第一話
目の前には、何処までも平らな大地が広がっている。
草花も生えない、不毛な大地だ。その世界の名を、彼女は既に知っていた。というと、まるで彼女がその世界の生まれではないと述べているようだが、半分は正しく、半分は間違いである。
それを語る前に、まず、彼女のことを詳しく述べておく必要があるだろう。何故なら、彼女は、ごく平凡な人間ではなく、僅か三〇センチメートル程の体躯を持った、小妖精と区分される人型の生物だからだ。
背には蝶の翅。色合いは暗く地味で、深い紺の翅で、そういった暗色系の翅をもつ蝶は、翅の裏側が白から灰色、茶色系統の色合いの事が多いが、両面共に、ほとんど黒に近い紺色をしている。赤班や橙斑、青斑などもない。そのあたりは、純粋な蝶ではない故のことかもしれない。
瞳の色は、レッドムーンのような、或いは、血が滲んだような赤で、髪は鉄の針金の如く玲瓏な、だが、決して温かみのない銀色をしている。
名は、コチョウ。フェアリーである。もっとも、生まれは純粋なフェアリーという訳ではなく、もともとは、魔術と錬金術で創造された仮想世界の中で人形劇を演じる為の、フェアリー役の人形だった。
その人形は生きた魂を封じて作られるものであり、彼女の魂も、本来フェアリーのものではない。魂のルーツはコチョウ自身まだ知らないが、それを求めて飛び回る程の興味も覚えていなかった。
彼女がいた仮想世界――コチョウはそれを箱庭世界と呼んだ――は、もう既にない。コチョウ自身が破壊したからだ。と言うとさらに、フェアリーを模しただけの人形にそんな力があったのか、また、人形が何故本物のフェアリーとして存在しているのか、という疑問を覚えるのが自然なことだが、それは箱庭世界でコチョウが体験した、数奇な冒険の結果だった。
もともと箱庭世界は長いこと放置されていたものであり、その世界を用いて演じられる人形劇をたのしんだ人々の文明も、遥か昔に滅んだ。しかし、そこには本物の魂が、本物の世界を知らずに存在していて、魂を食い物にする、悪魔、或いは、魔神と呼ばれる者達が恰好の餌場としていたのだ。コチョウは、その魔神の魂を、逆に食ったのだった。そもそもとして、コチョウは他者の経験や力を吸収する超常能力をはじめ、複数の能力を持ち合わせていたから成し得たことだった。
そうやって魔神の比類なき力と魂を手に入れたコチョウは、箱庭世界内の女神をさらに食い、その神の奇跡を用いて、自分自身の器を本物のフェアリーに変えたのだった。そしてその末に、箱庭世界を抜け出し、箱庭世界の器である魔法の舞台を破壊し、すべてを滅ぼすに至った。
もっとも、箱庭世界は既にないと述べたが、コチョウがその世界を壊してから、幾許の時間も過ぎていない。彼女の背後には未だがらくたの山と化し原型を留めていない舞台があり、ほんの数時間前に彼女がそれを壊したのだと分かる光景があった。
荒野に、遠く、土煙が霞んでいる。
現実の世界に出てきたコチョウだが、一人で出てきた訳でもない。箱庭世界の一部の者達もまた、彼女は連れて出てきていた。コチョウは彼等と行動を共にするつもりはなく、去るに任せたが、それもある意味自然なことだった。
箱庭世界を脱出し、現実の世界に出てきたとて、現実世界が、楽園であるとは限らないということだ。舞台を運営、上映していた文明が滅んでいるのと同様に、地上の文明のほとんどは、既に滅んだあとだった。大地の大方は死に、作物どころか、雑草すら育たない。僅かに残った健常な土はあるものの、それも周囲の土枯れや汚染に飲まれ、放置すれば死に絶えていくだけの世界なのだ。
人々は定住を諦め、移動可能な要塞都市を用いて、流浪の生活を続けている。当然、コチョウが連れて出てきた者達も、その生活をしなければすぐに壊滅してしまうことになるのだ。その要塞列車は、全長数百メートルから数キロに及ぶ長さの、無限軌道で走る列車型の都市だった。現実の人々はそれをデザートラインと呼んでいるらしい。土煙は、それが走行しながら巻き上げているものだった。
一方、コチョウには、そういった暮らしは必要ない。フェアリーであると同時に魔神でもあるコチョウには、常人とはかけ離れた生存能力がある。毒素に塗れた土地も、食物のない大地も、飲水を見つけるのも難儀する乾いた土地も、コチョウを弱らせ、死に至らしめるに足るものではなかった。その為、コチョウがこれから歩むことになるこの物語では、コチョウは、デザートラインには立ち寄らないことになる。
コチョウが空を見上げる。
空の遠くに、浮遊する大地の塊があった。かつて、死に向かう大地を逃れようとした一部の文明が、健常な大地を切り離し、空に浮かべた浮遊大陸だ。今コチョウの視界内に見えている物だけでなく、世界にはいくつかの浮遊大陸が浮かんでいるらしい。その文明も大地の文明が滅びるよりも先に滅んでおり、既に無人だという。だがそこには豊かな自然と清浄な土、清らかな水が今でもそのまま残っている。
コチョウが向かおうとしているのは、その浮遊大陸だった。地上には、コチョウの興味を引く物が、残っていないからだ。コチョウにとって重要なのは、面白いかどうかだけで、痩せこけて死に絶えた地上になど、まったく関心はなかった。
浮遊大陸には、かつて空に上がった者達が廃棄した文明が、そっくりそのまま残っている。それを訪ね歩く方が、コチョウにとっては、よっぽど楽しめる遊戯のように思えた。大地に住まう人々は翼をもたず、もう浮遊大陸に至る術はないが、コチョウには自前の翅がある。彼女であれば、空を行くのにも支障はないのだ。
さらにいえば、浮遊大陸は魑魅魍魎、所謂モンスターの坩堝とかしていて、辿り着けたとして極めて危険な場所であるという。それすら、魔神の力を振るうコチョウには、たいした問題とは思えなかった。ことと次第によっては、支配して使役すれば面倒も避けられる。
「行くか」
乾燥した風が吹く地上にいても、状況に変化が起きる訳でもない。コチョウは背中の翅を広げ、飛び立った。
空は青く、日はまだ高い。日暮れまでには視界内に見えている浮遊大陸に辿り着ける筈だ。
一体そこで、死にゆく世界の、どんなろくでもない真実を知れるのか、コチョウは胸が躍る気分だった。彼女には、もともと死にゆく地上を救いたい、地上が干上がっていくのを止めたい、などという殊勝な考えはこれっぽっちもない。死ぬなら勝手に死ねばいいし、何ならいっそ一思いに自分で破壊できるなら破壊してみるのも悪くないと考えていた。
コチョウは百歩譲っても善人ではなかった。
むしろ、贔屓目に見て人格破綻者と言っていい。そのくらいに邪悪だった。と言っても、魔神の魂を食ったことの影響でそうなった訳でもない。生来、救いようのない悪党だったのだ。
それを喧伝するかのように、コチョウが纏っている衣装は暗く、肩には髑髏をあしらった装飾までついていた。実際それはコチョウが自分の超能力で精製した衣装で、好きにデザインを変えられるのだが、彼女はそのあからさまに邪悪なデザインが気に入っており、簡潔に言えば悪趣味だった。
武器として、チャクラムを両腰に下げ、手には、コチョウが魂を食った魔神がかつてその持ち主だった魔剣、ライフテイカーという、傷つけた相手の魂を吸い尽くす邪悪な剣まで握られている。これで正義の味方だと信じられるようであれば、自分の目か頭を疑った方がいい見た目だ。
上空に舞い上がったコチョウは、地上を全く見下ろさなかった。これから進むべき先だけを真っ直ぐ見ており、その瞳には、襲ってくるモンスターが早く現れないものかと期待するような、剣呑極まりない怪しい輝きが浮かんでいた。
上空の風は強い。ただのフェアリーの翅であれば容易く押し返され、乱れた気流に弄ばれていたことだろう。コチョウはそんな強い逆風をものともせず、力強く、一直線に飛んだ。
浮遊大陸はまだ遠い。辿り着くにはそれなりにまだ時間がかかるだろう。それも悪くない。あまりにすぐに着いてしまうと、トラブルが起こる余地もなく退屈なだけだ。コチョウはほくそ笑む。
空にどんなモンスター住んでいるのかも、ある程度は確認しておきたいところだった。何の前哨戦もないまま浮遊大陸のモンスターの群れの中に降り立てば、却って面倒なことになるということも、コチョウは十分理解していた。
モンスター同士の争いはあるのか。
モンスターを束ねるボスはいるのか。
興味は尽きない。コチョウは何か浮遊大陸の方から飛んでは来ないかと、目を皿のようにして、変化を探した。
とにかく現実世界は、ねじくれた、平穏ではない世界だと、魔神の記憶から知っていた。
世界の名は、コラプスドエニーという。