃろうか」
と、アンが問えば、
「いいえ。そちらには、エノハ、という者が住んでいます。今は、お仕事中ですから、フェリーチェル様のところに、エノハはいますが」
スズネは静かにそう説明した。それを聞いて、アンとハワードは顔を見合わせた。
「エノハ女史か?」
その名であれば、アンも知っている。というか、通信越しではあり、姿こそ見たことはないが、会話したこともある。マーガレットフリートとアイアンリバー間の階段の時にも出席していた、アイアンリバー側の、アンの認識で言えば最上流階級の人物だ。
「なぬ? まさか」
信じられなかった。市井の民に混じって、このような質素な暮らしをしているというのか。
「政府車両で暮らしているのではないのか?」
驚いたのは、流石にハワードも同様だった。本当だとすれば、なんと不用心なことであることか。
「ふふっ。アイアンリバー内の猛者達でも、エノハに勝とうとするのは、相当の努力を、要することですから。それはもう、大変なことです」
スズネとエノハの二人は、以前に、コチョウから強制的に“強さ”を分け与えられたことがある。それだけに、実力面ではコチョウには遠く及ばないが、とはいえ常人と比べれば、あまりの実力を身につけさせられていたと言って良かった。おまけに、コチョウの手引きで、二人は年を取るということもない身にされており、衰える、ということもなかった。
「ふむ。陰陽道なる業をつかう、とは聞いたが。それ程の使い手とは興味深いな」
スズネの説明に興味を示したのは、ハワードの方だ。気持ちは分からないではないという顔をしたスズネだったが、口から発された言葉は、警告ともとれるお願いだった。
「列車内での決闘は、お控えくださいね」
当然のことで、どこのデザートラインでもそのあたりの事情は似たようなものだ。車両そのものが一品物で、替えの利かない遺物のようなものだった。現在では、デザートラインを製造する技術も、資源もない。そのあたりの事情は、ハワードは誰よりも熟知していた。
「分かっているとも。そのような無法には走らないと誓える」
と、頷いた。
「ふふ、かたじけなく存じます。ご理解、感謝します」
そんな風に、スズネは微笑んで嘯く。ハワードがどういう出自の人物なのか、既に把握しているようだった。
「さて、お腹は空きませんか? そろそろ日暮れ前です」
だがスズネは、何処までハワードのことを理解しているのかは明らかにせず、かわりに、アンとハワードの二人を夕食へと誘った。
「おお、もうそんな時間じゃったか」
あまりにアイアンリバーの車内が明るく、アンは時刻に気付いていなかった。しかし気付いてみれば確かに腹の虫は今にも騒ぎ出しそうにしている。
「うむ。ここの民がどのようなものを食しておるのか、興味も湧いてきたのう」
「おそらくは、十分、ご期待に沿えると思いますよ?」
スズネがまた笑った。彼女の所作は静かだが、どこか悪戯の仕掛けを、いかにもどこかに隠したといった風の意地悪さを僅かに覗かせていた。
「ハワード様も、如何でしょう」
「うむ。アンにひもじい思いをさせておくのも不憫だ。ご一緒しよう」
ハワードの頷きに、
「ありがとうございます」
スズネもゆっくりと頷き返した。
「一階が酒場になっております。今日の夕餉は、そちらにご案内させていただきます」
「ほうほう。時に、メインはなんじゃ? 芋粉か? 焼き菓子か?」
アンが聞く。どちらも、どこのデザートラインでも定番の食事だ。潤沢に食糧が溢れている訳ではないコラプスドエニーでは、そんなぼそぼそぱさぱさした食事でも、腹が満たせるだけ有難いものだった。
「お好きなものを。価格は気にせず、食べたいと思ったものを、選んで下さいな」
そんな風に答えてから。
「とりあえず、参りましょう。入ってからの方が、意味が分かりやすかろうと、思います」
「う、うむ」
確かに、アンには言われている意味を解釈しかねた。荒廃が進むこの世界では、選ぶほど食事に種類がないことは、子供でも理解できていることだ。
そんな彼女に微笑みを投げただけで、スズネは二人を伴い、部屋を出ると階下への階段へと向かった。酒場はすぐ下で、到着するまでに時間は要さない。スズネが扉を開き、それに続いてアンが酒場の戸を抜けると、これまで経験したことがないような、強烈で芳醇なにおいに、鼻孔をくすぐられた。
「む、なんの香りじゃ、これは」
彼女が驚くのも無理はなかった。何しろ、アンは、これまでの人生で、肥沃な土壌でしか育たないような、香りの強い実をつける植物、というものを図鑑でしか見たことがなかった。
「おや、メロンですか。ついに育ったのですね」
スズネも、珍しい、という表情になった。車内で育てる試みが行われているのは知っていたが、管理が大変でなかなかうまくいっていないという話を聞いていたからだった。
「だが、こりゃまだ、生ったってだけだな。味がスカスカで客に出せるもんじゃないわい」
店主の返答があった。酒場の中は四人掛けのテーブルが三つと、四人まで並べるカウンターがあり、店主はカウンターの奥にいた。
「む。む?」
そして、その姿に、アンはあんぐりと口をあいて呆然とした。
黒ずんだ日焼けの濃い肌。わさわさと伸びた髭。ずんぐりとした体格。
店主は、正真正銘の、ドワーフだった。