白南風
彼が元服したのは、慶長十一年のこと。
異母兄の五郎太丸は数え七歳。
長福丸自身は僅か五歳の時だった。
元服自体よりも上洛の旅や、任官を受けた際の周囲の空騒ぎなどの方が記憶に残っている。
自分達兄弟の早過ぎる元服には、父の密かな考えが当然あったのだろう。
尤も、幼い彼等は完全に蚊帳の外状態だった。
江戸に住む異母兄に姫が生まれたのはその翌年のことで、父にとっては老境で得た末の三兄弟である彼等は、父に連れられて江戸へ下った。
以前に江戸に滞在したのは、それこそ元服前のことであり、長福丸改め頼将だけでなく、異母兄の義利も、未だ改築及び普請を進めている巨大な江城が遊び場としては退屈せず愉快と気に入っていたし、城に住む異母兄やその家族も好いていたから、子達は喜び勇んでいた。
父も又躁状態に近い程の上機嫌でー残された母達や仕える者達の微妙に意気消沈した元気なさげな様子がより際立ったが、頼将は全く気にならなかった。
母の事は好きだが、母がその一団の一員となる『女達』は好きではなかったので、彼女達の監視の目が届かぬ場所に行けるのはいつだって嬉しかったのだ。
(それに……義姉上にお会い出来る)
そんな目論見もある。
異母兄の妻であるひとは、幼い頼将の目には、『女達』とは全く違う生き物に見えた。
頼将等兄弟を連れて御庭を散策したり、こっそり松の木に登って松の実を取ってくれたりした。
今度遊びに行った際は木登りを教えてくれると約束もしている。
江城には実際、様々な種類の木々が数え切れぬ程あったから、飽きることなく楽しめると言った義姉の笑い方は、侍女達やあるいは異母兄や父の前で見せるものとは全く異なる、頼将達との間の秘密であり、ある種の仲間意識だと感じている。
「ずっと一緒に遊べる可愛い弟が欲しかったの。だから願いが叶って嬉しいわ」
そんな風に言ってくれた義姉を、頼将だけでなく義利も慕っている。
だが江戸に到着し、いざ家族の対面となった際に、頼将と義利は衝撃を受け、失意と不安を覚えながら顔を見合わせる事となった。
今迄直接顔を合わせていた義姉と姪は御簾で囲われ几帳で隔絶された遠い場所に座し、彼等からは顔など見えず姿が朧に窺えるだけの状態だ。
代わりに、という訳ではないのだろうが、乳母らしき女が抱いている小さな赤子が座の中心にあり、父などはその赤子のご機嫌取りに夢中になっている。
また将軍家の兄弟ーつまりは頼将等にとっては甥に当たる、異母兄の息子達ーも、父のすぐ傍を陣取っていて、頼将等は微妙に弾かれたような位置に居た。
「義利と頼将も立派に元服した。まことに目出度い」
穏やかに関心を示してくれたのは、異母兄の秀忠だ。
兄といいながら親子程の歳の差があるとは、頼将等も承知している。
父の跡を継ぎ「御家」と共に将軍職を譲られた、今や自分達の主君でもある人と教えられていた。
「さ。もっと近くへ。……鶴千代丸も此処へ」
異母兄が義姉の願いを受けて頼将等を呼んだのだと分かったのは、呼ばれた先ー先程より御簾に近く、おそらく御簾の向こうからは頼将等の顔立ちもはっきりと見て取れるだろう位置だー迄進んで、覚えのある軽やかな声を掛けられた際だった。
「まぁ、お二人とも、大きくなりました!私のこと、覚えている?」
全く変わらない義姉の口調と声に嬉しくなって、頼将は笑い、義利も肩から力を抜いたようだ。
それぞれ二人が口々に「無論覚えております、義姉上」「お会いしとうございました、義姉上」などと応じるのに、柔らかく耳に心地良い笑い声が与えられる。
「で、そちらが鶴千代丸殿ですね!何て愛らしいのでしょう!それに大きくなったこと!……宜しいでしょう、旦那様?」
義姉が異母兄に何を強請ったのかはすぐには分からなかったが、異母兄が幾分むっつりとした感を漂わせながら合図し、弟を連れた乳母を御簾の向こうへと移動させたのに、頼将は又も兄と顔を見合わせる。
「まぁ、良い御子だこと!元気良くまるまると太って。それに賢そうな目をしているわ。義父上様は本当に、良い御子達に恵まれておられます。あらあら、随分と重いこと!さ、歯を見せて。白くて綺麗な可愛い歯だわ♪」
「……奥。無理をしてはならぬぞ。まだ本復しておらぬのだからな」
「大丈夫ですわ。幼子を抱く位平気です。私、母ですもの」
どうやら義姉は弟の鶴千代丸を抱いてやっているらしいと推測して、頼将は不機嫌になった。
無論、頼将や兄も、鶴千代丸と同じ年頃には異母兄や義姉に抱いて貰ったりあやして貰ったらしかったが、そんな記憶は残っていない。
記憶にある最も古いものは、義姉と手を繋いで庭を歩いていたことや、異母兄に投げ矢を教えて貰って遊んだことだ。
「……旦那様」
「ああ。何だ」
「義利殿と頼将殿に、お菓子を差し上げたく思いまする。ですから」
「駄目だ」
異母兄が続く義姉の頼みを言下に却下したのに、頼将は驚いて目を丸くした。
頼将の印象では、異母兄はあくまで妻に対しては優しく時折皮肉めかしたことを言いながらも常にその願いを叶えようとしていたのだ。
「旦那様」
「幼いとはいえ、最早、義利と頼将は元服した身。それぞれ一国を治める藩主なのだ。しかも我が徳川家は今や将軍家である。規律は守らねばならぬ」
「……はい」
一瞬自分達は菓子をもらえないのかと思ったが、それは頼将の勘違いで、程無く侍女等が静々と菓子器を運んで来てそれぞれ自分達兄弟の前に置いてくれるのにほっと寛いだ。
「それにしても……男の子は成長が早いですねぇ。お二人とも、背も高くなって、顔付きも随分確りとして」
「姫だとて大きくなるのは早い。……すぐに手放さねばならないのだからな」
異母兄がその声音に冷ややかさと険を込めたような気がしたが、頼将は単純に千姫が大坂に行ってしまったからだろうと思って気にしなかった。
年上の姪ーつまりは異母兄の一の姫ーを、異母兄がとても可愛がり大切にしていたのも確り記憶にある。
だが勿論、未だ頼将は、徳川家の総領姫が大坂に行ってしまった理由など把握していなかった。
「鶴千代丸殿は、竹千代より一つ年上なのですね。……竹千代も鶴千代丸殿のように元気良く育ってくれれば良いのですけれど」
「……ああ、そうだな」
「竹千代には兄はいなくとも、年の近い叔父上達がいて心強い事です。いっそ御義父上共々、江戸で暮らして頂ければ宜しいのに」
菓子を頬張っていた頼将は慌てて顔を上げ、異母兄に目を向けた。
義利も又、だがこちらは幾分落ち着いて行儀良く、菓子を皿に戻してから城主である異母兄に注視している。
「あ、兄上、私も是非にそうしたいです!私も江戸で暮らしたい!江戸の方がずっと広くて楽しいんだもの!」
「……私も頼将と同意見です。江戸が我等徳川一門の拠点であり、幕府の所在地です。……我等は未だ幼い故、兄上のお側で国政について学びたく思っております」
さり気なく兄が頼将自身よりはずっと理に勝った援護をしてくれるのを有り難く、少々煙たくも感じながら、頼将は拳を握りしめて主張し続けた。
「左様です!義利兄上の仰せの通りです!江戸にいて、馬に乗ったり、船に乗ったりしたいです!木登りもしたいし!」
「……頼将、義利」
異母兄は少々態とらしい溜息を吐いてから、穏やかに諭した。
「そなた等を養育しておられるのは大御所様だ。大御所様の御意に従うが本分。身勝手に自儘を申すべきではない」
「……」
「でも……兄上」
「第一、私の側よりも大御所様のお側にいる方が、多くを学べる」
きっぱりと異母兄は言い切って、一瞬御簾の向こうに目線を送った。
「……無論、何時でも遊びに来れば良いのだ。そなた等は私にとって大事な弟達だ。何時だって歓迎する」
「……はい」
「……はい、兄上」
自分達兄弟が萎れるのに同情してくれたのだろう、更に別種の菓子が運ばれて来たが、落ち込み、失望した心持ちを浮上させる役には全く立たなかった。
*
大人達の談笑は未だ未だ続くらしかったが、子供達は早々にそれぞれの殿舎に引き取らされ、無理矢理に昼寝させられた。
既に元服もした成人である筈なのに、幼い子のように昼寝などしなくてはならないなんて、と頼将は日常的になっている憤懣を覚えたが、どうしようもない。
結局、未だ六歳の子供としてしか見られておらず、扱われないという事だ。
幾分ふて腐れた心地でその日を終えた頼将だったが、翌日は兄を誘って探検に出掛けた。
ちなみに彼等が父と共に滞在しているのは西の丸で、当然広い庭と本丸よりも鬱蒼とした感のーつまりは手入れがそれ程行き届いていないのかもしれないー林もある。
少なくともせせこましい京や、富士の山以外は平坦で面白味がないと思う駿府よりずっと楽しく魅力的な地と、彼等兄弟の目には映っていた。
規模を拡大しながらも、古めかしく怪しげな城廓や礎石が残っていたりするのも楽しい。
「鶴千代丸も連れて来なくて良かったのかな」
「鶴はまだちびだもの。まともに駆けっこも出来ない奴、一緒に遊べないよ」
「……」
異母兄が微妙に自分達を気遣っているとは分かっていたが、だからこそ頼将にも意地と遠慮があった。
鶴千代丸とは同母の兄弟で同じ殿舎で育っている仲だから憚りや遠慮など皆無だからこそーそして年子でもあるからー時には取っ組み合いの喧嘩もするが、義利相手ではそういう訳にはいかない。
序列は確かに義利の方が上であるが、そうした地位や立場の問題を取っ払えば、頼将は義利に比べれば恵まれているような気がした。
父の愛情は基本平等だが、頼将と鶴千代丸、二人の息子がいることで母は父にも、また家中においても重んじられている。
自然、頼将と鶴千代丸の兄弟も、特に『女達』の間ではちやほやされていた。
少なくとも、頼将はそう感じている。
あるいは、昨年、異母兄と義姉の間に二人目の男児が産まれる前迄は、微妙な空気が駿府城には漂っていた気がした。
今ひとつ頼将はその正体を掴んでいなかったものの、父が居城の奥だけでなく表にも蔓延していた微かな火種の予兆を察知し、忌避していたのだろうとは、何となく分かっていたのだ。
『竹千代』君が生まれて以来、父が江戸へ以前よりも屡々下向するのは、ある種の牽制か警告だったのだろう。
「さ、兄上、行こう!早くしないと見つかっちゃうよ」
「……うん、そうだな」
だが二人が窮屈な寝殿から、あるいは大人たちの目から逃れる事は出来なかった。
林へ到達するより前、ずいぶんと寝殿に近い場所で、庭男らしき貧相な容貌及び身形の男達に呼び止められたのだ。
「若君方、これ以上先へ行ってはなりませんよ」
丁寧ではあるが有無を言わさぬ圧力を感じ、頼将だけでなく義利も瞬間黙った。
だがすぐに自分達の身分と立場を思い出し、下人如きに従えないとばかりに言い返す。
「無礼な。許しも無く勝手に我等に口をきくどころか、我等を留め立てするなど」
「御言葉ですが、我々は上様より直々に、御庭の管理を任されている者共にございまする。御庭での事は、我等の裁量により処理するよう、命じられております」
思わず顔を見合わせた頼将達に、だが男達は気配も口調も和らげて続けた。
「実は、御台所様より、お二人に御庭での散策を共にとの伝言を承って参りました。……宜しければご案内致しまするが」
如何しますか、などと問われて、少々恥ずかしい感もあったが、二人は素直に頷き従った。
探検もしたいが、大好きな義姉とゆっくり親しく過ごせる機会は逃したくなかったのだ。
どうやら本丸奥殿の敷地内に入った所で、見覚えのある華やかな空気を常に周囲に振りまいているようなひとと、更には数人の侍女の一団が待っていた。
「まぁ!良かった!掴まったのね、二人共」
悪戯っぽくからかうような口調に、義利も頼将もちょっとした恥ずかしさや気拙さよりも、懐かしさ嬉しさの方が勝って来て笑顔になる。
「ひどいなぁ、義姉上。別に私達、悪いコトなんてしてないのに」
「そうですよ。ちょっと外に遊びに出ただけですのに」
「でも黙って出て来たのでしょう?」
にっこりと微笑んでから差し出された手に、頼将等は飛び付いて行った。
三人で仲良く手を繋いで歩くのは以前江戸に来たときと同じだ。
「昨日は御免なさいね。どうしても、お二人の兄上が駄目だって仰るから、あのような御簾など使ってしまって」
「いいえ!良いのです!だって義姉上は将軍家御台所様になったのでしょう?公式の場では我等臣下が直接お目通り叶わぬのは当然の事です」
こんな時は自分より弁の立つ兄を羨ましいと思ってしまう頼将だが、頼将が何か対抗すべく口を開くより前に、義姉が優しく手を握ってくれた。
「義利殿も、頼将殿も偉いのね。本当にもう大人になってしまったなんて。ちょっと残念だわ。……私は可愛い弟君達ともっと一緒に遊びたかったのに」
「え……」
「大丈夫ですよ!こうして皆に内緒で一緒にいる時は私達は義姉上の弟なのだもの。ね、兄上。そうでしょう?義姉上」
不安そうに口籠もった兄の代わりに今度は頼将が強引に主張する。
義姉が嬉しそうに綺麗な笑い声を聞かせてくれて一層彼等は嬉しくなった。
「そうね。皆には内緒よ。……御父上にも言っては駄目よ」
「はい、義姉上」
「はい!絶対に言いません」
少し見晴らしの良い場所に出る。
良い枝振りの木を三人で見上げ、それから頼将は未だ手を繋いだままの義姉を上目遣いで見詰めた。
「義姉上。木登り、する?」
「……そうね。したいのだけれど。今はまだちょっと出来ないと思うの」
驚いて目を見開く二人に、義姉は小さく小首を傾げ、少し哀しそうな貌をした。
「義姉上?」
「あのね。私……少し前に姫を出産したばかりでしょう?だから……まだ登れないの」
「そうなんだ」
残念には思ったものの素直に頷いた頼将の頭を義姉は撫でてくれ、心配そうに義姉に身を寄せた兄の頬に手を当てる。
「大丈夫よ。もう、随分と良くなったけれど……流石に木登りは無理。弘法も筆の誤りと言うでしょう?」
「猿も木から落ちる、でなくて?」
「うん、そうだよねぇ」
「ま。ひどい」
笑い合いながら、結局、二人が木登りを試して義姉がそれを見守るということになった。
頼将達もそれなりに、駿府城やその他の場所で腕白を発揮して技を磨いている。
「無理をしては駄目よ!あと虫を落とさないでね!」
義姉らしい注意に一層楽しく笑いながら、頼将と兄は短い時間ながら存分に楽しんだ。
木登りと自由な刻を堪能した後で、二人は義姉と侍女等に囲まれるようにして義姉の寝殿に入った。
義姉が手ずから茶を点ててくれ、昨日とは違う菓子を出してくれるのを遠慮無く頬張る。
(これだから義姉上が好きなんだ)
頼将は単純にそう思ったし、おそらく兄も同様だろうと考えた。
全く義姉は、駿府に棲む『女達』とは違うのだ。
「やっぱり私達も江戸で暮らしたいなぁ」
溜息と共に呟いた頼将に微笑みかけるだけでなく、優しく懐紙で口許を拭ってくれた義姉は、穏やかに諭してくる。
「そうなれば私も嬉しいけれど。……でもね、御義父上も旦那様も、深いお考えがおありなのだと思うわ。我が儘を言って困らせないようにしないと、ね」
「……はい」
「はい」
「そうだ、明日は子達とも一緒に遊んでくれる?……まだ小さいからあまり面白い遊びは出来ないけれど」
確かに鶴千代丸だけ仲間外れにするのは可哀想かもしれないと思い、頼将は渋々頷いた。
義利の方は素直に拘りなど持たず「喜んで」などと模範的回答をしている。
侍女が「そろそろお時間です」などと報せて来るのに、頼将等は名残惜しく感じつつも従った。
侍女が言う「お時間」とは、将軍家である異母兄が奥殿の義姉の許へと渡る刻限を指しているのだろうとは察している。
だが翌日の約束を得た事で、機嫌良く意気揚々と頼将等は宿泊先である西の丸に戻って行った。
*
約束通り、今度は正式に招待を受け、頼将等三兄弟は本丸奥殿を訪れていた。
義姉の許ではなく、池に張り出した形の釣殿に案内され、また先日の姉の言葉通り、玩具を与えられ、自分達よりもー弟の鶴千代丸より幼いー将軍家の子等の相手をしなければならなかった。
最初は手こずったものの、慣れてくると互いに遠慮は無くなってくるだけでなく、鶴千代丸より愛嬌が良く又姉に良く似た愛らしい顔立ちをしている甥達にも親しみを感じたし、大人しく乳母に抱かれながら彼等を黒目がちの円らな瞳で見つめている赤子の姪は随分と可愛い、と思ったりした。
その内、表向きは厳めしい貌を保った異母兄である城主迄現れたものの、先日の会見とは違って小言も一切言わず、真っ直ぐ子等が戯れているのを嬉しそうに見守っていた義姉の隣へ行って腰掛ける。
「随分と元気になったな」
異母兄の声音に弾むような響きを聞き取って、あるいは異母兄は礼儀や典礼云々よりも、子を出産したばかりだという義姉の身体を気遣っていたのかもしれないと思った。
あるいはもしかして、父や自分達が江戸にやってきたせいで、義姉は無理を押して床から出て来ているのかもしれない、とも。
(だって……於梶殿は随分前にお市を産んだのにまだ時々臥せっておられるもの)
駿府にいる『女達』の一人と、今年初めに産まれたばかりの異母妹のことを思った。
数回ちらと顔を見ただけだが、妹は可愛いけれど大人しそうでつまらない、という印象を受けている。
(どうせなら姉上が欲しかったなぁ)
そんな風に頼将は思いつつ、両親の傍に控えている三の姫を眺める。
三の姫はその容貌や雰囲気も父親である異母兄に良く似ているが、話をすればなかなか面白く楽しい少女だと承知している。
また飛んで来た虫を手掴みで捕まえたのを目撃したことがあった為、頼将だけでなく義利も尊敬の念を抱いている年上の姪、であった。
だが突然楽しく遊んでいた筈の甥の一人ー年が上の、『竹千代』だーが身をふらつかせたかと思うとその場にこてんと転がったのに、侍女達の内の誰かが鋭い悲鳴を上げた。
「竹千代?!」
続く義姉の呼び掛けに頼将は声の主を注視したが、義姉の身は異母兄に抱えられ留められている。
すぐに竹千代君の乳母だという侍女の一人が進み出て素早く、小さな身体を抱き上げると簡単な礼のみ残して早足で去った。
「……どうしましょう、秀忠様。私……私のせいだわ。無理に竹千代を連れて来させたりしたから」
「江、」
「ああ……もし、あの子の身に何かあったら私……生きてはいけませぬ!私、私は、」
騒然かつ緊迫した空気に充たされるのに、異母兄は冷静に侍女等に目配せした後、半ば気を失いかけている義姉の身を抱き上げてこれ又早足で退場する。
取り残された将軍家の幼い子達はぐすんぐすんと泣きじゃくり始めているし、それに吊られて弟もべそをかいていたりするから、頼将と義利も途方に暮れた。
「……申し訳ないけれど、今日はこれでそれぞれ御部屋に戻りましょう」
落ち着き払ってそう提案してきたのは将軍家の三の姫で、兄の義利より一つ年上なだけなのに、有無を言わさぬ風格を漂わせていると感じたし、頼将だけでなく兄も頑是無く怖い者知らずである筈の弟も素直に頷き同意を示した。
「竹千代、大丈夫かなぁ」
西の丸へ戻る途中、少し心配になって兄に問い掛けてみたが、無論、兄にも答えを出せる筈がない。
「……義姉上、すごく心配してたみたいだ。義姉上の為にも、竹千代には元気になってもらわないと」
「うん。そうだね」
結局そんな風に互いの不安を宥め合う位しか出来ず、三人手を繋いで侍女等と乳母に守られーあるいは監視されるようにしてーそれぞれの殿舎へ戻ったのだった。
*
江戸滞在はあっけない程に早く終わりー元々、長逗留する心算は全く無かったらしいー、恒例の鷹狩りを催した後、そのまま父は頼将等を連れて駿府に戻った。
厳しい冬の間は駿府で過ごしたいというのが、父の口癖でもある。
(江戸って寒いのかな)
そんな風に懐かしく感じる富士の山を眺め、駿府の城を見ながら思ったが、頼将は誰かに問い糾したりはしなかった。
何れ、自分で知ろうと決めている。
(大きくなったら、江戸で暮らすんだ。江戸にも大名屋敷を置いているって父上が仰ってたもの。だから江戸にいても良い筈)
無論頼将は未だ幕府、あるいは徳川家の政策や政略などは知らず、既に表向きは駿河一国の藩主ということになっているが、頼将にとって駿府は故郷ではなかった。
それからも定期的に、頼将等は父に伴われて江戸と駿府の間を往復した。
少し大きくなった将軍家の甥達と弟が年相応の幼稚な喧嘩をして、それで一時的に甥達と三兄弟との仲が悪化した事はあったものの、所詮子供同士の事であるだけでなく、互いに遠慮無く付き合える同年齢の子など他には居なかったから、すぐに仲直りした。
だが突然ーと頼将は感じたー妹の市が四歳で亡くなった頃から、だろうか、父が江戸を訪問する回数が減り、寧ろ異母兄が駿府を訪れる事が増えた。
何らかの政局の変化か問題があったのかもしれない、とは、後年考えた事で、当時はただひたすら頼将は大好きな甥達や義姉と会えない事が辛く寂しいばかりだった。
駿府にやって来た異母兄に訴えてみても、異母兄は穏やかな眼差しを返し、軽く頭を撫でてくれるだけだ。
弟が元服した年の翌年、父は急遽江戸へ下り、当然、頼将等も従ったのだが、これ又短い滞在で終わり、旧交を温める迄は行かなかったように思う。
それでも甥達とは庭で遊んだし、義姉とは完全に御簾越しの対面ではあったものの、常通り茶を点ててくれ、菓子をくれた。
何時まで経っても子供扱いとは思ったものの、義姉が変わらずにいてくれるのが嬉しかった。
「頼房殿がお風邪を召して熱が出たとか。大丈夫でしょうか」
心配そうに聞いてくる義姉に、頼将は兄と顔を見合わせ苦笑するだけだ。
「あいつは少し熱がある位で丁度良いんですよ。とんでもない腕白ですから」
「本当に。熱が無ければとんでもない悪戯をしでかすに決まってますから」
「ま。冷たい兄上達だこと」
後でお薬と水飴を届けましょう、と義姉が優しく言うのに、頼将は心中で少々羨ましくも感じたが、面には出さなかった。
最早頼将も十一歳となり、単純に義姉への思慕を露わにするような無分別は出来かねたのだ。
父は既に、兄義利だけでなく頼将の縁談についても画策している。
軽はずみ、あるいは無分別な振る舞いは、父の名を、家の名を汚すと分かっていて出来る筈がない。
「でも久し振りにお会い出来て良かった。お二人共、また随分とお背が高くなられました」
「恐縮です」
礼儀正しく応じる兄に倣い、頼将もお辞儀を重ねる。
幼い頃のように、このひとに素直に抱き着いたり、手を繋いで歩く事はもう二度とないのだろう。
(義姉上は……将軍家御台所なのだ)
義姉の身上、かつて感じた異質な感の正体を、漸く頼将は覚っている。
つまり、駿府にいる『女達』は、あくまでも父の側室達、すげ替えが効く数多くの、子を設ける為の女達であったのに比べ、御簾の向こうにいる女人は将軍である兄が唯一人の正妻として重んじ、その身分と地位を保証し守っているひと、だった。
母やその他の女達が隠し持つ、深い部分で暗く捻れているような隠微さを、義姉が全く持ち合わせていないのは当然の事だ。
明るく後ろ暗い所や翳りなど無い輝きを備えたひとに眩惑され惹かれたのも又、絡みつく藻か泥のように漂う多くの女達の情念と抑圧された敵意に生まれた時から晒され、育って来た頼将等には、如何ともし難い不可抗力だった。
そして将軍家の子達、甥や姪達も、輝く日の光の下に生まれた清らかに正しい子供達だ。
だからおそらく。
叔父という立場でありながら頼将等が臣下として甘んじねばならないのも当然。
己の子達の為に確固たる立場と地位ーそれだけでなく誰にも文句が付けようがない名分ーを静かにかつ強かに築き上げた異母兄が、何れこの国を治める者となるのも、納得出来た。
「長く滞在頂けないのが残念です。……竹千代も国松も、寂しがるでしょう」
義姉がくれた自分達を惜しむ言葉を大切に戴いて、頼将は父に従い、駿府への往路を辿った。
次に何時江戸を訪れる事が出来るのかは分からない。
「さて。次はどうするか。……上洛でもしてみるかのう」
父の呟きが流れてきたのを聞いたが、その時は特にその意味や理由など考えなかった。
「でも父上。昨年も上洛されたではないですか」
「何。京には尊き主上がおわすのだ。……我等、主上より官位を授けられた身であるのだから、主上の忠実な臣であり、剣とならねばならぬ。良いな」
「はい、父上」
日の本一高いらしい、霊山を横目で眺め、後数年したら必ず江戸で冬を越そう、などという決意を新たにした。
(せめて……もっと近くに、いたい)
だが、頼将は未だ己の真の望みが何処にあるのかは知らない。
未だ何も失ってはいなかった頃の話。




