18、光の子と迫る星
マルク先生が難しい顔で本のページをめくるのを、私は黙って見守った。
放課後、ようやく授業や雑務を終えて戻ってきたマルク先生に印をつけた地図を見せると、先生はすぐに何かに気がついたようだった。
気づいたことの確信を得るために、本を調べているらしい。
傍らに積まれているのは、大型の術式に関しての本ばかり。
魔法にはいろいろ種類というか難易度があって、簡単なものほど簡略化され、難しいものほど複雑にできている。
火や風を起こすなどという簡単な魔法は短い呪文と杖だけで発動できるけれど、もっと大規模な効果や現象を起こすためには複雑な魔法円や長く難解な呪文を必要としているというわけだ。
召喚術とか広域探知魔法とかが身近だけれど、授業でもあまりやらないから、普通に生きていればあまり縁はない。
地図に浮かび上がった模様は、やはり何かの魔法円なのだろう。予想は外れていて欲しいと思ったのに、先生のこの反応を見る限り、そうもいかないみたいだ。
しかも、先生がさっきからかじりついて読んでいるのは、星読みに関しての本だ。
ずいぶんと古い本みたいで、黄ばんでページが傷んでいる。それに、よく読み込んでいるみたいで、先生はパラパラせずとも目的のページをすぐに探し当てた。
「んー……」
「先生、何かわかった?」
先生は本から顔を上げると、目の疲れをほぐすように眉間を揉んだ。その様子はげっそりしているというより、何かから目をそらそうとしているように見える。
――小テストの採点とかしてるとき、よくこんな顔するよね。生徒の不出来ってつまりは自分の授業の至らなさだから、直視するのつらいもん。
ようはマルク先生は今、直視しがたい何かに直面しているということだ。
先生は小さな声でうなったり溜息をついたりするばかりで、何も答えてくれない。
よほど難しい問題なのだろうから、この隙にお茶でも淹れてあげようかと考えていたら、先生がようやく口を開いた。
「……ルー、今すぐみんなに危険を知らせて、ここから逃げたほうがいいかもしれない」
「え?」
「ここに、やばいものが降ってくるんだ」
まるで終末思想じいさんズみたいなことを言い出した先生に、私は何も言い返すことができなかった。
だって逃げるなんて、やばいものが降ってくるなんて、現実的じゃない。
でも、長いこと言い渋ってようやく口にしたということは、それが本当のことだからなのだろう。
「先生、何がわかったの? 順を追って説明してくれないと、私もわかんないよ」
「そうだな、ごめん。俺も気が動転してて」
先生は困ったように頬をかいて、それから紙を用意した。そこにさらさらと何か書いてから、ためらうようにペンでテーブルをコンコンした。
「ルーが持ち帰ってきてくれた地図に描かれた模様が、これだろう? おそらく、全体像をとらえることができたら、ルーの推理通り円になると思う。それで、見えている限りの模様から推測された魔法円が、これなんだ」
先生は地図から読み取った図形を紙に写して、そこに足りない部分を描き足していく。
途切れている半円は円にし、中途半端な線はきりのいいところまで伸ばしていくと、浮かび上がったのは二十の円の中に七つの頂点を持つ星。
「これ、七芒星って呼べばいいんですか……?」
「そうだ。本来なら正七芒星というのは描けないから、『不可能を可能にする』という意味として使われるんだ。……と、その他の部分の細かな模様について解説してたから時間がかかるからそれは端折って、これを見てくれ」
そう言って先生が指差すのは、先ほどまで読んでいた本のページだ。そこには、先生が紙に描いたのと同じ魔法円があった。先生が描いたものよりさらに緻密で複雑な魔法円が。
私には、それが何をするための魔法円なのかわからない。
「これは古い魔法で、よくよく学んだ者なら存在を知っているかもしれないが、その効果は眉唾ものだと考えられている魔法だ。それほど強力で、実際に使用されれば大変なことが起きる」
「でも、その大変なことが起きる魔法円が、森に描かれているってことですよね?」
「そうだ。……これは、星を落とす魔法なんだ」
「あ……」
先生に言われて、私は今朝のリリベルが言っていたことを思い出した。
火球――隕石が落ちて、森が火事になってしまう。それはつまり、この星を落とすための魔法円と話がつながる。
「でも先生、星を落とすなんて簡単にはできないでしょ? それに、そんな強大な魔法を使おうにも、それに必要な魔力を制御できる人なんて……」
「いるんだよ。そのために、わざわざ魔力の流れを歪めてまで魔法円に魔力を注いでるんだ。発動のための魔力を個人で賄うことができないから、流れそのもので魔法円を描いたんだ」
「じゃあ、可能だってこと?」
「通常なら、かなり難しかったはずだ。でもな、今年は運悪くある周期彗星がこの星に接近する年なんだよ。……実に七十六年ぶりのことだし、星読みはあまり彗星を重要視しないから、意図的だったかどうかまではわからんけどな」
「それじゃあ……」
私が森の中で魔法円を発見したときに考えてしまったことは、どうやらマルク先生の推理とも一致するものらしい。
この魔法学校で今、何かやらかそうとしている人間がいるとしたら、それは間違いなく終末思想じいさんズもとい星読み派の連中だと思っていた。
彼らの不審な言動と、学校周辺に起きている怪しい現象というのは自然と結びついてしまう。リリベルの予言とも。
「……星読み派のじいさまたちは、何でこんなことしたのかな?」
「自分たちの予言が当たったと周囲に思わせることができれば、自分たちの権威を再び取り戻せるって思ったんじゃないのか? ……まともじゃない。そんなまともじゃない連中の思考を探ろうとしたって無意味だ。そんなことより、早くみんなに知らせて避難させないと。じいさんたちと心中なんて真っ平だ!」
先生はそう言うと椅子から立ち上がって、部屋の隅から引っ張り出してきた大きなカバンに荷物を詰め始めた。衣類や魔法の道具、それから机の上の写真立てを詰めたことから、本気で逃げるつもりなのがわかる。
だから私もそれにならって、こちらに帰ってきてから買った少しの荷物をまとめる。
「まずはテレサ先生に知らせて、そこから他の先生への伝達を頼もう。誰も終末思想じいさんズの言葉は信用しなくても、『およそ八十年ぶりの周期彗星の接近がまもなく』って筋の通った話ならみんな逃げてくれるだろう」
「だね。じゃあ、とりあえず手分けして知らせに行こう。私はデリアたちのいる女子寮に行ってくる! 先生、集合場所は玄関ね」
「そうだな。何なら手っ取り早く手紙も飛ばそうか」
そんなふうに言い合って部屋のドアを開けると、廊下に何かの気配を感じた。それがちょっとした人だかりというか人の塊で、それらの顔ぶれに気づいたのと、向こうが私たちに気づいたのはほぼ同時だった。
「ルーラだ! ルーラがおったぞ! 本当に帰ってきとったのだ!」
「何と! マルク先生が部屋に隠しとったのか!」
「破廉恥な! マルクの破廉恥小僧め!」
廊下で団子になっていたのは星読み派のじいさんたちで、私の姿に気づくや否や騒ぎ始めた。猛然とこちらへ向かって来る彼らにおどろいていると、背中に守るようにしてマルク先生が前に立ってくれた。
「あなた方のようなものから守るために、私の部屋に匿っていただけです。後ろ暗いことなど何もありませんし、俺と彼女の間にやましいこともありません。若い女性を捕まえて、そのような嫌疑をかけるのはやめていただきたい!」
何だか勢いだけは立派なじいさんたちに向かって、先生は毅然と立ち向かっていた。スケベな妄想も、きっぱりと否定してくれた。
自分の名誉のために怒ったのではなく、あくまで私のため。
こんなときなのに、そのことにキュンときてしまった。
「こやつが破廉恥かどうかなどこの際どうでもよい。それより、お前がこうして隠しとったせいで、こんなにギリギリになってしまったではないか! 早くそのルーラをこちらへ引き渡せ。今ならまだ間に合うかもしれん」
「そうだそうだ! “光の子”をこちらへ差し出せ!」
マルク先生が精一杯出してる威圧感なんてものともせず、じいさんたちは私に手を伸ばしてくる。その圧が怖い。
イベントでファンと対峙したって、こんなふうな恐怖は覚えたことがない。あの人たちだって、熱気でいえばかなりのものだ。ということは、やっぱりこのじいさんたちは何か変なのだ。
「……リリベルのことじゃなかったのか。“光の子”って、何なんですか!? そんなわけわかんないこと言われて、この子を差し出すわけないだろ!」
じいさんたちの言葉になぜか動揺しつつも、先生は退かない。でも、それよりもじいさんたちのほうがエネルギーが大きかった。
「お前なんぞに説明しとる暇なんかないわ! その子なら、厄災に打ち勝つことができるかもしれんのだ!」
「ルーラ。孤児だったお前を引き取って立派な魔法使いにしたこの学校に報いる気はないか? あるなら、降ってくる星をどうにかせい。お前ならできると星読みに出ておる」
「森を焼く恐ろしいものを打ち砕いてくれ。おそらくお前の破壊向きな魔法は、このときのためのものだったのだよ」
手を伸ばし、じいさんたちは必死に私に訴えかけてくる。
理由はわからないけれど、ようは私に彗星と戦ってこいと言っているのだろう。学校に対して育ててもらった恩があるから、それに報いるべきだと。
「説明する暇がないって言うなら、わけがわからないから従いません。恩はあるけど、そんなの命あってのものだし。私、みんなに知らせて自分も逃げるのが忙しいので、失礼します」
「逃げたって無駄じゃ! 逃げ切れるものじゃないから、わしらもこんなに焦っておるんだ!」
マルク先生の手を引いて立ち去ろうとしたところを、ついにじいさんズの一人に手を掴まれてしまった。すぐさま先生が引き剥がしてくれたけれど、じいさんのその必死さが怖い。
「だったらなおさら逃げます。それに、みんなを逃さなきゃ! じいさんたち、責任取るって、ここでうだうだ言ってることじゃないよ!?」
「わかっとる。わかっとるから頼んどるだ。落ちてくる星から逃げて助かるなら逃しとる。現に、少し前まではそうしようと思っとった。だがな、星が落ちて森だけでなく学校も壊れてしまったら、校舎の下に隠されたり封印されたりしとるもんが出てくるんだ。そうなったら、町も終わりだ! どのくらいの規模でどれほどの厄災が起こるかわからんから、降ってくる星をどうにかしてくれと言っとるんだ!」
「……何それ? 助からないってこと?」
「そう言っとるだろう!」
じいさんたちの衝撃告白に、頭をガンと殴られたみたいな気分になった。
じいさんたちの言葉を鼻で笑ってあしらうことができないのは、魔法学校の生徒である私たちは校舎の下にいろいろあるというのを真実として教わっているからだ。
魔法学校は、人を拒んでいるわけではないものの気安くは寄せつけない造りになっている。
その理由は、豊富な魔力の根源となる表に出せない様々なものがあるから。
魔法史として習う正史では、この学校の地下にはかつて迫害や偏見と戦い魔法を守り抜いた英霊を祀る廟があると教えられる。
一方、先輩から後輩へと密かに受け継がれた噂によると、学校の地下には悪しき龍と、それを討ち滅ぼした魔法使いの怨念が眠っているという。
つまり私たちは正史と噂話によって、学校の地下には確実に何かが存在することを教えられているのだ。
それが英霊であれ怨念であれ、校舎という鎮めを失えば外側へそれらが出ていってしまうということだ。
豊富な魔力の源流は、制御できなくなればただの危険なもの――そんなこと、魔法学校を卒業した者なら誰でもわかる。
だから、じいさんたちの恐れも理解できた。
「頼む! わしらの星読みでは、ルーラならこの事態をどうにかできると出ておる。元々魔力が強く、それゆえ魔法使いとして生きるしか道がなかった子よ。自分が他の者とは違い、魔法の才があるのは自覚しておっただろう? だから、この通りだ」
じいさんたちは、みんなそろって床に膝をつき、深々と頭を下げた。偉そうにしていた人たちがそんなふうに土下座するなんて、信じられないことだ。そのくらい、事態は差し迫っているということだろう。
「たとえ事態をどうにかできたとしても、する義理も義務もルーにはありませんよ! あんたたち、自分たちの失敗の尻拭いを子供にさせようってのか!」
土下座するじいさんたちに、マルク先生が吐き捨てるように言った。いつも穏やかな眼鏡の奥の目が、今は怒りに燃えている。
日頃のじいさんたちなら、そんなふうに若造の先生に怒鳴られたら、怒りをあらわにして怒り狂っただろう。
でも今のじいさんたちは、肩を震わせていても頭を上げることはない。そのくらい、本気で私に土下座しているということだろう。
「こんなことになるとは、思っとらんかったんだ……」
じいさんたちの誰かが弱々しく呟いたその言葉が、すべてということらしい。
「わかった。私、やります」
半分以上投げやりな気持ちで、私はそう口にしていた。