四肢との決別
「手さん、勇気ある行動でしたね」
「足さん、今後はどういった走りを目標にされますか」
私の手が、駅のホームから線路へ転落した老婆を助け、私の足が、日本人として最速の百メートル9秒99を叩き出したことで、私の体は手と足が個別に表彰を受けた。授賞式では、両手両足に幾多の花束が手渡され、カメラとマイクはその一挙手一投足に注目した。私本体がしゃしゃり出る機会はなく、手足が勝手に自分勝手なことを言った。
そして私という存在から私の両手両足は離れ、印象が独り歩きを始めた。
私が街中を歩いていると、老若男女誰からでも声をかけられるが、その声たちは私本体に向けられたものではなかった。あくまで素晴らしい功績を残した私の四肢を人々は誉めたたえているのだ。
最近よく見る夢がある。歩いている私の目の前に、突如巨大な手足が立ちふさがり、私は歩みを止めてしまう。すると手足はどんどん膨らみ、しまいには私を掴み、踏みつぶそうと追いかけてくる。必死に逃げ惑うが、夢の袋小路まで追い詰められた私はあっけなく転んでしまい、振り返り見上げるとそこには手足が迫り……、
ぶちん、と自分が破壊される音が聞こえる前にいつも目が覚める。
この夢は強迫観念の発現だろうか。私にはよくわからない。
偶然訪れた美術館で、私は私の状況によく似た絵を見つけた。
その絵の題と作者名は、英語でもない西洋の言語で書かれており、詳細を知ることはできなかった。しかしその絵画は私に大いなるイメージを与えた。
私はこの手で人を助けることをやめた。私はこの足で走ることをやめた。そのことで世間のヘイトは私に集まり、四肢は過剰なまでに擁護された。最早私の四肢は私の体の一部でなく、形のない世間という悪魔に取り込まれてしまった。
「評判が良かったんだから、このまま自分を殺して波に乗っていればよかったのに」
と割と親しい人に言われることもある。世間との橋渡しをしてくれる彼らには、それなりの想像力、包容力があるものの、それでも私が私自身に向けているそれらとは比べ物にならないほど貧弱だ。
私は社会的五体不満足の身で、今日も人波を歩く。かつての羨望の眼差しは、駆け抜けた競技場と、電車が走り抜けた混み合うホームに置いてきた。私を守ってくれるものはない。今、手足よりも恐ろしい存在が、私の前に立ちふさがったなら、私という存在は逃げ切ることもできず壊されてしまうだろう。
それでも、と思う。世間が抱いている私のイメージと、私がさらけだすことのできなかった自分の声のギャップに、興味を示し理解しようと努めてくれる人がいるのなら、そんな他者の存在を求めることが許されるなら、壊されるリスクくらい背負ってもいいではないか。
今日も無数の足がアスファルトを踏み鳴らす世界で、這いながら生きている。