第二〇話
スウリュウ氷海までは、シャリールの翼で五日間の時間を要した。その間、適当に休める場所を浮遊島や地上に無理矢理見つけ、だがそういう場所には漏れなく先住の生物がいたから、それはコチョウが力で排除した。
コチョウが欲する力としては、未だ物足りない。適当に引き裂けるモンスターを幾ら倒したところで、たいした糧にはならなかった。
スウリュウ氷海は、その名からイメージできる通り、極寒の厳しい場所だった。止まない猛吹雪のせいで視界は白く、刺すような冷気が生物の方角感覚を狂わせる。眼下はひらすらにただ広い氷原が広がっていて、分厚い氷に覆われた下が、陸地なのか海なのかも分からない。
「これほどとは」
ガチガチと歯を鳴らし、氷の上をシャリールが歩く。氷海に入ってすぐにこのありさまになった。寒すぎて翼が円滑に動かず、飛べないのだ。
「とんだお荷物だ」
コチョウは皮肉っぽく笑いながら、その前を平然と飛んでいる。彼女には冷気に対する耐性がある。また、猛吹雪に視界が閉ざされようと、方角を失うこともなかった。
「くるんじゃ、なかったです」
スフィンクスは服を着ない。シャリールが寒いのは当たり前だ。それでもなんとか歩けているのは、コチョウが冷気遮断するプロテクション呪文を掛けてやっているからだった。
「今となっちゃもう遅い。引き返せば死ぬぞ」
見捨ててもいいのだが、コチョウはそうしなかった。何だかんだ乗り物として便利だったのもあるが、なにより、話していて反応が面白いから気に入っていた。
「わかっています。うううう」
頷こうとしたが、シャリールはできなかった。プロテクション魔法は肉体的な冷気ダメージを完全遮断してくれるが、寒くない訳ではない。
「スウリュウが見つかるまでもてばいいな」
コチョウは気楽なものだ。そもそも、実利の問題で言えば、氷海に着いた時点で、シャリールはもう用済みだ。あとはコチョウ一人でどうにでもなる。
「みすてないで。おねがいします」
「心配するな。私の薄情さは筋金入りだ」
シャリールの懇願に、コチョウが喉の奥で笑う。シャリールはコチョウの返答を本気にした。
「じょうだんですよねそうですよね。そういってください」
コチョウは吹き出し笑いを我慢できずに腹を抱えた。
「見捨てるんならとっくに置き去りにしてる」
と、答えた。しかし、すぐに真顔に戻った。
「しかし、困ったな。このまま私がスウリュウと対決に入ったら、お前が凍死する」
流石のコチョウもそれは気分が悪い。どこか、シャリールが寒さをしのげる場所を見つける必要があった。
「何かないのか?」
見通せない周囲を見渡し、コチョウは顔をゆがめた。コチョウには超能力がある。吹雪の中を透視するのもお手のものだった。
「おてまをかけます」
少なくとも、シャリール自身はあてにできない。コチョウはやれやれといった飄々とした態度は見せたが、自分で探せ、とは言わなかった。
「不可能なことをさせるつもりはない」
ずっとそうだ。コチョウには不可能な要求で相手を追いつめる趣味はなかった。
そうやって吹雪の中を進み、そろそろシャリールの疲労が限界に近付いてきた頃、コチョウが前進を止めた。
「イグルーがあった。古いが使えそうだ」
シャリールに告げる。丁度それと同時に、体力が尽きたシャリールが大きくふらついて倒れた。もはや、疲れ果てて立てないのだ。
「おい」
コチョウは舌打ちし、自分の姿を変える為に無言で念じた。彼女はフェアリーだが、同時に魔神でもある。彼女は、人間大の魔神としての姿も持っていた。
魔神としては、全身は人間に近い。背中には蝶の翅ではなく、魔神らしい蝙蝠の翼を生やしている。頭部に角などはなく、衣装もフェアリーの時と同デザインのものが人間用サイズになっているだけだ。
彼女は地に足を付けると、シャリールを頭の上まで担ぎ上げた。人間大の姿であってもスフィンクスの体はさらに大きいが、コチョウにとっては軽いものだった。
そして、イグルーまで運び、なんとか入口を通せることを確認してから、コチョウはシャリールを中に放り込んだ。シャリールは気を失っているようだ。このままでは死ぬだろう。コチョウはイグルーの中に燃やせるものを探し、朽ちた木箱の残骸を見つけると、それを木切れにして焚火として燃やした。
「やれやれだ。悪く思うなよ」
と、起きないシャリールを残し、コチョウは一人外へ出る。すぐにフェアリーの姿に戻ると、彼女はイグルーの傍を離れ、上空へと向かった。当然、スウリュウなるモンスターを、探す為だった。
相変わらず視界は白く、普通には目視での捜索は不可能に近い。コチョウは眼力に頼るのではなく、透視の超能力を用いて生物の存在を探した。
いる。
ずっと上空を、蛇のように長い、だが四肢を持った爬虫類が飛んでいる。崇竜。祟められた竜、龍神という訳だ。吹雪よりもずっと低い体温から、冷気を操るドラゴンだろうことも窺い知ることができた。
「強いと良いが」
少なくとも巨体であることは分かった。竜は基本的に体躯が大きければ大きい程強いと言われている。期待はできそうだった。
コチョウは真っ直ぐ上空へと向かった。上空の気流は強く、フェアリーの翅では場所を選ばねば上昇は難しい。以前の教訓を思い出し、コチョウは風の切れ目を縫って飛んだ。
徐々にスウリュウの姿が上空に暗い影のような塊として見え始める。コチョウの中で、ルナが感嘆の気持ちを抱いたのが分かった。
『殺す? 殺せる?』
しかしそれは、スウリュウの威容そのものに向けられた感情ではなかった。それだけの威容を持っている存在を、コチョウが獲物、と捉えていることに対してだった。わくわくしているような、一種の残酷な無邪気さを感じさせるストレートな物言いが、すべてを表わしていた。
「分からん。だが、あのくらいの化け物を食らわなければ、あの人型には勝てん」
コチョウも嘯いて笑った。正直、どの位の強さをスウリュウが持っているのかなど、コチョウは知りもしない。おそらくは天災級の強さなのだろう。
『強いのかな?』
と、チャイルも同調する。
「そりゃ強いだろ。むしろ強くなくちゃ私が困る」
コチョウは本音を漏らした。どうせ糧にするのであれば、相手は強ければ強いほどいい。当然のことだった。強すぎれば勝てないこともあるだろうが、その時は自分が弱かったのが悪かっただけのことだ。
コチョウは静かにスウリュウに接近したが、スウリュウからすれば豆粒に等しいコチョウを、だが、スウリュウも見逃すこともなかった。
緑がかった青の鱗を煌めかせながら体を大きくくねらせ、スウリュウがコチョウを出迎えるように顔を向ける。山のように巨大な顔に、大地の裂け目のように大きな顎が覗く。竜人は、間違いなくコチョウを認識していた。
「おお、久しく訪れる者もなかったが、なんと珍しいことか。妖精ではないか」
低く、燻る雷鳴のような声で、スウリュウはゆっくりと話した。スウリュウが言葉を発するたびに、凍てつく冷気が口から漏れる。その冷気は、耐性がある筈のコチョウの身をも冷やした。
「お前を殺しに来た」
馬鹿正直に、コチョウが言葉で挑戦状をたたきつける。スウリュウは、ただ穏やかに、楽しげな笑い声をあげた。
「そうか、そうか。ついに儂も逝く時が来たか」
そう答えるスウリュウであるが、態度は、死を覚悟した者の穏やかさではなかった。むしろ、強者ゆえの超然とした態度、ともいうべき、些事に心を砕かない反応にすぎなかった。
「それで、お前は何ができる」
と、スウリュウが聞く。
「教える義理があるか?」
コチョウは鼻で笑った。何故これから殺し合う相手に手の内を明かさなければならない。
「そうか、そうか」
スウリュウはまた笑った。
「では仕方がないのう」
そう言って、スウリュウの長い体が大きく揺れた。そして、戦闘開始の合図もなしに、唐突に猛烈な突風を伴った冷気を吐いた。すべてを凍らせるような、吹雪よりも冷たい冷気だった。
コチョウはそれを、片手で受け止めた。冷気を遮断する魔力障壁が展開され、冷気はコチョウには当たらずに逸らされた。それでも、障壁越しに僅かな冷風が手に当たり、コチョウの指先はじんじんと凍えた。
「大した力だな」
コチョウは満足だった。
それを早く自分の力としたく、気は逸った。