第一一話 善意
抜け穴を戻り、通路を抜けたコチョウは、四方に通路が伸び、焚火があった部屋へと戻った。途中の通路にはガーグの死体は残っていたが、ジェリはいなくなっていた。
コチョウは部屋に長居はせず、反対側の通路を進んだ。だが、その先は、牢のある小部屋が並んでいるだけで、目ぼしいものはなかった。
残る通路は一つだけだ。その通路が出口のゲートに繋がっているのは間違いなさそうだった。看守室等が、おそらくそちらにあるのだろう。看守があと何人残っているのかは知らないが、問題になるのであれば排除するだけだとコチョウは考えた。
しかし、その決心も半ばあてが外れた結果になった。確かに通路の先に看守室はあったのだが、そこには、看守は一人しか残っていなかったのだ。どうやらコチョウがここまでで殺しまくったせいで、看守の生き残りはもうひとりしかいなかったらしい。
「来たか。君の所業は俺もここで見ていた」
看守室は通路の突き当り付近の左側にあり、そのあたりの通路は土壁でなく、石組の壁になっている。通路と看守室の間は壁の一部が鉄格子で開けていて、互いの顔を見ることができた。看守室も、床、天井、壁、すべてが石組のようだった。
看守は男とは思えないような綺麗な顔をした二〇代そこそこの若い人物だった。色が白く、白に近い銀の髪と、蒼穹のような瞳の色が涼しげだった。どちらかと言えば痩せ型で、鉄格子の向こうに腰掛けていた。鎧姿ではなく、色の暗い、黒と藍色の中間程の色のローブを纏っている。
「どうでもいい」
コチョウが本当に何の感情も乗らない声で答えると、
「それならいい。少し臭いな。入るといい。奥に湯がある。まずは体を洗ってくることだ。そんなに血と……何だかわからない液体で汚れたままじゃ、感染症になる」
ローブ姿の男は椅子を立ち、鉄格子横の鉄の扉の鍵を開けた。
「マスタード水だ。お前の仲間の看守に頭から掛けられた。見てたなら知ってるだろう」
コチョウは遠慮なく入り、体を洗うことにした。返り血が乾き始めていて、張り付いて気持ち悪いのは確かだった。まるで干し肉か腸詰にでもなった気分なのは間違いない。
「ああ。俺は仲間と思ったことはないが」
そう言うと、彼は看守室を出ていこうとする。流石にその行動には、コチョウも怪訝に思い、声をかける。
「何処へ行く?」
すると、男はこの監獄では場違いな程に善意しかない顔で笑った。
「女の子が体を洗っている音を、盗み聞きする趣味はない」
そして、部屋を出て行った。無論、そういった明確な扱いをコチョウはされたことが今までない。経験のない状況に反応する術を持たないコチョウは呆然としたまま部屋に取り残された。
しかし、ぼんやりしていても始まらない。コチョウは男が言っていた湯を探し、看守室の奥へと向かった。看守室の奥には扉がひとつある。扉の先は休憩室兼物資の貯蔵庫で、簡素なキッチンと食事スペースだった。あとで食糧を頂戴することにコチョウは決め、さらにその部屋の右手にひとつ、奥の壁に二つの扉を見つけた。右手の扉の奥は二段ベッドが並んだ部屋になっていた。どうやら就寝スペースらしい。コチョウは別に眠くはなかった。その部屋は無視することにした。
休憩室に戻り、奥の扉を調べる。左の扉は便所だった。コチョウには便器が大きすぎる。長居する理由はなかった。
最後に開けた右側の扉の奥に、湯が張られた大桶があった。湯は壁に開けられた穴から絶え間なく注がれ、桶の奥に開いている穴から捨てられているようだ。自然に湧いた地下水を利用しているということだ。部屋内を見回すと、高い場所に棚が一つある。彼女は手にしていたオーブはそこに一旦乗せておいた。
大桶の傍には手桶もあって、湯を掬うことができた。とはいえ、手で持つのは問題なくとも、自分の真上でうまく手桶でひっくり返すという行為となると話は別だ。コチョウは自分の肉体能力ではなく、久々に使う念力で手桶を浮かせ、湯を入れて浴びた。その選択はうまくなかった。自分の上でひっくり返すところまでは順調だったが、自分の真上から降ってくる湯が頭に当たるとすぐに集中が切れ、手桶も浮力を失って降って来た。
「うわっぷ」
コチョウはこれまで上げたことのない奇声をあげて手桶から咄嗟に飛んで逃げた。これは危険だ。コチョウは念力で手桶を浮かせることを諦め、手桶に湯を入れて床に置き、その中に自分が飛び込むことにした。湯はすぐに何とも形容しがたい薄汚れた色に濁ったが、意外に早く、コチョウの全身の汚れは拭い去ることができた。
看守室の室温は暑くも寒くもなく、血で汚れた布を体に巻き直す必要はないように思えた。コチョウはそれを捨てることにして、棚から自分のオーブを再び手に取り、裸のまま貯蔵庫の捜索に乗り出した。
まずは食糧をと思ったのだが、その前に、コチョウの目に、貯蔵庫の棚に置かれた良いものが飛び込んできた。それは一見すると魂の欠片を入れるオーブと同じような水晶球で、だが、明らかにそれとは異なる点があった。水晶球の前にも迫り出したような台座がついていたのだ。迫り出した部分には、受け皿のような窪みがついていた。まるでオーブを乗せる場所だと言わんばかりだった。
コチョウはそれがオーブの中の魂の欠片が誰の物なのかを判別する為のマジックデバイスではないかと考えた。オーブの中の魂の欠片が自分のものなのか、本人にすら分からないのだ。それこそ他人がオーブを見ただけで分かる筈がない。取り違えを防ぐ為に、何らかの判別方法が用意されていると考えるのは自然のことだった。試しに、手にしたオーブを受け皿に置いてみた。すると、台座の奥の水晶が輝きだし、やはり、コチョウ自身の顔が水晶球の中に浮き上がった。やはりそのオーブは彼女自身のもののようだった。これで、わざと死んで確かめる必要がなくなったという訳だ。
満足したコチョウはオーブを手に取り、更に貯蔵棚を漁った。食糧は見つからなかった。
「食べ物ならそこじゃない」
男の声が上がる。ローブの看守が戻って来たのだ。男は、血と食事屑とソースで汚れた小さなオーブを摘まんでいて、コチョウが先程まで使っていたデバイスの受け皿にそれを乗せ、水晶球の中に映し出される顔を眺めた。映し出されたのは、コチョウが実験と称して首を刎ねたあのフェアリーのものだった。男はフェアリー自身ももう片手で抱えていて、どうやらあのショー部屋の奥にあった井戸の水で洗ってやったのか、フェアリーの体は、完全とは言えないものの、汚れがべったりと付着しているという程ではなかった。フェアリーはまだぼろを着ていた。
「すまないが、この子も洗ってやってくれるか。その間に、食事と着替えを用意しよう」
男はフェアリーを勝手にコチョウに押し付けると、床の一部を開けて梯子を降りていった。下は食糧貯蔵庫のようで、ひょっとしたら大桶から流れ落ちた湯を捨てる為の設備もあるのかもしれなかった。コチョウは拒否したかったが、男がさっさと降りて行ってしまった為、そのタイミングを逸してしまった。
フェアリーを投げ捨てることは簡単だったが、結局コチョウはそうしなかった。何故だか自分でも分からないが、まあ、いいか、という気分になった。どういう気の迷いなのか、深くは考えなかった。
フェアリーは相変わらず昏々と眠っている。おそらく翌日までは目が覚めないだろう。コチョウ自身が以前命を落とした時もそうだった。
コチョウはフェアリーが着ているぼろを引きちぎり、湯浴み室に戻った。そして、半分投げやりに、手桶をひっくり返してフェアリーに湯を浴びせた。
それはあからさまに、洗う、という行動ではなかった。それでも、フェアリーの体にまだ残っていた雑多な汚れは落ちた。汚れが落ちると、眠り続けるそのフェアリーは、本当にコチョウとは対照的な煌びやかな外見に見えた。
それが済み、コチョウが湯浴み室から出ると、男は既に下の貯蔵庫から戻っていて、キッチンで魚の塩漬けか何かを焼いていた。コチョウは部屋を通りぬけ、フェアリーを就寝室のベッドの上に投げ捨てるように寝かせた。
「服も着せてやってくれよ。それは可哀想だ」
見もせずに、男がコチョウに苦言を投げる。裸のままフェアリーを放り出したのが、見なくても分かったらしい。
「君も服を着てくれ。フェアリーでも女の子が裸でうろうろするもんじゃない」
そんな常識的な言葉を掛けられたのも、コチョウには、初めてのことだった。コチョウは面倒臭い、とは思ったが、大人しく従った。
「服は湯浴み室の前の棚にある。気付かなかったか?」
そう言われて見に行ってみると、確かに、湯浴み室への扉の傍に、壁に取り付けられた棚があり、その上に二人分のフェアリーサイズの女性服が置いてあった。豪奢とまではいかないが、ぼろではなかった。
「興味がなくて気付いてなかった」
コチョウは正直に答え、服を手に取った。