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館の北側には小さな山がある。
北にあるから『北の山』と使用人たちは言っているのだけど、その北の山には春になるとホワイト・ムーンというユリが綺麗に咲くの。
ちょうど今ごろは満開のはずだ。
でも今年は誰も摘むことはできない。
なぜなら『キラー・グリズリー』という熊の魔物が出現したからだ。
王国一の無双と名高い騎士が討伐にいったが返り討ちにあって深手を負ったという話は、辺境にあるこの館にも届いている。
そして宮廷の大臣から『北の山には近寄らないように』とお達しがでているのだ――。
「良いことを言ったわ、リゼット」
私はリゼットの方を見ずに、新しい執事だけを見て言った。
彼は私が立ち去ると思ったのか、既に立ち上がっている。
その顔はまったくの無表情で、何を言われても驚きません、って感じだ。
ふふ。そのすまし顔が苦悶に歪むのが楽しみだわ。
「その通りにするわ」
私がさらりと答えると、リゼットが間髪入れずに返してきた。
「かしこまりました。では中庭で咲いている花を摘んでおきます」
「ふふ。ダメよ。だって私は『ホワイト・ムーン』が描きたいんだもの」
「しかし『ホワイト・ムーン』は北の山まで行かねば摘めません」
「だったらそこにいる新人に採りへいかせなさい」
リゼットの言葉がピタリと止まった。
シーンとした静寂が心地よい。
でも癪なことに目の前の執事は飄々としたまま、眉ひとつ動かしていない。
もしかして北の山にキラー・グリズリーが出たことすら知らないのかしら?
「王女様。あの山にはキラー・グリズリーが出現したので、誰も近づいてはならないと、宮廷の大臣様からお達しが出ております」
リゼットはよく分かってるわ。
世間知らずの執事でも分かるように、ちゃんと説明してくれるのだから。
それでもまだ彼の透き通るような白い肌の色は変わらない。
……そっか。私の命令を断れると確信しているのね。
ならばその甘い考えを正してあげなくちゃ。
「いいのよ、怖いなら断っても。でももし命令が聞けないって言うならクビにするしかないわね。ふふ。初めてじゃない? 配属初日でクビになる執事は。あははは!」
心の底から楽しい。
だってそうでしょう?
私よりもちょっと年上で、容姿端麗でいかにも「今までの人生で困ったことなんて一度もありません」って感じの青年が、これからすぐに『ごめんなさい。できません』と頭を下げてくるのが目に見えているんだもの。
心地よい優越感ゆえに笑いが止まらない。
そうね。土下座でもしてくれれば、許してあげてもいいかしら。
もう二度と逆らいません、と誓わせてやるの。
さあ、私に頭を下げなさい。今すぐに!
「分かった。だが約束してくれ。任務に成功したら侍女たちを名前で呼ぶと」
は……?
なんですって……?
「どうした?」
彼はきょとんとして私を見つめている。
まるで近所に買い物へ出かけるかのような様子だ。
こいつ……ちょっと頭がおかしいの?
それとも本気で「どうにかなる」と信じているの?
小首を傾げ、眉をひそめる彼を見ていたら、さっきまでの心地よさはふいと消え、代わりにムカムカといら立ちがこみ上げてくる。
「ふん、いいわ。でも失敗したら即クビよ! 泣いて謝ってきたって、絶対に許さないんだから! 行くわよ、リゼット!」
私はそう言い放って、その場を後にしたのだった。