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◇◇
北の山――。
深い森に囲まれた一角で、ひょろっとした執事の青年が、見上げるほどに巨大な魔物、キラー・グリズリーと対峙していた。
二本足で立ち大きく両手を広げたキラー・グリズリーの目は血走り、灰色の毛並みは逆立っている。
しかし青年は飄々とした表情を崩そうともせず、おもむろに燕尾服のジャケットを脱ぎ、白いシャツとベストの格好になった。
「いっちょうらでな。汚したくないんだ」
青年の言葉が終わるや否や、キラー・グリズリーが鋭い爪を振り下ろす。
目にも見えないほどのスピードだが、青年は軽やかなバックステップでかわした。
その後もキラー・グリズリーは丸太のような腕を振り回し、執拗に青年に襲いかかる。
だがひらひらと蝶のように舞う青年に、かすり傷ひとつ負わせることができなかった。
「アッサム王国一の無双が返り討ちにされたと聞いていたから、どんなものかと思っていたのだが……。ただ図体がデカいってだけか」
鼻息荒いキラー・グリズリーを前に、青年は息一つ乱さずに首をかしげる。
「まあ、侍女のメアリーってやつが『クマ鍋が食べたぁい』とかなんとか言ってたし、シャルロットからってことにして、あんたの肉を侍女たちにプレゼントしておけば機嫌も直るだろ。それにあんたの毛皮は最高級の毛布らしいじゃないか。ありがたくいただいておくぜ。俺の安眠のためにな」
青年はグイッと地面を蹴ると高々と空に舞った。
キラー・グリズリーは彼を捕えようと両腕を伸ばしたが、虚しく空を切る。
青年はキラー・グリズリーの頭を越え、背後に回り込んだ。
「悪いな。これも任務のためだ」
青年が腰に差していた短剣を素早く抜く。
キラー・グリズリーは懸命に振り返ろうとしたが、その前に青年の剣が背中から心臓を貫いていた――。
◇◇
いったいあいつは何なのよ――。
パレットで絵の具を混ぜる手つきが自然と荒くなる。
ぴちゃという高い音とともに、熱を帯びた頬に冷たい何かが付着した。
「シャルロット様。絵の具がほっぺに……」
部屋の隅に立っていたリゼットが白いナプキンを持って近寄ってきたけど、私は片手で制した。
「邪魔をしないで! これから絵を描くんだから」
真っ白なキャンバスに筆を走らせる。
心の中はイライラで真っ黒に渦巻いているけど、キャンバスには鮮やかなブルーを塗る。
爽やかな色だ。
すーっと心が晴れ渡っていくのを感じる。
でもふと油断をすると、新人執事の顔が頭に浮かんできた。
何を考えているかまったく読めないちょっと眠そうな目。
薄くて小さな唇。
白く透き通った頬。
さらさらの黒い髪。
なんでなの?
いつもなら時間すら忘れて絵を描くのに没頭するのに。
「ああ、もうっ! 花はまだなの!?」
無駄だと知りながらもリゼットに当てつける。
彼女はちょっとだけ困った顔をしながら、
「ではお庭から花を摘んでまいります」
と部屋を出て行こうとしたが、私は首を横に振った。
「もういい!! 今日は外の風景を描いて終わりにするから」
「……かしこまりました」
絵を描いてダメなら、本を読むに限る。
だったらとっとと美術の時間を終わらせよう。
もう、ほんと最悪だわ! せっかく王国一の宮廷画家を呼びつけたのに、台無しじゃない。
もし生きて帰ってきたらただじゃすまないんだから。
逆に帰ってこなかったら、キラー・グリズリーに殺されちゃったってことか……。
なぜか筆がひとりでに止まる。
「王女様?」
リゼットが心配そうに声をかけてきたところで、はっとしてブルブルと首を振った。
白いエプロンのすそで頬についた絵の具をふき取ってから再びキャンバスに向き合う。
別にあいつが野垂れ死にしようと、私には関係ないことだ。
だから私は悪くない。
無茶を承知で引き受けたあいつが悪いのだ。
それに今ごろは諦めて王宮の外へ逃げ出しているかもしれない。
うん、絶対にそうに違いないわ。
やる気なさそうな顔してたのは、本当にやる気がなかったからだ。
どうせどこかで私の悪口を聞きつけて、言いたいことだけを言って、スッキリしたかっただけなのだろう。
ふんっ、私だってあんなヤツがいなくなって、せいせいしたわ。
もう二度と顔も見たくないんだから――。
――コンコン。
声に出さずに文句をつけているうちに、ドアをノックする音が耳に入ってきた。
リゼットがドアの前まで駆け寄り、「どなたですか?」と声をかける。
するとのんびりした声が返ってきたのだった。
「俺だ」
ドクンと胸が脈打った。
俺、と言われてもドアの向こう側にいるんだから名乗らなきゃ誰だか分からない。
けど無駄に透き通ったその声は確かに聞き覚えがある。
例の新人執事だ。
リゼットが「いかがしますか」と言わんばかりに、ちらりと私を見た。
私は動揺をさとられまいと、努めて大きな声で返事をした。
「入りなさい」
ガチャっとドアが開く。
きっと手ぶらでやってきて、「やっぱり無理です」と詫びを入れにきたのだろう。
そう思っていたのだが――。
「任務完了だ」
さらりとそう告げてきた執事の手には、美しいユリが握られていたのである。