第一九話 アンリーゾナブル
無事、アンとハワードはアイアンリバーに辿り着いた。二人はそれが、リリエラが囮になってマグニフィセントの目を引いてくれたおかげだということも理解していた。
アイアンリバーは巨大なデザートライン旅団で、小規模旅団を抱え込んでその規模を拡大させている故に、車体には統一感がなく、アンにはその混沌とした車列が、興味深く見えたようだった。
「アン女王」
フェリーチェルは二人を快く歓迎したが、中央帝宮とも呼ばれている、彼女自身が日々を過ごしている車両には入れなかった。彼女は甲虫型デバイスではなく、人形の本体でアン達を出迎えたが、
「あなたを特別視はしないよ」
と言いながら案内したのは、アイアンリバー内での食糧、道具などの売買が行われている、都市で言えば商業区に当たる列車だった。
「なんと」
アンがその車両の中でもっとも驚いたことは、かつての市場と呼ばれた都市区画のかくやという活気に満ちた、人々の姿がそこにあったことだった。他の旅団が、長いデザートライン内での暮らしの中で忘れ去ってしまったものが、そこにはあった。
「なんじゃ、これは」
見たこともない果実が売られている。古い図鑑でしか見たことがない魚介も取引されている。そこが列車の中であることを忘れそうな通りが、その列車内には再現されていた。
「すべてアイアンリバーの中のどれかの車両で栽培や養殖されているものだよ。安全検査はちゃんとやってもらってるから、安心して食べてもらって大丈夫」
そんなアンを、自ら案内するフェリーチェルは、さもそれが当然の風景だと言わんばかりに平然と説明した。彼女も他の旅団の、困窮しがちな暮らしぶりを知らない訳ではない。そして、実はちょっぴり悔しいとフェリーチェルが感じているのは、この暮らしを可能にしているのが、他でもない、アイアンリバーのデザートライン車両が優秀であるがゆえの恩恵だということだった。つまるところ、コチョウのおかげ、ということだ。
その不満は常にフェリーチェルの心には蟠っていたが、彼女がそれをアン達に打ち明けることはなかった。それをアン達に話したところでどうなるものでないし、そもそも、それ以上の問題が、現状、山積みだったからだ。
「あなた達も、ここで暮らしてもらっていいよ。私は、アイアンリバーの市民全員の顔と名前を把握している訳じゃない。それどころか、ここや、農作物や動物を飼育しているひと達のほとんどを個別には知らない。この場所に、他の旅団から偶然誰かが逃げ込んできたとか知らないし、報告がない限り、いちいち把握もしない。私は何も知らないよ。知りようもない。マーガレットフリートから確認の連絡が入っても、そう答えるしかないから。私は、あなた達のことは、知らない。ここで暮らすなら、その間は、下宿先とか、自分達で何とかしてね。逆にここが嫌だって言われたら、あなた達の居場所はアイアンリバーにはちょっと用意できないから、荒野を放浪してもらうしかないんだ。理解してくれる?」
という問題の方を、フェリーチェルは伝えた。
公然とアン達をアイアンリバーに匿えば、どうやってもマーガレットフリートとの軋轢の原因になる。その為、二人をアイアンリバーに収容するのであれば、嘘でも私人としてアイアンリバーの市井にいつの間にか紛れ込んでいたことにするしかないのだ。
フェリーチェル達中央帝宮が感知しないことであれば、知らないと言っても建前上嘘にはならない。フェリーチェルが考える限り、それ以外に、穏便にアンを収容できる選択肢はなかった。
「理解した。配慮に感謝する」
と答えたのはハワードだ。彼もそれがもっとも現実的な回答だと理解できたから、フェリーチェルがぎりぎりの譲歩をしたのだと納得した。
「我々は誰でもない一平民として暮らそう」
「う、うむ」
アンは、いまひとつその会話の意図を読み取り損ねたようだったが、それでも場の雰囲気をこわしたくないと考えたのか、半分呆けながらも頷いた。彼女はそれでいい、と、フェリーチェルもハワードも、そんなアンを笑わなかった。
「じゃ、そういうことで。あとは適当に自分達でお願いするね」
そう言い残し、フェリーチェルはアンとハワードをその列車内に残して去った。アイアンリバーの列車間は、転送ポータルで繋がっている。車外に出ることなく、彼女は中央帝宮に戻れるのだった。
「しかし」
アンは、ぽつねんと、市場の通りを模した車内に立ち、呆然と遠くを眺めた。道は何処までも真っ直ぐに白く伸びていて、両脇には商店が煌びやかに軒を連ねていた。
「これはまるで、書物に残る、浮遊大陸にあったという、都市文明じゃ。どうなのじゃ?」
「いや、違うな」
ハワードも、同様に通りを眺める。
「これは、地上で国家が繁栄していた頃の都市の姿なのではないかと思う。古のアイアンリバーそのものの再現なのかもしれん」
そして、アンの疑問に答えてから、彼女を促して歩き出した。二人はアイアンリバーの商業区では目立つ、荒れ地歩きの為の服装をしていたが、周囲の人々が、彼等を不審がる様子もなかった。
「通常、不可能な話と言っていいが、コマチが関わっているとすれば不思議ではない」
「コマチとはそれ程凄いお人なのかの」
アンはその名を知らない。ハワードの話には理解が及ばなかった。正直、現実感もない。
「俺も実際、コマチについては、書物で読んだ知識以外、知っている訳ではないが、コマチが生きた、当時の記録を総合的に考えれば、あり得ない話ではない」
ハワードも、自分で話していて半信半疑であった。歴史書に記されていた内容を思い起こした限りでも、常人に理解が及ぶ人物ではなかったのだろうということが、思い出されるばかりだった。
「お師匠さまが、何処で聞いておらるかも分かりませんよ。そのあたりにしておくことを、お勧めいたします」
ふと、通りを歩く二人に、そんな声が掛かった。見れば、遥か昔に滅んだ葦原諸島国の民族衣装と思しき衣を纏った少女が、二人に歩み寄ってきたところだった。
「スズネ・ササノベ、と申します。スズネとお呼びくださいな」
葦原の風を纏うのは、少女の体裁だけではなかった。腰にはかつて蘆原の地で盛んであったという片刃の曲刀の大小を帯びている。その刃物が飾りでないことは、スズネと名乗った少女の所作から、ハワードにも分かった。
「失礼ながら、葦原諸島国で伝わっていたという、剣術を修められているのだろうか」
そのことに感嘆を抱き、ハワードが抑えきれない関心を口にした。それを問われたスズネが柔らかく微笑む。
「ご存じの芸とは、違うかも、しれません。お見せする機会が、はて、ありますことやら」
と、彼女は惚けた。結構な自信だと、ハワードも舌を巻く。もっとも、怖い、とは思えなかった。刃物をいたずらに振り回すような性根ではなさそうだと察したのだ。
「僭越ながら、お二方の下宿先の世話を、させていただきたく、案内させていただきます」
そして、スズネが二人に声を掛けた目的はそれであった。誰から頼まれたか、ということを言わなかったのは、スズネなりに気を利かせたのか、そういう約束になっているのか。
「アン様。ハワード様。幸いアイアンリバーではお二方の名は、特段変わったものでもありません。ご自身の出自を、自ら口にされなければ、自然に、市井に溶け込めるでしょう」
そんな風に話しながら、スズネは堂々と商店が並ぶ街路を歩いた。実際、アンやハワードよりも、スズネの方が目立っている。それでも、彼女の姿に見慣れている住民の方が多いのか、スズネが視線を集める様子もなかった。まったく視線が向けられないという訳ではなかったが、彼女に注がれるそれは、ほとんどが見知った顔を見つけた者が見せるようなそれでしかなかった。
「スズネちゃん」
子供が一人、駆け寄ってくる。
「どうか、しましたか?」
スズネが屈みこんで聞き返す。その風景も日常といった風に、街の注目を集めることはなかった。本当に、アイアンリバーでは、スズネの姿も、見慣れたものと認識されているのだ。
「忍者さんたち、さいきん来ないの」
子供が返した言葉に。
「忍者?」
「忍者?」
アンとハワードは、互いに顔を見合わせることを止められなかった。一応、物語では残っているが、今のデザートライン旅団で、実在した集団であるとは信じられていない。というより、ハワードが人間であった時代の頃には、既にそうだった。
「ああ。皆さん、忙しいんですって。またお休みの時に、遊んでもらって。ね」
しかし、スズネはその実在が、さも当然のことのように言う。
「どうなっとるのじゃ、この旅団は」
アンには、常識が、分からなくなった。