第二話
空には、小さな雲一つない。
抜けるような青空が広がっていて、コチョウの視界を遮るものは何もなかった。空を飛んでいる生物の姿も、今のところ見えない。普通の世界では多く見られる筈の鳥の姿すらなかった。
風は強く、乾いている。無秩序に吹く風は、空すらもが健常な環境でないことを物語っていた。
しかし風速の速さとは裏腹に、空気は重く、圧し掛かってくるようだった。その為、コチョウの飛翔能力を以てしても、浮遊大陸の浮かぶ高空に達する為には、安定した上昇気流を探さねばならなかった。それはまだらに吹く風の中では、それなりに困難を伴う試みになった。
それでも何とか、風を掴み、上空高く舞い上がる。ある程度まで上昇すると、風の流れは一定になり、風速こそ増したものの、あべこべに吹く低空の風の中よりは、随分飛びやすくなった。
「やれやれ」
随分無駄な体力を消耗したものだ。コチョウは思わずぼやきを漏らした。フェアリーらしからぬ身体能力を持つコチョウだが、体重がフェアリーと変わる訳ではない。力を緩めれば風圧に負けて飛ばされることは必至で、浮遊大陸への空の旅は、気が抜けない行程になった。
それも安定すると、次に襲ってくるのは、何もないという退屈だ。退屈は疲労感を助長する。コチョウは忌々しさに何度か舌打ちをしながら飛んだ。
箱庭世界を脱出するまでは、何だかんだと人と接しなければならなかったことも理由として大きい。ほとんど常に複数人の者達が近くにいて、面倒臭いと思いながらも、何だかんだとコミュニケーションは取っていた。今は一人だ。清々したと言えなくもないが、いきなり一人になると、やはり退屈なことに変わりはなかった。孤独は苦にならないつもりでいたが、随分、自分も人の輪に染まったものなのだと、コチョウの口から苦笑いも漏れる。
そんなコチョウの退屈を紛らせるように、遥か前方に何かの存在を示す、黒い点が見え始めた。はじめは一つの点に見える程遠かったが、明らかにこちらに向かってきており、それが四つの影であることがやがて見えるようになった。
「本気かよ」
コチョウにも、四という数字に心当たりがあった。実際、コチョウには複数人の手下と、二人の自称弟子がいる。弟子の二人は二人ともアシハラ諸島国と呼ばれる地の技を修めている娘達で、一人はアシハラの剣術や弓術を、一人は陰陽道と呼ばれる占呪術を使う。弟子のひとりである、陰陽師の娘が使役する強力な式神が、丁度四体だった。
夏を司る火神にして南の守護者、朱雀。
春を司る木神にして東の守護者、青龍。
冬を司る水神にして北の守護者、玄武。
秋を司る金神にして西の守護者、白虎。
四神、と呼ばれる者達らしい。それを使役する陰陽師の娘の名を、エノハという。アシハラ様式の占術師衣装を纏ったエルフの娘で、エルフらしい金髪碧眼の容姿をしている。箱庭世界から現実世界に出てきたばかりのコチョウの弟子を自称していることから想像つく通り、コチョウが箱庭世界から連れ出した、元人形の一人だ。箱庭世界から出てきた者達はほぼ全員、コチョウが力を振るい、全員現実世界の住人と同じ存在に変異させている。その為、今はエノハも正真正銘のエルフだ。
飛んできたのはやはり四神だったが、その背にエノハの姿はなかった。代わりに、やはりアシハラ諸島国の民族衣装を纏った、打刀と脇差と呼ばれる二刀を佩刀した、黒髪と黒い瞳の人間の娘だった。やはりコチョウの自称弟子のひとりで、名を、スズネという。スズネは緑色の体を持つ細長い竜、青龍の背に乗っていた。
「何をしに来た。お前が飲み食いする物資はないぞ」
スズネが目の前に来るのを待って、コチョウは悪態で出迎えた。
確かに一人では退屈だが、だからと言って、コチョウと違い飲み食いや休息を必要とする輩に本当についてこられるのは探索の邪魔だ。
「ご安心ください。ただの伝言役ゆえに、スズネはすぐに戻ります」
スズネは、コチョウの悪態を涼しげな顔で受け流し、やんわりと笑った。頭の後ろで一つにまとめた髪が、強風に煽られて揺れる。目が伏せられがちなのは、空っ風が目に痛いからだろう。
「その程度で四神全部を飛ばしてくるな。もう決着をつけに来たのかと早合点しかけたぞ」
エノハはコチョウの自称弟子だが、四神とコチョウは意見が相反している。破壊者であるコチョウと、守護者たる四神と、主義が合う筈もなかった。機会があれば決着をつけるという宣言を、コチョウは四神から突き付けられていた。青龍、玄武、白虎は喋らないが、朱雀が人語を喋る。
「儂はそれでも良いぞ?」
「やめてください。スズネが落ちてしまいます。四神様勢揃いで来ていただいたのはエノハが未知の世界での単独行動を心配したからというだけで、他意はございません」
朱雀は揶揄うように答えたが、それをスズネが止めた。それも当然だ。おそらく真っ先に死ぬのがスズネであることを疑う者は、この場にいないだろう。
「だとさ」
コチョウが皮肉っぽく笑い、
「致し方あるまいて。この場は控えようぞ」
朱雀も、その気など最初からなかったことはあからさまであったというのに、はぐらかすように答えた。朱雀は、どこか人を食ったところがあった。
「で? 伝言はなんだ」
コチョウは相手にしない。当然面倒臭いからだ。スズネに意識を戻し、それこそ面倒な伝言なら最後まで聞かずに断るつもりでいた。
「ありがとう、だそうです。わざわざ伝えなくとも、とは感じたのですが、フェリーチェル様から、急ぎで、と頼まれまして、こうして伝言を携えてまいりました」
フェリーチェルというのは、コチョウの最大の理解者で、もっとも主義主張が相反する相手で、間違いなくコチョウの友人で、そして、一番鬱陶しい敵だった。やはりフェアリー役を演じる人形だったフェリーチェルは、剣呑なコチョウとは正反対の、優美な外見のフェアリーで、だが、とびきりの不幸体質だった。
フェリーチェルの不幸は、“フェリーチェルだけが不幸にもコチョウの生体化の力が通じなかった”事態を起こす程で、結局、住人の一人に人形として抱えて出されなければ、箱庭世界と運命を共にするところだったのだ。だがそれも役の上のことだ。生物化の力は箱庭世界の女神由来の力だった為、現実世界ではもうフェリーチェルをフェアリーに作り替えることはできなかったが、コチョウはその代わりに、魔神の力を使い、生ける人形に変貌させた筈だった。もっとも、結果は確認していない。
「動けたか」
コチョウが聞くと、
「はい。それを、どうしても伝えておきたいと」
スズネは強風に難儀しながら僅かに頷いた。
「律儀な奴だ。わざわざその為だけに」
コチョウはため息をついたが、フェリーチェルらしいとも思った。フェリーチェルはとかく素直で、他人からの恩や、自分の落ち度に敏感だった。
「それと、『たまには顔を見せにきて。あなたほっとくと何するか分かんないんだから』だそうです。一字一句変えずに伝えるようにと」
スズネは声に出して笑った。スズネもフェリーチェルらしい、と感じたようだった。それを聞き、コチョウは口をへの字に曲げた。
「知るかよ、と返しとけ」
まさしく言葉通り、フェリーチェルの心配など、コチョウの知ったことではなかった。箱庭世界を破壊することに強く反発したのはフェリーチェルで、当然コチョウに対抗し、箱庭世界を護ろうとする者達は他にも現れたが、彼等をまとめ上げたのもフェリーチェルだった。決戦はコチョウの勝利で終わり、箱庭世界の破壊は防がれなかったが、その結果を受け入れているとしても、フェリーチェルが納得しているとも、コチョウも思ってはいなかった。
「フェリーチェル様が、怒りますよ、きっと」
スズネは呆れたように首を横に振ったが、コチョウは憮然とした表情を返しただけだった。
「勝手に怒らせておけ。それこそ知るか」
とはいえ、思ったよりコチョウの退屈は紛れた。フェリーチェルに関しては、動けたということであれば、今はそれ以上言うことはない。コチョウはもう一度ため息を吐き、スズネとの会話を終わらせに掛かった。
「他に伝言はないな」
そう確認し、横目で一度だけ朱雀を睨む。朱雀は抜け目がない。こっそり監視について来ようとする疑念があった。
「はい。スズネが携えた伝言はそれですべてです」
スズネが認めると、コチョウは満足げに頷き、別れも告げずにその場を離れた。スズネもその淡白な行動を予測していたのか、大人しく、四神と地上へ戻って行った。