第壱話「瀕死少女」
よく晴れた昼下がり。行きつけの本屋さんにて、氷雨 泉子は死にかけていた。
お店の中はもうめっちゃくちゃだ。本棚はひき倒され、新品の書籍がそこらじゅうに散乱している。休日だけにそこそこ入っていたお客も店員もみな、彼女と同じように床に倒れ、苦しげに呻きもがいているか、あるいはぴくりとも動かない。
混濁する意識のなかで、何が起きたのか思い出そうと試みる。
ことし高校二年生になった彼女は、太宰を愛読する清楚で物静かな文学少女だった。ストレートロングの黒髪に白い肌、伏し目がちで憂いを帯びた双眸に細い銀縁眼鏡。
そんな彼女は、一部の層から異性同性問わず密かにして絶大なる人気を誇っている。いわく、いじめたいけど守りたい奇蹟のバランスだとかなんとか。
――以上は、あくまで表面上のお話だ。
実際のところ、彼女はだいぶ濃いめの雑食性ヲタクである。
いや、読書を愛することにけっして偽りはないが、太宰を読み始めたのは文豪を美形キャラ化した能力バトルラノベが入り口である。色白なのもインドアが極まっているからだし、ネット上では推しの尊さを饒舌に叫ぶ日々である。
そうして一年の春に文芸部へ入部してすぐ、先輩の強力な後押しもあり、入り口前で踏みとどまっていたBLの世界へ大きな一歩を踏み出すと、そのままもののみごとに沼に沈む。そんなわけで今日もまた、行きつけの本屋さんのちょっと奥まったコーナーにて、さらなる夢との出会いを追い求めていたのである。
彼女がお気に入りの作家さんの新刊を嬉々と手に取った、そのときだった。突然の破壊音と悲鳴とが店中に響き渡ったのは。
最初は、巨大なクマかとも考えた。山間の村落がクマに襲われ壊滅したという恐ろしいニュース速報を聞いたばかりだったこともある。
しかし、よく見るとそいつはゴリラのようだった。いや正確には明らかにゴリラでもないのだが、前傾姿勢と太く長い両腕はそうとしか思えない体型で、ただその体色は鮮やかな緑色をしていて、もう何がなんだかわからなくなった。
とにかく。ぎりぎり天井につっかえないほどの巨体を誇るそのモンスターが、突如として本屋さんの玄関を突き破り来店、電柱のような腕をぶんぶんとふりまわし、嵐のように暴れまわって本棚と人々をなぎ倒したのだ。
――数人いた、子供たちをのぞいて。
子供には手を出さない心優しいモンスター、という意味ではない。残念ながら。
そいつの頭部もまたゴリラとは異なっていて、胴体に半ば埋もれた、潰れたカエルのような顔をしていた。その大きく左右に裂けたカエルの口から、カエルらしくのびたピンク色の舌で子供たちをかたっぱしから捕らえ、次々に呑み込んでいったのだ。
つまり、子供は捕食対象らしい。
「……ねえこれ、どう考えたって悪夢だよね」
声に出してみる。しかし声にはならず、ヒューヒューと息が漏れるだけだった。電柱のような腕で本棚ごとなぎ倒されたとき、認めたくはなかったが、おそらく致命的なダメージを肉体に負わされてたのだろうことを、彼女は薄々感づいていた。
メガネが歪んで赤くぼやけた視界のはしには、倒れた本棚に隠れて震える小さな子供が見えた。その向こうに、さらにぼやけて見える大きな緑色のかたまり。
にっくきカエル顔ゴリラ……いやもうあんなやつはガマゴリラとでも呼んでしまおう、とにかくヤツは子供が残っていないか確かめるように、いまだ店内を徘徊している。
「ざんねんながら悪夢じゃなくて、ごりごりの現実だキュン」
突然、甲高くてコミカルな声が耳にとびこんできた。視界の外からするその声の出どころに目を向けようとするものの、体はまったく思うように動かない。ただただ激痛が全身を走って、涙がこぼれるだけ。
「誰なの……?」
泉子は死角の誰かに向かってしごくまっとうな質問をするが、やはりまったく声にはならない。対して声はなぜか、間髪入れずにこう答える。
「ボクは女神様の御使い、名前はガッキュン」
……あー。どうやら幻聴が聞こえだしたらしい。
「キミにお願いがあるキュン。女神様の力で戦士に変身して、あの怪物と戦ってほしいキュン」
やはり幻聴だ。たしかに泉子は日曜朝の可憐に悪を浄滅する魔法少女アニメも幼い頃から大好きで、いまだリアルタイム視聴と映画版の劇場観賞を欠かさなかったが、まさか走馬灯がわりにその第一話的展開を追体験しようとは思いもよらず。
「どうせ放っておけばキミは死ぬだけだし、ここはひとつギブアンドテイクということでどうキュン?」
「……いいよ、命が助かって、しかも魔法少女みたいに変身できるなんて、最高じゃない」
やけくそで、そう答える。もちろん声は出なかったのだが、どうせ相手は自分の脳内からだだ漏れた幻だから、きっと普通に通じるだろう。
「話が早くてありがたいキュン! ではさっそく……」
死角からぬうっと差し出された小さな手には、五百円玉サイズで艷やかな紫色をした勾玉が乗っていた。和風の変身アイテムとは、我が幻覚ながらなかなか斬新なのではないか。
「……この『マガタネ』を使うキュン!」
手はそれをぐぐいと目の前に突きつけてくる。勾玉にマガタネというネーミングはいささか安直な気がしたが、それはそうと、どうやって使えばいいのだろう。
「ヨモツヘグイするんだキュン」
「ヨモツヘグイ……する?」
泉子の口から、なぜかその言葉だけはしっかりと発声され、言霊になって勾玉に吸い込まれていく。記憶のどこかに引っかかる言葉だったが、自分の潜在意識から生まれた幻覚なのだから、そういうことがあっても不思議はない。
そして勾玉は淡い紫の光を放ちながら、どくんと心臓のように脈動した。
「やっぱり適性ありだキュン! はやくヨモツヘグイで変身だキュン!」
「……どうすればいいの?」
幻覚なんだからうまく行って当然だよね、などと、どこか冷めた思考がありつつも、ワクワクしていないと言えば嘘になる。幻覚でもいい、とびきり可愛いコスチュームをまとった夢を見ながら、そのまま……
「こうするキュン!」
「えっ…… むごっ…… げふっ……」
一瞬だった。ガッキュンの小さな手が、泉子の口の中へグイっと勾玉を押し込んだのは。
それは予想と正反対の柔らかさと生暖かさ、そしてぬるりとした触感で、驚くほどすんなりと彼女の喉を通り抜け、食道を圧迫しながらみぞおちあたりまで息をつく間もなく――というよりはすこし窒息しかけたのだが、とにかく胸の中心まで移動して、止まった。
「えっ……なに、これ……」
どくん、どくん、と胸から脈動が全身に響く。
「さあ! 今こそ禍種が発芽するキュン!!」
ガッキュンの狂喜とともに、勾玉ならぬ禍種から生えた無数の細いなにかが体内を這いずり、根を張りめぐらせてゆくすさまじい不快感と激痛。そして胸の真ん中に秘められた凶暴な力が、まさに「発芽」のときを迎えるかのごとく膨れ上がっていく。
「……やめ……て……!」
声にならない懇願もろとも。それらの「なにか」は少女の薄い胸のまんなかを突き破り、お気に入りの白いブラウスも引き裂いて、しかし不思議と一切の出血を伴わず――むしろ血液の代わりでもあるかのように、一斉に体外へ溢れ出した。
親指ほどの太さで色は禍種と同じ艶めく紫、うねうねと蠢く触手じみた無数の禍蔦とでも呼ぶべきそれらは、泉子の全身に絡みつき包み込んでゆく。
――そして彼女の意識は、いっぱいに見開かれた両の目の光とともに、うつろな闇に呑まれて消えた。