第一七話 スフィンクス
リリエラが身を屈めたのと、彼女の頭上すれすれを、翼をもった四つ足獣が掠めて飛んだのはほぼ同時のことだった。
エリスを含めたマグニフィセント達も多くはその襲撃に反応し、難を逃れたものの、それでも数人が跳ね飛ばされた。リリエラが思っていたよりも、彼女をすぐ傍で包囲していたマグニフィセント達の頭数は多かった。
「乗ってください」
数メートル先まで超低空で滑空した獣がリリエラに声を掛ける。リリエラはそれが誰なのかは知らなかったが、頼るほかにこの状況を脱する術はないと気付いていた。
「誰だか知らないけれど助かる」
マグニフィセント達が乱入者の正体を確かめようと慎重に行動してくれたおかげで、逃げ出す隙ができた。リリエラは獣の背に飛び乗り、彼女の安全を確かめることもせずに、獣は空へと再び舞い上がった。
力強く、風を裂く音が、リリエラの耳朶をうつ。それは打ち付けられる鈍器のようでもあり、身を切り裂く刃のようでもあった。それ程までに、獣は急加速をした。リリエラがパペットレイスでなく、生身の人間であったとしたら、その加速に耐えられなかったかもしれなかった。
獣の体は獅子で、胸部から上は女性だ。一対の鷲の翼を備え、そして、人語を操った。
「スフィンクスのシャリール」
十分に高度を稼いでから、飛ぶ速度を緩めながら獣は名乗った。風の音は弱まり、大声を出されなくても、リリエラにも聞きとれた。
「パペットレイスのリリエラ」
リリエラも名乗り返すが、
「知っています。所属のないパペットレイスのリリエラですよね」
シャリールはただ、静かに笑っただけだった。シャリールは、リリエラが誰なのかを分かっているからこそ、彼女の窮地を救ったのだ。
「まずは私達のコロニーへ向かいます。話があるんです」
その理由は、どうやら、シャリール側にあるようだった。
「ええと。私に?」
無論のこと、リリエラ自身には、そんな風に名指しで頼まれごとを持ち掛けられるような、有名人の自覚も、名うての自負もない。何故自分なのか、腑に落ちないのも仕方がないことだった。
「あなたがケミカルマンサーだからです。今この世界は、化学の力を必要としています」
そのことも知っている、と言いたげに、シャリールは底知れない声色でリリエラを笑った。
「ケミカルマンサーは希少な術者です。あなたほどその技巧に通じたひとを、今から他に探すのは苦労することは分かりきっています。そういうことで、納得してもらえますか?」
ある程度は。リリエラは曖昧に頷いた。とはいえ、ケミカルマンシーは派手な魔法でもない。例えていうのであれば世界全体を救えるような大魔法は、ケミカルマンシーには存在しないのだ。世界に必要とされていると聞いても、リリエラにはにわかに信じられなかった。
「見てもらった方が早いです。ですから、まずは私達のコロニーへこのままお連れします」
と、リリエラの無言の疑問にシャリールは答えた。何でもお見通しという訳だ。その様子に、コチョウとは別方面の底知れなさを、リリエラはシャリールに感じた。
「あなたは何処で私のことを?」
「私達は、かつて人間が、文明の記録を残した、空に浮かぶ地を、コロニーとしています。人語を理解できる者達が、その情報を解読、調査しました。その結果、私達は世界に関して、さまざまな見識を得ることができています。同時に、人がかつて置いていった、幾つかの技術の再現にも成功しました。私自身はただ自分の不安を解消する為に、ひとりではじめた行動でしかなかったのですが、いつの間にか同じような漠然とした不安を抱えていた者達が集い、気が付けばコロニーが出来上がっていました。私達は世界の状況も観測しています。それで、あなたのことも見つけました。あなたは、あなた自身が思っているよりも、この世界にとって、重要な人物です」
シャリールは本当に多くのことを知っているようだった。リリエラも知っていることから、リリエラが知らないようなことまで。シャリールの表情はリリエラからは見えなかったが、きっと超然とした、気品のある表情をしているのだろうなと、彼女には感じられた。
「確かにケミカルマンサーは珍しいわ。でも私は、私の魔術が世界を救えるような大掛かりなものじゃない。私はよく知っているわ」
残念ながらそれが事実だ。ケミカルマンシーは理屈を捻じ曲げて、安定している物質を強制的に変化させる力だ。ただでさえ制御が難しく、大掛かりな術を試みれば、必ず暴走し、大惨事を引き起こすことになるのだ。
「身の回りの現象を起こすので、制御は精一杯なのよ」
「たとえそうだとしても」
と、シャリールは語った。
「いずれ世界を壊す小さなほころびを修復することは、あなたにしかできないことです」
それこそ見てみてもらった方が早いと。シャリールはそう告げると空に浮かぶ地に向かって、速度を上げた。
彼女が向かったのは、浮遊大陸の中でもひときわ小さなもので、もともと国と呼ばれていたというにはあまりにささやかな陸地だけを浮かべた場所だった。島と言ってもいい。樹林に覆われた土地であることは他の浮遊大陸と変わることがないが、集落レベルの居住地をつくるのがやっとで、ほとんど人が住む場所がなかったのではないかと思える程狭かった。
「コアアイランド」
その島が眼下に見える場所まで飛んだシャリールが、リリエラに短く告げる。
「世界の核。コラプスドエニーの五箇所に点在する、テラフォーミングセンターをかつて集中管理していた場所です。その機能は今となっては完全に喪われ、復旧は不可能です。もっとも、セントラルコアのコントロールアーティファクトに封じられていた、かつて神と呼ばれていた、強大な能力を備えた魂を再び封じることができれば直るかもしれませんが、その方法も、魂の行方も分かりません」
そう言って、短く笑い声をあげる。シャリールは、皮肉っぽく、そして、軽蔑するように続けた。
「それが神だというのであれば。ばかげた話です。言葉を取り繕っただけの、ただの人柱ですよ。強力な精神と高い超能力の素質を備えっていたようですが、その娘は、不幸なことに、喋ることはおろか、自発的に動くこともできなかったそうです。脳機能に問題があったと残されています。素質だけで、それを活かす機能を持ち合わせていなかったんです」
とはいえ、シャリールはその、神と呼ばれた魂、を探すつもりはない素振りを見せた。そんなことよりもずっと切実な問題が、差し迫っているのだと言いたげに、彼女は続けた。
「世界が滅びに瀕していることは聞きましたか?」
「……ええ。そんな話をするフェアリーに会ったわ。この時代にフェアリーなんて、どうかしてると思うだろうし、信じられないかもしれれないけれど、でも」
弁解を交えながら、リリエラが答える。そんな彼女を、シャリールは短く声を上げてまた笑った。
「心配しないで。そのフェアリーなら私も知っています。直接会ったこともあります。あのひとは酷いひとだけれど、それでも、コラプスドエニーを崩壊させない為には、あのひとの力がどうしても必要なんですよね。大きなことは、あのひとに頼るしかありません」
シャリールは、コチョウのことならそれなりに自分の目で確かめたことがあると言いたげに語ると口を閉ざした。それは、彼女が、それ以上コチョウのことを語るつもりがないと態度に表したという訳でもなく、ただ単に、コアアイランドを見下ろしたからに過ぎなかった。
そこから上昇してきた者達がいたからだった。両腕の代わりに翼を生やした半鳥半人のモンスター達で、
「セイレーンです」
と、彼女達のことを、シャリールはリリエラに説明した。飛んできたのは、二人とも、雌のようだった。
「エニラとマールといいます」
シャリールが二人の名を告げた声は、突風のような大声で、半分掻き消された。
「シャリールさまあ、ご無事でしたかあ!」
「シャリールさまあ、大丈夫でしたかあ!」
薄く灰色の翼を広げ、半鳥半人の娘達がやってくる。まだほんの少女達なのだということは、親鳥を呼ぶ雛の如き声ではっきりと分かった。姉妹だろうか、リリエラの目では、彼女達の容姿を区別することはできなかった。
「おかえりなさい」
「おかえりなさい」
まったく同じ調子で、二人はシャリールに纏わりついた。先に喋っているのがエニラなのかマールなのかも、リリエラには分からなかった。
「この方ですか?」
「例の方ですか?」
エニラとマールは、半ば呆気にとられているリリエラを見ながら、シャリールに尋ねる。シャリールは無言で頷き、笑い声をあげた。
そして、コアアイランドへと、降下した。