第弐話「気絶少女」
「彼」は地球の生物ではなかった。
隕石に擬態して市街地から離れた東北の山奥に落下したとき、彼は全長5ミリにも満たない小さな蠕動生物だった。
最初に遭遇した地球の生物はちいさな緑色のアマガエルで、あっという間に捕食された。――計劃通りである。
消化器官から宿主の内臓に寄生し肉体を同化支配した彼は、できることを増やすため、周辺で最も知能の高いニホンザルに狙いを定める。
ボスザルが木の実を捕食する瞬間を狙い、口内への侵入に成功。新たな宿主への寄生と同化を開始した。
――かくて両生類×類人猿×地球外生物の因子を掛け合わせた緑色の異形が、地球上に誕生したのであった。
さて、彼の故郷であると同時に母体でもあるのが、遥か遠い宇宙空間を漂流する巨大な遊星型寄生生命体だ。
母体に寄生された天体は生態系を支配され、あらゆる生命から養分を搾取された挙句、棄てられて死の星となる。
その侵略的寄生に適した天体を捜索するための探触子が、彼なのだ。対象の天体にどれだけの抵抗力があるかを調査し、寄生対象としての優先順位を決定すること。――はやい話、「弱っちい星」を見つけてボスに知らせるのが彼の役割だった。
さて、早々にボスザルの肉体の主導権を奪取し群れから離れた彼は、そこから異常な速度で成長、約一ヶ月で周辺の生態系の頂点捕食者であるツキノワグマをも(口腔と消化器官を一時的に拡張することで)捕食し得るところまで至っていた。
ただし多くの天体において、真の頂点捕食者かつ、侵略的寄生への抵抗の主体となるのは、いわゆる知的生命体である。
ゆえに最終フェーズは、本番でも同型個体が兵士の役割を果たす彼が、単体で当該天体の知的生命体――すなわち地球人のコミュニティにどれだけダメージを与えられるかの実地調査だ。
それを開始した彼は、昨夜のうちに山間の村落をひとつ壊滅させると、近くの国道を走る長距離トラックのコンテナ上に跳び乗りへばりつき、郊外の町まで辿り着いた。
信号待ちの停車で跳び下りた彼は、目の前にあった不運な中規模書店から「実地調査」を再開したのである。
――こうして時系列は、物語の冒頭に合流する。
店内の知的生命体は最初の数分であらかた行動不能にした。あとは目の前で怯えている最後の幼体を捕食し、次の狩場に移動することになるだろう。
ここでは本を投げつけられる程度の抵抗しか受けておらず、昨夜の村落で猟銃の銃撃さえものともしなかった彼には拍子抜けで、「退屈」と呼んでもいい情動を抱きつつあった。
そんな退屈をすこしでも慰むべく、彼は幼体に向けて「舌」を射出する。表面に分泌した特殊唾液の粘着力で絡めとって、丸呑みにする。喉越しのか弱い抵抗と悲鳴こそが最高の美味だった。だから山でも、大型動物を捕食できるにも関わらず好んで小動物や幼体を狙い主食としてきた。
その嗜虐性向は、兵士としてつつがなく活動するため母体から贈られた「ギフト」でもある。
しかし今、彼の「舌」が味わっているのは幼い獲物の甘美な抵抗ではない。生まれて初めて感じる異様なまでの「不味さ」と、同時に激しい痛覚だった。
ぎょろりと両眼が見据えた先、痛覚の発生源を視認する。それは先刻、無抵抗のまま薙ぎ倒した知的生命体の中でも、とびきり脆弱な一個体に酷似していた。
幼体ではなかったが、その個体が蹂躙される寸前に浮かべた怯えの表情からは、極上の「美味」のにおいがした。もっとじっくりいたぶるべきだったと後悔しつつ、もしまだ息があるのなら捕食対象に加えるのも一興、そう記憶していたのだ。
しかし、脆弱だったはずの個体に拘束された彼の「舌」は、全力を込めて巻き戻そうとするも、びくとも動かない。
当該個体の外観において先刻と異なっているのは、他個体同様に薄っぺらな繊維製の外皮に包まれていたはずの体表の大半が、うねうねとねじれ蠢く紫色の蔦、あるいは触手の集合体で覆われていることだ。
同様の組織が顔の右半分と、いまも彼の「舌」を掴んで鋭い爪を食い込ませている右腕全体まで覆っている。そもそも左腕に対して右腕がアンバランスに巨大化しており、ところどころに棘状の突起物も見受けられた。
露出している左半分の素顔の、焦点の定まらない虚ろな瞳に対して、右半分を覆う触手の仮面に開いたどす赤く瞳のない巨大な「眼」が、ぎらりと赫く殺気を放つ。
ほぼ同時に「舌」の拘束が開放された。力の均衡が崩れよろめいた彼の眼前、「舌」の応力を利用し一瞬に間合いを詰めた相手の異形の右腕から放たれる、ツキノワグマのそれを遥かに上回る膂力の殴打。無防備な顔面に叩き込まれたその威力によって彼の巨体は、後方へと吹き飛ばされていた。
瞬間。彼は当該個体――変身を遂げた氷雨 泉子を地球における最大抵抗力に認定し、分類を捕食候補から抹殺対象へと切り替えていた。