第九話 マッドネス
妖精は地面を離れ、空高く舞い上がっていた。
「いい加減まずいな。本格的に動くとするか」
周囲には誰もいない雲の高さで、独り言ちる。そして、眼下に見えている地面もまた、厚いい雲であれば紛れる高さにあった。荒廃した地上ではなく、鬱蒼と木々が隆盛を誇る浮遊大陸の地面だからだ。
かつて、その地は、ハイエア・マーガレットと呼ばれた。コチョウの真下にはうっすらと灰色がかった、白に近い、歴史的なモニュメントのような幾何学的な建造物が建っており、丁度底面が正方形の四角錘の天辺を切り落としたような姿を見せていた。丁度、ハイエア・マーガレットの中心地に、その建物はあった。
この建物の名は、既にコチョウも確認が終わっている。そして、ハイエア・マーガレットの地には、その建物を中心に、東西南北に、その建物よりも小ぶりな、同じような外観の建物があった。それらはイーストコア、ウエストコア、サウスコア、ノースコアと呼ばれていて、コチョウの真下にある建物が、セントラルコアと呼ばれていた施設だった。
主な機能は当然、ハイエア・マーガレットの地を空高く浮遊させていることだ。もっともそれだけの機能しかない筈もなく、ハイエア・マーガレットの浮遊大陸が緑豊かな地であるのも、その施設が環境を制御している為だ。また、それ付随して資料庫エリアなどもセントラルコア内に存在していて、ハイエア・マーガレットだけに及ばず、コラプスドエニー全体について、ハイエア・マーガレットの文明が認識していた情報が残されていた。その大半はコチョウにも読み解くことができたが、一部まだ見ることができない資料が残っている。資料は魔術的な処理が施された書架に納められており、一部の書架は、コチョウには資料を手に取る権限がないとして、バリアフィールドに包まれてしまっていた。バリアフィールド自体は力尽くで解除することもできるのだが、セキュリティーがはたらいて中の資料を消滅させられでもすれば面倒だ。権限とやらを何とかする方が良いだろうと、短気を起こすことは避けていた。
「しかしな」
コチョウは鼻で笑う。
「愉快じゃないか。破綻した何か、ね。別に破綻してないと、一体何人が知ってるんだか」
おそらく一人は知っているだろう。コチョウはその人物にも、リリエラに目を付けているのと同様、既に目を付けていた。
ハワード・レイ・オースティン。
コチョウは、彼がセントラルコアの管理権限を持っていることも、もう調べ上げていた。故に、わざと自分がアクセスしている痕跡を、施設内に残しているのだ。ハワードも何者かがアクセスしたことに気付いているだろうと、コチョウも考えていた。むしろ、気付いてもらう為にやったのだ。
それに、あの二人と一緒にいる人物。
「あれは面白いな。扱いようによっては使える駒かもしれん」
アン・イライザ・マーガレット・スプリングウインドの名は、コチョウも知っている。ハイエア・マーガレット王家の末裔という肩書も、何処まで真実なのか、ほとんどの人間が真偽を知らないところまで。当然ハワードはその答えを知っているだろうが、彼がアン本人に話すことはあるまいと、コチョウは踏んでいた。真実であろうと、嘘であろうと、ハワードにとってはどちらでも変わらず、アンがマーガレットフリートの女王であることだけは真実であり、それで十分だと考えているとも。
もっとも、あの三人については、フェリーチェルに託しておけば今は問題ない筈だ。コチョウは彼等を抱え込むつもりはなかった。コチョウには他にやっておきたいことはあったし、何より、アン絡みの面倒を抱えたくなかった。マーガレットフリートを潰してしまえば話が早いが、現時点で他のデザートラインに警戒されるのは早すぎる。
コチョウは、兎に角と、ハイエア・マーガレット上空を離れる為にテレポート呪文を口にしようとする。その瞬間、背後から、邪魔が入った。
『待ちなさい』
甲虫型の飛行ゴーレムが飛んできて、コチョウの前に回り込んできたのだ。マジックビートルと呼ばれている、自我を持たない、遠隔操作型のゴーレムだ。
『やっと追いついた。ちょっと戻ってきてよ。このままじゃアイアンリバーとマーガレットフリートが戦争になるでしょ。いい加減にして。こっちはそれじゃ困るんだってば』
マジックビートルから聞こえてきているのは、間違いなくフェリーチェルの声だ。一番面倒臭い奴が、一番面倒臭い方法で絡んできた。コチョウは思わずマジックビートルを叩き壊しかけた。
『……壊さないでね』
と、フェリーチェルの声も低くなる。お見通しという訳だ。
『あなたが無理矢理動けるようにしてくれたおかげで、変な能力が付いたのは感謝してる』
フェリーチェルのマジックビートルは、厳密には遠隔操作ではなかった。人形のまま動けるようになったフェリーチェルだったが、その副次的な効果か、人形の間を乗り移れる憑依能力を得ていたのだ。今アイアンリバーの中にあるフェリーチェルのそもそもの体は、椅子の上で眠ったようにがっくりとなっていることだろう。その間は、フェリーチェルが呼んだ信用の置ける者達によって警護されている。
「暇なのか」
コチョウが言い返すと、
『そんな訳ないでしょ。でも、マーガレットフリートと戦争になることを考えたら、暇とか忙しいとか言ってる場合じゃないんだってば。いいから来て。ちょっと状況だけ私とカインには話してちょうだい』
フェリーチェルの不機嫌そうな反論がさらに跳ね返った。しかしそういう類の文句を聞くのも久しぶりで、コチョウもややおかしくなった。実際、箱庭世界を出てからフェリーチェルとはずっと会っていなかった。
「相変わらずだな」
思わず、コチョウはそんな言葉を口走った。
『お互いにね』
フェリーチェルの声も、昔を懐かしむような、柔和な響きに変わった。
『この一年間、どこで何をしていたんだか。もっともアイアンリバーの皆の暮らしを軌道に乗せるのに忙しすぎて、もう一〇年くらいはたらいてる感覚ではあるけど。だいたい、カインをリーダーとしてまとめる組織づくりを頑張って考えたのに、何が「その椅子は君が座るべきだ」よ。周りの皆も拍手してるんじゃないっての。ああ、もう。思い出したら腹が立ってきた。最近、たまにあなたがうらやましくなるよ、コチョウ』
フェリーチェルの言う、あれ、とはコチョウが箱庭世界を破壊した日のことだった。コラプスドエニーの一ヶ月は三〇日、一年は一二ヶ月だ。つまり、日数で言えば、コチョウが行方をくらましてから、もう四〇〇日近くが過ぎていた。
「やってみろよ。お前じゃ半日で死ぬぞ」
コチョウは笑った。そもそもフェリーチェルにアイアンリバーを見捨てることができないことが分かっていたからだった。
『はいはい、その通りその通り』
勿論、その手のコチョウの意地悪な言動にも、フェリーチェルはすっかり慣れていた。今更言い返しても仕方がないといった風に、フェリーチェルはどうでも良さげな声を上げた。
『いいから、戻って来なさい』
そもそも、コチョウのペースに乗せられれば、頃合いを見て逃げられることもフェリーチェルは熟知していた。その手は食わないと、話を戻す。
「まったく。私にそこまで言えるのはお前だけだよ」
コチョウは負けを認めた。異例中の異例であり、例外中の例外だった。
「ああ、だけどな」
と、コチョウは遥か遠くになんとかうっすらと見える地上の景色を眺めた。
「少し遅くなる。討ち漏らしがいたらしい。あとが面倒だから片付けてから寄る」
『えー……』
げんなりした声をフェリーチェルが上げる。聞こうか聞くまいか悩み抜いた挙句、フェリーチェルは、ままよ、と聞いてみることにした。
『どこに喧嘩を売った訳?』
「インフェルノだったか。だが売ったんじゃない。売られたんだ。砲弾をぶつけられた」
それで無事なのがコチョウというフェアリーの恐ろしいところでもあるのだが。しかし例えそれが事故だったとしても、コチョウが許すはずがないことも明らかだった。
『ああ、あのごろつき集団。弱い者虐めしかしないって聞いていたけれど、あなたに喧嘩を売る度胸があったなんて、驚きね。でも、まあ。それは、なんというか。災難ね』
フェリーチェルも何と答えるべきか分からない、という声を上げた。
「まったくだ。考え事してたとはいえ、ついてなかった」
コチョウが苦笑いを返すと、フェリーチェルは、さも違う、と言いたげに答えた。
『相手がよ。インフェルノの方が』
「握りつぶすぞ」
コチョウは怒ったが、そうはしなかった。