1、魔女っ子ルーラの帰郷
もう、何もかも嫌になってしまった。
これまでの人生の半分以上はあんまり幸せなものとは言えなかったものの、それをあっけなく上回るほどの嫌な騒動が起きたのだ。
騒動が起きてすぐは悲しくて辛くてとにかく涙が出たけれど、それも収まると私の心に浮かんだのは“無”だった。
圧倒的“無”。
何もしたくない。何もかもが面倒くさい。
元気にならなければならないと思うけれど、元気になれば仕事に行かなくてはならない。元気でなければ、仕事にならない。
私の仕事は、常に明るさと笑顔を要求される。
笑って、歌って踊って、ちょっとした魔法で観た人たちに元気を与えるのが私の仕事だ。
でも、よく考えてみるとその仕事がまだあるのかも不明だ。
そもそも、私をこんなに打ちのめして無気力にしたのは、根も葉もないけどとんでもないスキャンダルである。
そんな醜聞にまみれた私に、まだ仕事なんてあるのだろうか。
そんなことを考えると、またさらに何もかもが面倒になった。
小さな“世界”を出るときは、これが私の天職だと思ったのに。
今では、間違いだったとわかる。何もかもが。
生まれてきたことも、こうして今なお生きていることも。
それで、私は思いついた。
――じゃあ、死のう。
そんなふうに思っても、不思議と未練はなかった。悲しくもなかった。むしろ、心がものすごく軽くなった。
死ねば、苦しいことからも悲しいことからも、面倒くさいことからも解放される。
そう思ったら、楽になったのだ。
でも、いざ死のうと思ったら、大好きな人が私の名前を呼んでくれる声を思い出してしまった。
『ルー』
いつだってそう優しく呼んでくれる、マルク先生の声を。
くしゃっとした柔らかな笑顔も。
思い出したら会いたくなって、気がつけば列車に乗っていた。
本当なら、先生がいる魔法学校には空飛ぶトラムを乗り継いだほうが早い。
でも、トラムの車内は狭いし、乗り換え駅はどこも混雑している。なるべく人の多いところは避けたい今、時間はかかっても列車と乗り合い馬車で行くほうがいい。
思い立ったらすぐ動いたほうがいいと思って、日暮れと共に最寄り駅へと向かった。それから夜通し列車に揺られて、午前のうちに乗り合い馬車に乗り、魔法学校の近くに到着したのは夕方になってからだった。
列車に乗っている間も、馬車に乗ってからも、落ち着かなかった。私の正体を「魔女っ子ルーラ」だと見抜く人が現れやしないかと気が気じゃなかったのだ。
途中で誰かが、魔女っ子ルーラのヒット曲「恋の呪文はピンクのルージュで」を口ずさんでいた。
前だったらきっと嬉しくて誇らしく感じただろうに、そのときはただ怖くて、嫌で、それ以降ずっと気が急いていた。
――早く、早く早く。
馬車を降りてからは、ほとんど走っていた。森に守られるように存在している魔法学校へ。
私の人生の幸せのすべては、あの森の中にあると言ってもいい。
大変なことももちろんあった。
でも、魔法学校にいたときは本当に楽しかった。
だから、私は走った。
森に入ってからは、陰鬱な気持ちがどんどん軽くなるのを感じていた。
勝手知ったる場所だ。たくさんの楽しい思い出がある場所だ。
――右手に進めば、夜光石が採掘できる秘密のスポットがある。左手に進めば、精霊が願い事を聞いてくれるという泉がある。もっと進んだら、箒で飛ぶときの目印の木々も。
頭の中にどんどん、思い出が蘇る。
友達とたくさん遊んだ。走りまわった。魔法の練習もした。
天涯孤独だった私にも、この魔法学校に来て友達と呼べる人たちができた。嫌いな人も、意地悪な人もいたけれど。
でも、やっぱり一番思い出すのは、マルク先生とのことだ。
優しかったマルク先生。
私の人生で初めて、私に優しくしてくれた人。
たくさん叱られたけど、たくさん世話も焼いてもらった。
兄のような、父のような人。
この世界で一番私のことを知ってくれている人だけれど、たぶん私も先生のことをよく知っている。
しっかり者の熱血教師に見えるのに、実際は忘れっぽいおっちょこちょいなことも。
いつもかけている眼鏡が実は伊達眼鏡だったことも。
もっさり冴えない感じに見せかけて、その眼鏡をはずすとなかなか整った顔をしていることも。
きっと他の人は知らない、私だけが知っていることだ。
そんなことを思ったら、早く会いたくてたまらなくなった。
教師用の寮の部屋へ行けばいいのだろうか。
箒は持ってきていないけれど、杖はある。先生の部屋の窓の高さくらいなら、浮遊魔法で浮き上がれる。
それにもしかしたらこの時間帯なら、次の日の授業の準備のために森の中の薬草園のはずれにいるかもしれない。
マルク先生はいつだって、授業の用意に余念がない。生徒たちが失敗して材料が足りなくならないように、いつもこっそり多めに採取しておいてくれるのだ。他の人たちの邪魔にならないよう、薬草園のものは使わず、こぼれ種が芽吹いたものを中心に採取する。
這いつくばって一生懸命探しているから、いつも腰が痛くなると言っていた。
まだ若いのに顔をしかめて腰をさする姿がおかしくて、私はいつも笑ってしまっていた。
「いたたた……え?」
「……!」
突如揺れる草むら。そこから盛り上がったように現れた人影。
それを見て、私は絶句した。目の前にいた人物も、言葉を失っている。
「……先生」
そこにいたのは、会いたくてたまらなかったマルク先生だ。
無造作に結ったちょっとボサボサな栗色の髪も、ずれた眼鏡の奥でパチパチしている琥珀色の目も、最後に会った二年前と変わっていない。
――ああ。今、死んでもいいな。
懐かしいマルク先生の顔を見て、私はそう思った。
「先生、眼鏡ずれてるよ」
ボケっとしたままの先生に三歩で近づいて、眼鏡のずれを直してあげた。そしたら、先生はさらにびっくり顔になる。
「……ルーか? 本当に、ルーなのか?」
信じられない様子のマルク先生に、私は頷いた。
「……そうか、そうか。ルー、ちょっと大きくなったんじゃないか?」
目の前にいる私が偽物でも幻でもないとわかると、先生は眩しいものでも見るかのように目を細めた。
その言葉とか表情とかは、私に親がいたらするんだろうなって思うものだ。
それを見て、改めて思う。
――帰ってきて、よかった。死ぬ前にマルク先生の顔が見られて、よかった。
私は、物心ついたときから孤児だった。
気がついたときには孤児院にいた。そこにいたるまでの記憶はまるでないし、そこで過ごした記憶もあまりない。
というよりも、特筆するようなことがなかったのだ、私の人生に。
ただ毎日お腹を空かせて、誰かにいじめられて、大人に叱られるだけの日々だった。
私の髪は春の花のような柔らかなピンク色で、そのめずらしさから恰好のイジメの的だったのだ。
人目を引く、というのはああいった場所ではご法度だ。
なぜかというと、みんな成り上がりたいから。孤児院よりも良い生活ができるところに行きたいから。
孤児院にはたまに、子供を欲しがる人がやってくる。実子に恵まれない夫婦だったり、屋敷で働かせる労働力を求めたお金持ちだったり。
そういう人たちは見目の良い子か、頭の良い子か、お利口な子というのを求めていて、その中でも見目の良さが重要視されることが多い。だからピンク色の髪なんてしている私は、真っ先にイジメの対象となったのだ。
髪を引っ張られるなんて可愛いもので、ひどいときはハサミで切られることもあった。そのせいでいつも私の髪はボサボサでざんばらで、ちっとも可愛くなんてなかった。
おまけに私は頭が良い子でもお利口でもなかった。
小さくて弱いくせに暴れん坊だった。怒りが極限に達すると、身の回りでおかしなことが起こった。
どうやら私には不可思議で厄介な力があるとわかってからは、子供も大人も誰も味方してくれなくなった。
だからいつも寂しくて、辛かった。
その変な力が魔力だとわかって、魔法学校から声がかかるまでは。
魔法というのは、誰にでも使えるわけではない。適性というものがある。
魔術や錬金術にも多かれ少なかれそういったものがあるけれど、魔法ほどではない。ある程度は努力で補える。
でも、魔法は無か全だ。適性がなければ、絶対に使うことができない。
だから、私は魔法学校に迎え入れられた。
そこで出会ったのが、マルク先生だった。
『ようこそ、小さな同朋。今日からここが、君の“世界”だ』
マルク先生はそう言って、笑顔で私と握手してくれた。
魔法学校に迎え入れられたからといってすぐにお利口になるわけもなく、最初のうちはものすごく手を焼かせた。
『いやなことをされたなら言葉でいやと伝えなさい。叩いちゃだめだ。噛むのはもっとだめ』
『この学校で学ぶやつらはみんな仲間だ。仲間に杖を向けるな。魔法をそんなことに使うんじゃない』
しつけのなっていない野生生物のような私に、先生はそんなふうに大切なことをたくさん教えてくれた。
『ルー、お前は可愛い顔をしてるな。髪だって、ちゃんと梳かしたらすごくきれいだ。笑ってろ。しかめっ面するな、もったいない。そうやって笑ってたら、お前のことを好きになるやつは簡単に増えていくぞ』
先生にもらった言葉はどれも大切な宝物だけれど、中でもこれが一番だ。
そう言われて以来、私はずっと笑顔を心がけてきた。髪の手入れも怠らない。
先生が二十歳くらいで、私が十一歳のとき。
思えば、あのときから私の初恋は始まったのだ。