第三話
浮遊大陸に辿り着いたコチョウは、早速飛行能力を持ったモンスターの迎撃にあっていた。
高等な知能を持つ相手はおらず、鹿に似た獣の頭部と蝙蝠の羽根を持つ人型の怪物で、粗末な槍で武装していた。見た目は人に近い体格をしているが、キイキイと甲高い声で鳴くばかりで人語は解していないようだった。
翼をもつ鹿頭の怪物としては、魔神の記憶の中にはペリュトンというモンスターを見つけることが出来たが、ペリュトンは四足獣のようで、それとは異なるようだった。今戦っている相手に該当するモンスターの名は、コチョウの知識にはなかった。人造の合成獣に近いのかもしれない。
人語を解さないだけあって、戦術もお粗末で数に任せて群がってくるだけだ。一体一体はたいした頑強さもなく、魔神の力をもってすれば、苦労なく纏めて引き裂くことができた。魔神から手に入った力として、高度な魔術の知識の他に、遠隔で対象の魂を吸い上げる闇の刃を一度に多数出現させられる力が便利であり、相手が余程の実力者でもない限り一体から多数の敵まで一瞬で魂を失った屍と化すことが可能だった。当然、魔神が持つ多数の耐性もコチョウは獲得しており、睡眠、麻痺、毒、病魔、呪い、石化、即死、そしてコチョウ自身も持つドレインの能力まで含めて、コチョウは幅広い完全耐性を有している。それ故に、不眠不休で活動する事も可能であり、雨露を凌ぐ屋根のある居住地も必要としないのだった。
名も知らぬモンスターを引き裂き、コチョウは進んだ。上陸を目指している浮遊大陸は鬱蒼とした森林に覆われた大地で、何処までも緑の樹海が広がっていた。
「ほう、こりゃまた珍客じゃわい」
不意に、人語が聞こえた。気配もなく忍び寄ったそれが、コチョウを揶揄するように、掠めて飛んだ。コチョウの十倍程の体格のものがすり抜け、コチョウの上に一瞬影を落とす。
コチョウは眉も動かさず、当たらないと確信してそれを捨て置いた。人語を操り、攻撃ではなく脅かしに来たということは、それなりの知性と人格があるということだ。殺すのはいつでもできる。相手次第で考えれば良い。
「ほうほう、露とも動じぬか。大したものよな。流石にヌルの魂をもつだけはあるわい」
不可思議な影はそう告げた。姿は胡乱で、年老いた男のようでもあり、老婆のようでもあり、だとして、体躯は屈強な男のようでもあり、しかし、シルエット自体はスリムにも見え、女性的な印象さえもあった。夢幻、或いは、朧ともいうべき姿だった。
「煩い小蝿だ」
コチョウは悪態をついたが、去れ、とは言い返さなかった。相手を挑発して、出方を見定めたかったのだ。闇雲に飛んでいても埒は空かないし、多少のトラブルであれば、何もないよりは事態が進展する。
「強気よの。ならば良かろう。ちと遊んでやらんでもない。世界は広いことを知るが良い」
その人型は、急に速度を上げ、コチョウを追い越した。そして反転すると、ヌルと呼ばれる魔神の力でもあった、コチョウが操る闇の刃とは相反するような、光の刃をコチョウの周囲に幾つも浮かべた。
コチョウもその動作には気付いており、闇の刃で相殺しようとしたが、どうしたことか、刃が出ない。それどころか、コチョウの中で、急に魔神の力が衰えていくような感覚があった。想定外の事態に内心毒づきつつ、コチョウは光の刃の間を縫って包囲を突破した。
「ほう、落ちぬか」
驚いた声で、人型は感心したように告げる。だが、状況はコチョウにとって好転はしていない。思うように力の出ないコチョウに対し、一度外れた光の刃が方向を変え、追尾した。速度を増し飛来する刃に、コチョウはやがて追いつめられ、だが刃はコチョウの五体を裂かず、光の輪に変わり彼女の体を地面に縫い付けた。うつぶせに拘束され、手足の一本も動かせなくなったコチョウは、それを力で引きちぎろうと試みたが、今の彼女には、それだけの腕力を出すことも、できなかった。
「魔神の力が出ぬか。無理もない。魔神とて絶対の強者という訳でもない。分かったかね」
悠然と、胡乱な人型はコチョウを見下ろした。地面しか視界に入らないコチョウからは、表情は見えない。だが、笑った、とコチョウには感じられた。
「呆気ない幕切れだった」
コチョウも自嘲した。これ程早くに最期の時を迎えようとは予想もしていなかったが、人生などというものはいつだってままならないものだ。ろくでもない奴が、自身の意志には関わらず、ろくでもない死に方をするのも世の常といっていい。コチョウにとって、彼女自身も別に特別だとは思っておらず、他者と変わらない、その一人に他ならなかった。
「いや、死んでもらっては困る。殺しはせんよ。話がしたいだけだ。暴れられんようにな」
人型がコチョウを殺すつもりがないのは本当のようだった。殺すつもりがあるのであれば、光の刃でとうに斬り裂けていた筈だ。それをしなかった時点で、殺意がないことは明らかだった。
「なら勝手に喋れ。聞く必要があるかどうかは私が決める。ただの雑談であれば聞かん」
もっとも聞き流したからと言って何ができる訳でもない。コチョウに光の輪の拘束を消滅させることができないのは、彼女にもすぐに理解できた。術の正体が分からない。
「地べたに這いつくばってなおその強気な態度、流石と言うべきか。呆れると言うべきか」
人型は身動きの取れないコチョウの上で、何とも度し難いと感想を述べた。だが、苛立ちや怒りといった感情は、もとから欠落しているように飄々ともしていた。話がしたい、というのも、あながち嘘や方便でないないようだった。
「私は、お前を待っていたのだ。お前には私がどう見える。ぼやけて虚ろに見えぬかね?」
人型に問われたが、コチョウは答えなかった。姿などどうでもいい。如何にしてこの人型を出し抜いて逆襲するか、ということだけを、コチョウは思案していた。
「やれやれ。諦めの悪いことよ。いや、褒めているのだよ。それがお前の最大の長所だ」
分かっている、と。人型はコチョウのことを何から何まで理解していると告げるように、乾いたようなしわがれ声で言った。
「まあ良い。いずれにせよ、お前は自分が何者であるかを知らねばならぬ。私はその手伝いをする為にお前を迎えに来たのだ。私はお前の敵ではない。少なくとも今は。未来がどうかは分からぬ。それはその時が来て、お前がどう行動するか次第だ。私はお前がどのような決断をしようと構わぬ。だが、その為にも、お前は、まず学ぶことだ。未来のことはそれから決めれば良い。今は、私はお前を然るべき場所に誘おう。お前はそこで生き抜き、己を知り、己のルーツを探さねばならぬ。なに、私は信じておるよ。必ずお前は、私の前に帰ってくる。必ずな。お前は強い。ならばこそ、今一度弱さから、やり直してもらう必要があるのだが」
その為に、力を封じた、とでも言いたげな態度だった。明らかにその人型はコチョウの中の魔神を手玉に取っており、つまり、それ以上の存在であることも間違いなさそうだった。今は出し抜く方法はない。コチョウには、結局その手段は思いつくことができなかった。
「だが」
と、人型は言う。
「その前に、お前に一つだけ聞いておこう。答えは分かっておるが、一応な。さてはて」
そこで、人型は言葉を切り、しばらく焦らすかのように問いを溜めた。コチョウは待たされるのが嫌いだ。腹に据えかねて、唸り声のような不満の息を吐いた。生憎、できる事といったらそのくらいしかなかった。
それでも、人型は黙っている。どう聞こうかと考えあぐねているというより、コチョウをからかっているだけのような沈黙だった。そういう意味では人型はコチョウの同類で、要するに、意地の悪い、ろくでもない人でなしであることはよく分かった。
「ふむ」
惚けたように、そんな声まで漏らす。コチョウが逆上して喚くのを待っているのだ。コチョウはそんな風に手玉に取られながら、一矢報いることもできない状況に、歯ぎしりをした。
その音を聞き、それで勘弁してやるか、といった風に、人型が顔を寄せてきた。すぐ傍に鬱陶しい程の存在感が寄ったにも関わらず、コチョウには、人の体温のようなものが一切伝わってこなかった。
「お前、お前の魂と、その体を、私にくれぬか?」
囁くように、人型に聞かれる。確かに聞かれるまでもない。答えは絶対に否だ。コチョウがそんな頼みに、首を縦に振ることは、天地が逆転してもあり得なかった。
コチョウは答えなかった。分かっているなら答える必要もない。当然分かっていたと、人型も傍から顔を離していった。
「で、あろうな。当然だ。故に、お前は、知らねばならぬのだ。お前が何処の誰なのかを」
しかし、と。
人型は、コチョウの拘束は解かずに続けた。
「誘うにしても、お前が大人しくしているとはとても思えぬ。しばらく眠ってもらおう」
そして、コチョウの体を戒めていた幾つもの光が膨れ上がり、彼女を包み込むと。
コチョウは、抗えない睡魔に流された。