うねりの前に
時系列、場面切り替えが激しいですので、お気を付け下さい。
秘密を幾つか入れたので、見つけたり、想像して楽しんで頂けたらな、と思います。
命を奪うんだ。だから俺達にもそれなりにルールがある。
少ねぇから、ちみっと覚えといてくれよ。
別に忘れてもいいけど。
【ルール1】
罪を犯したヤツしか殺せない。
【ルール2】
依頼人の意見を尊重する。
【ルール3】
依頼人に、同情しない。
な、こんだけだ。
【ルール2】は、守らないヤツ多いかな。【ルール3】は、こんなもん、何であるのか解んねぇなぁ……。
さぁ、仕事、仕事。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
お父さんとお母さんはいつも喧嘩してる。
二人はいつも憎み合ってる。
なのに、いつも一緒にいる。
ボクにはそれが分かんない。
今日もお父さんがお母さんをぶった。
一回顔をぶって、よろめいたところをもう一回ぶった。
お母さんは食器棚にぶつかって、ガラス戸がガシャンと割れた。
しんと静まったダイニングで、誰も見ていないテレビが、『今期の台風は大型……激しい雨模様……皆さま警戒を……』とブツブツ言っている。
ああ、台風だよ。風は止まらないし、激しい雨が降っている。でも、子供のボクにどうしろっていうの?
カチャン、と音がして、また時間が動き出す。
お母さんは頭や肩にガラスの破片をキラキラ光らせながら、お父さんに飛び掛かった。何かの拍子に椅子が倒れて、ボクの足元で大きな音を立てた。
ボクはイヤだった。
大きい声も、大きい音も、何か見えない物が壊れて行く音も。
だから、ボクは後ずさった。
だから、ボクはそっとお母さんの鞄に手を入れた。
そうして、ボクは家を飛び出した。
お父さんとお母さんは、それに気付かずにボクの後ろで何かを壊し続けている。
台風から逃れて台風の中に飛び出したボクは、傘をちゃんと持って来た。でも、ちょっと試したくなって開いてみたら、強くて暖かくて生臭い風が、すぐに持って行っちゃった。もうすぐ雨が降るっていうのに。……君は雨にうたれなさいという事なのかな。お母さんがお父さんにぶたれている様に。
ボクはお母さんのギラギラした長財布を抱える様に持って、バスに乗った。バスの中は薄暗くて、ボクはとても落ち着いた。
ずっと乗っていたいな。こうして大きな窓から、光が飛んで行くのを見るのは良い気分だった。でも、終点があるんだ。でも、終点は電車の駅だからいいんだ。でも、電車にも終電があるんだよね。
雨がたくさん降って来た。
ボクはこんなにも心細い。
洗ってくれないかなぁ、この出してはいけないと感じる気持ちを。
電車の中はとても混んでいた。だから、地下鉄や私鉄が混じってる駅でドッと降り出す大人たちに押される様に、ボクはその駅に降りたんだ。
デパートや色々なお店も入っている大きな駅だったから、行きかう大人たちの持つ濡れてくしゃくしゃになった傘や鞄、ツルツルした床に出来た小さな水たまりなんかが無かったら、外が台風だなんて思えないくらい明るくて広かった。
ボクはキオスクでオニギリと炭酸のジュースを買った。お金はたくさんあるのに、憧れていた玩具付の大きな四角い箱のお菓子はなんでか買えなかった。
オニギリと炭酸ジュースは合わなかったけれど、ボクはキオスクと雑貨屋さんの間の、『STAFF ONLY』と書かれた扉の前に出来たくぼみで、それを食べた。
皆、ボクになんか目も止めずにせかせかと行きかっている。
ボクは、それを眺めている。
誰も、ボクなんか見ない。チラリとも。
味が、胸から喉に上がって、ベロの上で広がってる。
それは、オニギリと炭酸ジュースが混ざったよりも変な味だ。
さて、一通りの事はしたぞ、とボクは思った。
ボクはレイセイな子供だから、いくら明るいからってここで寝るのは無理だって分かってた。だから、あっけなく帰ろうとしたんだ。
そうしたらね、後ろからポップコーンの匂いがしたんだ。
振り返ったら、『STAFF ONLY』の扉が無くなってた。
かわりに、細長い階段があったんだ。下に降りる階段で、ポップコーンの匂いはそこからもわっと上がって来ていた。
階段の下からは、なんだか楽しそうな曲も聞こえるんだ。他にも、英語でブツブツ喋っている声や笑っている声、銃の音や、怪獣の鳴き声も小さく聞こえて来る。
階段は明るかったし、壁にはたくさんのポスターが貼ってあったから、ボクはちっとも怖がらずに階段を降りる事にしたんだ。
たくさんの楽しげな音が、こっちだよって、ボクを誘っている。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ボクは映画館に何度も行った事が無い。
お父さんもお母さんも、あまり映画に興味が無かったから。
それに、子供向けアニメ映画なんてレンタルで十分だって考えていたみたい。
だから、二人が友達の話題から外れない様に「見たよ」って言える様な、かなりのヒット作が無いとボクは映画館へ行けなかった。
でも、ボクはそれでも嬉しかったな。
映画の内容は良く解らないし、じっと座っていなくちゃいけないのはイヤだったけれど、ポップコーンやジュースを持って席に着くのは何だかワクワクする。
ゆっくり暗くなりながら、幕が上がるのもワクワクする。
予告は良く解らないけれど、盗撮撲滅運動のカメラ男はカッコいい。携帯電話の電源を切ってとか、周りに迷惑をかけてはいけませんよって言うお知らせも面白かった。
ボクはそういうのを思い出しながら、ドキドキして階段を降りたんだ。
だってさ、ボク、財布を持っているんだ。わかるでしょ?
階段を降りると、そこはとても狭い、赤味のある薄暗い受付だった。
なんだかいろんなところから見られているみたいな、ちょっと狭苦しく感じる受付に、お兄さんがタバコを吸ってボンヤリ座っている。何故だかお兄さんにスポットライトが当たっているみたいになっていて、そのお兄さん以外は、だあれもいなかった。
受付と反対側にある小さなフードコートは、背の高い丸テーブルが二つ置かれているだけで、しんと電気が消えていた。ボクは少し残念だった。キオスクのビニール袋に入っている炭酸ジュースは、持ち込み禁止かしら?
はやんない映画館なんだな、ってボクは少し気まずくも思った。
お兄さんは黒い前髪の向こうから大きくてカッコいい目だけをボクに向けて、ふー、と煙を吹いた。それから、少し目を細めて僕をじっと見た。
ライオンみたいだ、ってボクは思った。
ボクは、ちょっと怖かったけど、今の気分にこのお兄さんはピッタリだと思った。
何だか悪い、ワクワクする様な事を教えてくれそうで。
何だかボクを取り巻く全部を、壊してくれそうで。
「っらしゃ~い」とお兄さんが言って、タバコをギュッと灰皿に押し付けて消した。灰皿は女の人のおっぱいの形をしていて、ボクはチラッと盗み見て後でもう一回見よう、なんて思っちゃった。
お兄さんは片肘をついて受付に近寄る僕を待ち受けた。
少し動きがグラグラしている。
お父さんがお酒を飲んだ後みたいだ、ってボクは少しだけ緊張してしまう。
「あの、あれが見たいんですが」
ボクは映画館の注文の仕方が良く解らなくて、さっきから目を付けていた見慣れないロボットアニメのポスターを指差した。ロボットと男の子が、一緒に怪獣と戦っていた。怪獣の後ろでは、大人の綺麗な女の人が悪そうに笑っている。あの女の人が黒幕だ、と何となく予想した。
アン? とお兄さんが身を乗り出して目を細め、ポスターを見た。
「ああ、ゴメンな。あれはやってねぇよ」
「じゃあ、あれは?」
ボクは今度は犬と男の子が楽しそうに遊んでいるポスターを指差した。犬はボクがあまり見かけた事の無い大型犬で、男の子はボクくらいだ。とても幸せそうにしているけれど、その背後には怖そうなオジサンが笑っている。ボクには分からない種類の、なんだか怖い笑い方だった。
お兄さんはそのポスターをチラッと見て、赤い箱から新しいタバコを出して咥えた。ライターがシュッといって、お兄さんの顔を照らした。その口は、タバコを咥えているのにニッと笑っている。
お兄さんはノドボトケをぐいとボクに見せながら、天井に煙を噴き上げた。……いつかボクにもあれが出来るだろうか?
「あれもやってない」
「……」
ボクが戸惑って、他の面白そうなポスターを探していると
「ボクチン、ポスターのは全部終わってんだ」
「え、じゃあ……」
お兄さんは人差し指と親指でタバコを摘まんで、受付からボクに身を乗り出して、首をグラグラさせて言った。
「あれは館長のコレクションなんだ。紛らわしくて悪いケド」
「そうなんですか……じゃあ、何がやっていますか」
「観たい?」
なんだかボクは拗ねて来た。だって、お客さんはボクなのに、「観たい?」なんて。子供だからでしょ?でも、ボクはお母さんの財布を持ってるんだぞ。
「……何がやっていますか?」
「愛憎劇なら」
「あいぞう……?」
「ボクチンには早ぇえかな~」
「他にはないですか」
お兄さんはギィィと音を立てて深く椅子に腰かけると、頭の後ろで腕を組む。着ているTシャツにプリントされた怖そうなお姉さんがボクに「Shit!」と叫んでいた。
「ねぇよ。今夜はこの一本だけだ」
だから流行って無いんだ、とボクは意地悪に思った。
帰ろうかな、と思ったけど、ボクはこの悪そうでカッコいいお兄さんに、がっかりされたくなかった。
何だか、気に入られたかったんだ。ボクは子供だね。
でも、それだけが理由だったのかな。
「観ます。何時までやりますか?」
終電までには帰らなくちゃ行けなかった。ボクはレイセイな子供だから。
お兄さんは「はぁ?」と言って煙を口からはみ出させた。赤黒い明かりの中で、煙がチラチラ赤く光った。
「時間なんか気にして映画観んなよ」
ボクはなんだかこの言葉が気に入った。
フードコートの暗がりから、ブーンと電気の通る音がした。
ボクは頷く。
「そうだね」
「オールナイトって知ってンか?」
「オールナイト?」
「終電逃したら、ここで寝てけばいい」
「え!?」
「一人で寝んのが怖ぇなら、兄ちゃんが朝までオモロイ話いっぱいしてやンぞ」
それは、ドキドキする提案だった。
「本当?」と聞くと、お兄さんが笑った。ボクはこのお兄さんの悪そうな笑い方が、すっかり好きになってしまった。そんな楽しそうなご褒美が付いているなら、ボクは映画を観ようと思った。
たとえ、つまらなくたって。
ボクは、つまらない事には慣れているから。
ああ、誰かボクに面白い事をちょうだい。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
子供料金を払って、ボクは四番スクリーンのチケットをお兄さんに貰った。
「あ、ちょい待ち。ポップコーンねぇとな」
そう言ってお兄さんは、膝まであるブーツの音をジャリっと立てて受付から出て来ると、フードコートの明かりを付けて、ポップコーンマシーンの方へ行った。
マシーンのスイッチを入れながら、お兄さんは頭を揺すって小声で歌い出した。
お前はちっとも気付かない
それもそのはず
無理も無い
ねじれる前の
イントロダクション
お前はちっとも気付かない
なんだか変な鼻歌を歌いながら、お兄さんはスコップでザクッとポップコーンの山をすくった。
ポップコーンマシーンはさっきまで電気が消えていたのに、ボクの手に渡された派手な柄のカップは温かかった。
いつかボクも、お兄さんみたいに「オゴリ」と言って片目をつぶってみたい、とこっそり心に決めた。
ありがとう、と言ってお兄さんを見る。
お兄さんはヒョイと両眉を上げて微笑んだ。
お兄さんの胸元では、相変わらず怖いお姉さんがボクに中指を立ててる。
「四番スクリーンまで、一緒に行ってやるよ」
「うん」
お兄さんはボクの二、三歩前を猫背気味にのしのしと歩く。その腰で、なにかカッコいい物が揺れていた。漫画のガンマンが付けているホルスターだ。つやつやした皮で出来ているみたいで、ちょっとボロいみたいだけど、それがボクにはカッコよく見えた。
「お兄さん。それ、銃?」
ボクはどうせ良く似た玩具だと思って聞いた。このお兄さんは遊びゴコロがあるんだって、ますます好きになりながら。
「そだよ~」
お兄さんは振り返らずに、銃を皮のホルスターから抜いて銃身をひらひらして見せてくれた。
「カッコいい」
「そっか?玩具じゃねぇぞ~」
あはは、とボクは笑って、案内された四番館に入った。
館内はヒット作しか観に行った事の無いボクには、ビックリする位狭かった。
覚えたての言葉で言うなら、ボクの知っている四分の一だ。
でも妙に落ち着いたんだ。
ボクは、暗くて狭い所が大好きな可哀想なヤツだから。
「すぐ始まっから、好きな席で観な。じゃあな」
お兄さんは分厚い扉の間から顔だけ出して言うと、さっさと扉を閉めてしまった。
直ぐに館内が暗くなり始めて、ボクは「え、もう?」と慌てて隅っこの席に座った。
誰もいないのに、隅っこを選んじゃったボクの頭を、誰か撫でて。
映画が盗撮撲滅カメラ男も、マナー警告案内も、予告も無しに始まった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
何て言うか、やっぱり残念な事に大人向けの映画だった。エッチなシーンもあって、ボクは一人なのがラッキーだと思った。
パッとしない男の人が主人公みたいで、その人にはとても好きな女の人がいる。
女優さんの様に特別綺麗な人じゃないのだけれど、その人はその女の人を世界で一番綺麗だと思っている。
その人は、可哀想なくらいその女の人が好きだ。
その女の人が、彼に優しく微笑んでくれたから。
映画の始まりは殺人だった。
酷く、イヤな気分の。
そして酷く、酷く、そそられる。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
【Scene 1】
チャイムが鳴ったから、君は玄関のドアを開けた。
「はぁい」なんて愛想の良い声を出しちゃってさ。
今日は赤ちゃんの肌を健やかに保つと言う、バカ高い輸入品のクリームが届く日だった。最初の子供に母親はどれだけ気を揉むんだろう。たかだか、汗疹かなんかだっただけなのにさ。
君はとてもその馬鹿げたクリームを待ちわびていた。一秒でも早く、よちよち歩く可愛い我が子にクリームを塗りたくりたかった。
だから、折角あるカメラ付きのインターホンなんか見やしなかった。
そこには、如何にも怪しげな男が映っている。
君が玄関を開けると、男が立っていた。
男は帽子を目深に被り、マスクをしていた。何かモゴモゴ言っていて、そして、しょっぱなから手にはバタフライナイフを持っている。
君はそれを見とめると悲鳴を上げて、玄関を閉めようとした。男が半身をドアの間に入れた。こじ開ける。そばにあった、アイアン制の傘立てが派手な音を立てて倒れ、部屋にいた赤ん坊が、騒ぎに驚いて泣き始めた。
君は、不安に泣いてよちよち駆けて来る赤ん坊に気が付いて、男に背中を見せる。慌てて足がもつれて、普段なら気にもしない玄関の段差に躓き転んだ。
君のキレイで白いくるぶしの色が、男の目に飛び込んだ……。
ズブリ。
【Scene 2】
優しいオルゴール曲の流れる中、僕と君は赤ん坊の寝顔を見ている。
始めは小さくしわしわだったのが、最近ではふっくらとして来て何かの果実の様だと、君はそれに夢中だ。
果実? と僕は小声で聞き返す。
果実。と君は小声で答え、僕に微笑んだ。
僕は君の唇に触れた。初めての育児の不安と睡眠不足で、少し色が無い。それでも、僕にとって果実はこれだった。
「今日はやけに早く寝たね。またすぐ起きるのかな」
「次第に良く眠るんだって。ミルクをたくさんお腹に入れられるようになるから、夜泣きも減るって、角の所の奥さんが言ってた。でも、個人差があるみたい。凛はどうかな」
僕は君の話を半分くらい聞いていなかった。君の唇が僕の為に動くのに夢中だった。
それでも、機嫌を損ねない様に唇の動きが止まると返事をして見せた。
「良く寝るといいね」
君は少しやつれた。赤ん坊は夜、多い時には一時間置きに泣いた。君はその度に起きて、授乳やオムツ替えをし、抱いて揺すった。僕も度々起きては様子を見た。授乳は出来ないけど、オムツ替えくらいは出来るから。なんなら、粉ミルクにして君は寝ていると良いと提案してみたけれど、彼女は母乳にこだわった。
「仕事があるんだから」
そう言って君は、僕の提案に遠慮した。
「でも、昼間も大変だろ?」
僕がそう言うと、君はふふふ、と笑って僕に抱き着いた。
赤ん坊が生まれてからこんな風に抱き合ったのは初めてで、とても懐かしい気持ちで僕は君の首筋の匂いを嗅いだ。ベビーオイルの匂いがした。
オルゴールの音が、曲の途中でぷつりと止まった。
「もういいの?」
「なにが?」
「なにがって……」
僕と君は同じタイミングで吹き出しながら、ベビーベットの横に倒れ込んだ。
それから、赤ん坊の寝ている横で、僕たちは久しぶりに愛し合った。
ベビーベットの横で、こんな事をするなんて不謹慎だなぁ。
でも、そんな背徳感に、僕は燃えた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
君が小皿にピーナッツを盛って、自分だけ食べている。
下着姿であぐらをかく君に、僕は少しだけ抵抗がある。
でも、多分僕はそんな君が大分好きだ。
僕はビール缶を開けて、自分だけ飲んだ。君は授乳をしなければいけないから飲めないってちょっと怒った。
僕はでも、素敵な今夜に乾杯したかったんだ。
まだ赤ん坊はすやすや寝ている。
久しぶりの君との時間を取り戻して、僕はビールが飲みたかった。
君がピーナッツを僕に一粒投げた。
「痛っ」
「自分だけ」
またピーナッツが飛んで来た。
「痛っ」
「飲むなんて」
「ごめん、一口だけ飲む?」
「ダメ。凛が酔っぱらっちゃう」
そう言って君はもう一粒僕にピーナッツを投げる。
それは的を外れて、テレビラックの下にコロコロと転がって行った。僕が「あ~」と言ってラックの下を覗き込もうとしたら、君が僕の背に頬を寄せた。
「明日、拾うから。いちゃいちゃしよう。凛が泣き出すまで……」
僕は身体を寄せて来る君を腕に抱いて、うん、と頷いた。
赤ん坊が泣き出すまで、か。なんて思いながら。
【Scene 3】
彼は映画館が好きだった。何故かは分からない。
彼は一人分のチケットを買って、ポップコーンと珈琲を手に、あまりメジャーじゃない映画を観る為自分の指定席を探した。
彼の入った館は公開が運悪く重なったメガヒット作の為に、人もまばらだった。それでも彼が急いでいたのは、ヒット作に釣られた客達のせいでフードコートが混んでいたからだ。そのせいで、館内は既に暗くなり始めていた。
彼はいつも一番端の席を選んだから、列だけさっと確認して、席を見つけると座った。
隣には、一人の女性が座っていた。
彼女は隣に人が座ることに少し驚いたみたいだった。
彼も、少し驚いた。
だって、席はこんなに空いているのに。
彼は何故か「すみません」と小声で言った。
彼女の雰囲気が少し和らいだ気がして、顔を見ると、彼女は微笑んでいた。
彼は、どうせ男と来たんだろう、と広がるスクリーンを観ながら思った。
だったら厭だな。
もうすぐ彼女の連れは、スナックとドリンクを二人分抱えて、僕の前を横切る。彼は、その時足を窮屈に縮めるか、席を立たなければいけない。
ドリンクに詰められた氷が喧しくジャラジャラ揺れて、スナックの包みが無遠慮にカサカサいうんだろう。その音が近くで聞こえると思うと憂鬱だった。
でも、本編が始まっても、彼女は一人だった。
彼は、ちっとも映画なんかに集中出来やしなかった。
【Scene 4】
駆けている。
可笑しなくらいの開放感が、彼の足をどんどん動かし、駆けさせる。
だって、初めて出会った日、君は僕に微笑んだじゃないか。
僕はそれから、ずっと君だけを見ていた。
僕のものだ。
僕だけのものだ。
誰にも君の興味を引かせたりしない。
君は、最後に僕を見た。
僕だって判ったかな?
判ったよね?
ああ、悲しいよ。
でも、この幸福な気持ちは何だ。
僕たちは初対面からやり直した。
君は最後に僕を見た。
ずっとずっと、僕の記憶の中でそうしていればいい……。
頭の中で繰り返される、思い出のカット、カット、カット―――
【Scene 5】
赤ん坊は君の両親が引き取った。
僕はその方が良いと思った。
だって、赤ん坊が君の両親の慰めになるかも知れないだろ?
僕は幸せをいっぱい詰め込んで来た狭いアパートを引き払う為、ボンヤリと整理をしていた。
こんな時だと言うのに、どうしてキビキビと動けるのか、自分でも不思議だった。
引っ越し業者が二人だけ来て、少ない荷物を僕の新天地へ運んで行く。
新天地? イヤ、僕にはそんなものは無い。これからずっと。
だって、君がいない。
君のいない場所に、僕の場所なんてどこにも無い。
何もかもが無意味だ。
業者二人がテレビラックを持ち上げて運んで行く。
僕は、床に溜まった埃を拭う為、雑巾を持ってそこに屈んだ。
そして、埃だらけのピーナッツを一粒見つけた。
後で拾うって、言ってたのに。
嘘つきだ。君は。
僕だけを愛すると、教会で神様に誓ったのに。
僕は錆び付いたように微笑んだ。
白いざらついた床に、ぽたぽたと小さな丸い円が幾つも出来て、僕は震えながら身体を丸め込んだ。
指でつまんだピーナッツは、暖かくも無ければ、冷たくも無い。
ただ、まろやかに固い。
僕と君の時間も、埃だらけで、こんな風に。
台風の季節が来る。それが過ぎたら、赤ん坊は汗疹なんか作ったりしなくなるだろうな。
頭の中で繰り返される、思い出のカット、カット、カット。
【Scene 6】
何も無いガランとした部屋に、西日が射している。
彼と、彼の知らない男が、そこで対峙している。
オレンジ色の強い光の中で、人の影は濃く濃く一つだけ。
男は先ほど点けたばかりの煙草を吹くと、野性味の強い笑みを彼に向け、彼に言った。
「あんたが決めたんだ」
男は煙草を口に咥えたまま、腰のホルスターから銃を抜いた。
彼はそれを玩具だと思ったのだろう、男に怯えながらも乾いた笑いを洩らした。
銃口が、彼に向けられた。
フェイドアウト。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
エンドロールは、流れなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「よう、オモロかったかボクチン」
呆けたように幕の降り始めたスクリーンを見詰めるボクの横に、お兄さんがいつの間にか座っていた。
ボクは、なんて答えればいいのか困ってしまった。
最後のシーンで出て来た銃を持った男の人は、明らかにお兄さんだった。
なのでまさか、お兄さんが出て来る映画を、お兄さんに向かって「つまらなかった」なんて言えなかった。
「お、お兄さん俳優さんなの?」
そう言って、ボクはごまかした。
「ま、ここじゃ主演かな」
肩をひょいと上げて言うお兄さんに、ボクは吹き出した。
「主演? 少ししか出番がなかったよ」
「でも、もしこれがシリーズもんで、共通のキャラが俺だったら、俺が主役だろ?」
「シリーズ物なの?」
こんなにつまらない話の、続編があるなんて信じられなかった。
「あるぜ。メッチャクチャ」
へぇ、観てみたいなぁ。なんて、ボクはちっとも思わないのにお世辞の混ざった嘘をついた。
「残念だな、ボクチン。ボクチンは、この話しか観れねぇんだ」
お兄さんがボクの頭を大きな手でポンポンと叩いた。
ボクはおあいそに少し残念そうなフリをして、「そっか」と呟いた。
ボクは不思議だった。
この映画は変だ。飛び切り変だ。
ツジツマが全然合わないまま、パタリと終わってしまった。
「ねぇ、どうしてあの男の人と、別のシーンで出ていた男の人が」
「おっと、言うなよ~。そりゃ野暮ってもんだぜ」
「……」
「お前には解るさ」
同じものを持ってんだ。あの男と。って、お兄さんが言った。
「……お兄さん。僕にはちっとも分からない」
「ああ、今はその方が良い。だから、今決めさせてやる」
「? なにを?」
「観たろ? 俺は殺し屋なんだ」
「え?」
お兄さんはホルスターから銃を抜いて、「バキューン」と撃つマネをすると、片目だけを細めて、悪そうに笑った。
ボクは『ああ、そうか、映画の続きをして遊んでくれてるんだ』と思ったんだ。
「決めさせてやンよ」
「え?」
「赤ん坊のママを殺した野郎は、俺にバキューンされるか?」
ボクの中で何かが繋がりかけている。
でも、その繋がりをくっつける材料が見つからない。
だって、どうして?
大人の考える事は、サッパリ分からない。
この疑問は、お父さんとお母さんが喧嘩ばかりしているのに、どうして一緒にいるのか? という疑問と同じ匂いがする。
子供には分からない、大人の感情。
―――いや、でも。それって大人なんだろうか?
違う気がする。違う気が。
もっと、とても単純な、子供みたいに感情的な……それでいて大人になってから芽生える、そんな危ない何か。
危ない物は、駄目だよね。
だから、ボクはお兄さんに頷いた。
「バキューン、だね」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
映画は短かったから、時間はそんなに経っていなかった。
お兄さんは、電車があるなら帰んな、と素っ気なかった。
ボクはとても惜しい気持ちだった。
このお兄さんともっと仲良くなりたかった。
でも、お兄さんはそうじゃ無かったみたい。
そうだよね。
ボクは子供だし、飛び切りつまらないヤツだから。
お兄さんは、入り口の階段の上まで送ってくれた。
最上階には扉があった。
入って来る時には無かったのに。
お兄さんが、「じゃあな」と、ドアを開けてくれる。
「お兄さんの名前教えて」
少しの時間稼ぎに、お兄さんの名前を聞いてみた。
「アール」
とお兄さんは答えた。多分、アルファベットの「R」だったと思うんだ。
それで、ボクは余計お兄さんを好きになる。
お前は? とお兄さんが聞いてくれた。
嬉しかったけど、何故だか少しお兄さんが怖かった気がする。
ボクは、もうお別れなのにお兄さんに気に入って貰いたくて
「ケーだよ」
と答えた。もちろん、アルファベットの「K」。
「ふうん……」
お兄さんは少し変な風に笑った。何か、コッソリとボクに隠しながら。それから、ボクを扉の向こうへ押した。
ごつごつした強そうな手の感触が、少し痛かった。
「またな、ケイイチ」
え、と振り返る。
扉はもう、閉まっている。
その途端、『STAFF ONLY』と書かれた扉の前で、僕はハッとして、『ああ、オニギリ不味かった』って思ったんだ。
そう、全部、ぜぇんぶ、忘れてしまったんだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ボクがずぶ濡れで家に帰ると、お父さんとお母さんは台所にいなかった。
台所は、割れたガラスが散らばって、椅子が倒れたままだった。
テーブルには、空のビール缶が二本。
テレビが点けっぱなしでまだブツブツ呟いている。
ボクを探しに行ってくれたんだろうか? 心配してくれただろうか? そんな風に、ちょっとした期待をしたけれど、ボクは肩を竦めた。
玄関には、お父さんとお母さんの靴がバラバラと散乱していたから。その靴は、乾いている。
お母さんの甲高いうめき声が、二人の部屋からもれていた。
まさか、まだ続いていたのか、とボクは慌てて二人の部屋のドアを開けたんだ。
薄闇の中、お父さんがお母さんの上に乗っていた。お母さんはお父さんの下に裸で寝そべって、しっかりとお父さんに腕でしがみ付いている。
お父さんと目が合った。
お父さんはボクに、「あっち行け」と雷みたいに怒鳴った。
ボクは、自分の部屋に走って行って、ごわごわのタオルケットにくるまった。
轟々と、台風の音がする。
大雨が、バシバシ窓ガラスを叩いている。
ボクは、ガタガタ震えながら、その音を聞いていた。
お父さんも、お母さんも、ボクがいなくなった事に気付かずに二人だけで一つになっていた。
ねぇ、ボクは?
ごう、と風の音がして、窓ガラスが張りつめた様に短く揺れた。
台風だ。
ボクの中も、外も。
台風、ボクを吹き飛ばして。
大雨、ボクを洗い流して。
消えてしまいたい。
でも。ボクは、そうする事が出来ない。
ああ、誰か、ボクだけを、ボクだけを見て……。
渦巻く嵐の中で、圭一の心がうねり始める。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
【last Scene】
ピンポーン、とチャイムが鳴ったので、僕は玄関へ向かう。
引っ越しの準備は出来ていたし、大家さんか誰かなんだろう。
僕は憂鬱だった。
あんな事があったから、皆が僕を腫物扱いしている。そう思った。僕にぐいぐいと話しかけて色々聞くのは刑事くらいだった。
僕は、折角付いていたカメラ付きインターホンを見もせずに玄関へ向かったんだ。
インターホンのカメラには、怪しげな男が映っている。
彼は玄関のドアを憂鬱な気分で開けた。
ドアの向こうに立っていたのは、見知らぬ男だった。
僕より少し若い。
細身ながら、がっしりと男らしい骨ばった体格で、少し猫背気味で腰に片手を当てて立っている様は、テレビの俳優みたいにカッコ良かった。
アメリカコミック調のプリントTシャツでは、僕には縁の無さそうな金髪美女が「Shit!」と叫んで僕に中指を立てている。
今の僕にはとても不釣り合いな相手だと思った。
「……なにか?」
僕には見覚えの無い男だった。
男が大きくて鋭い二重瞼の目を僕にニヤリとさせた。
大きな口が、「ちわっす」と言ってゆっくり獰猛に歪んだ。
厚い唇の間からは、一つ一つが大粒の、綺麗に並んだ歯が見えた。
……? ……? なんだ、この感じは……。
「ど、どちら様ですか」
男はニヤついて、僕の胸を押すと、玄関に入り込んだ。
動きは投げやりなのに、物凄い力だった。
「ちょっと!」
「いいじゃん、やりにくいぜ」
「なに……?」
男が後ろ手に玄関の鍵を締めた。
僕は青ざめて、後退った。
「久しぶり~」と彼は言った。
僕は何の事か解らず、小さく首を振って、更に後退る。
部屋はスッカラカンだ。何も無い。僕と、この男以外。
背に当たる西日が熱かった。
男はジーンズのポケットから赤い箱の煙草を出した。
僕はその手の動きを目で追って、彼の腰にぶら下がっているホルスターを見つけた。その中身も。
そうか、頭のおかしいヤツだ、と僕は思った。
いい年をして、ガンマンのコスプレなんかして、と。
シュッとライターが小さな火を噴いて、煙草の煙の臭いが充満した。
僕は厭だった。
僕も君も煙草を悪だと思っていたから。
僕は、君の為に。
君は、赤ん坊の為に。
築き上げて来た甘くて綺麗な空気を、誰だか良く分からない頭のおかしな奴に汚されていると思うと、僕は屈辱的な気分だった。
男は煙草をふーっと喉を逸らせて吹きあげると、首を少し傾げ、大きくて澄んだ目で僕を見た。ライオンみたいだ、と僕は思った。
「あんたが決めたんだ」
「???」
男は煙草を口に咥えたまま、ホルスターから銃を抜いた。
僕は、「はは」と乾いた笑い声を上げた。
「なんなんだ、あんた」
「次の瞬間、思い出す」
銃口が僕に向けられた。
「ご来場、ありがとサンでした」
男がそう言って、笑った。
バキューン、だね。
子供の声が、こだました。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
狭苦しく、薄暗い受付ホールの掲示板に、若い男が、真新しいポスターを貼っている。
そのポスターには、スクリーンに映る女性の微笑みを、客席の隅っこで食い入る様に見詰める男の絵―――。
「アール」
声がして、呼ばれた若い男が振り返った。
受付カウンターに、金髪の若い女が頬杖を付いている。
「お疲れ様」
「おー」
「ようやく、ね」
アールと呼ばれた若い男はニヤリと不敵に笑った。
「ああ、すげぇ待った」
「もう、辞めてしまうの?」
金髪の女が、ゆっくりと首を傾げると、小ぶりな耳を飾る滴型のロングピアスが揺れて赤くキラキラ光った。
「さぁ……どうすっかな」
「イヤよ。せめて……私の番までいて頂戴」
アールは少し照れ笑いの様な表情を見せて、顎を指先で掻いた。
「あんたの番は、いつ来るかな」
「Shit! そんなの分からない」
タバコを頂戴、と言われて、アールはポケットの煙草を女に投げてやる。
女は火を点けて旨そうにタバコを吸うと、フッと綺麗にキレ良く吐き出した。唇の端から、薄く煙が漏れて、彼女の美しい顔を霞ませる。
あんまり旨そうに吸うので、彼もカウンターに近付いてポイと放り出された自分のタバコの箱から一本取ると、火を点ける。
「……いいぜ。あんたの番までいてやるよ。そンで、終わったら、こうして一緒に一服してやる」
女は濡れ濡れと真っ赤な唇をひん曲げて微笑んだ。怒りと悲しみを混ぜて、大雑把な自嘲でくるんだ様な、そんな大胆で複雑な、彼女のいつもの笑い方だ。大きな瞳は潤んでいて、場の赤い明かりに宝石の様な光彩を放つ。
「ありがとう。寂しい時は、一緒が一番」
「……ありがとう」
アールも、女とまったく同じ笑い方をして、唇を歪めた。
そうして、貼ったばかりのポスターの中の男を見た。
寂しい子供だったな。
……とても……。
彼は、そう思って、受け継がれた台風を意識する。
弱まりはしない。
弱まらせたりなんかさせない。
それでも。
アールは喉の奥から、くっと苦しげに笑って顔を伏せた。
「じゃあな、ケー」
END