婚約破棄は舞踏会でお願いします。ここは音楽ホールです。
王立音楽ホール。
王国最大級の音楽施設であるこのホールには、800人の観客が集まっていた。
本日は王立楽団による記念演奏会。
舞台には60人の演奏家が並び、客席には王侯貴族たちが正装して座っている。
王太子アルフォンスは、客席を見渡して満足げにうなずいた。
800人。
これだけの観客がいれば十分だ。
今日こそ、婚約者エレオノーラの罪を暴き、華麗に婚約破棄を宣言する。
そして観客から称賛を浴びるのだ。
王太子は、隣に座るエレオノーラを見た。
「エレオノーラ」
「はい、殿下」
「今日は特別な日になるぞ」
「王立楽団の記念演奏会ですものね」
「……そうだな」
王太子は微笑んだ。
エレオノーラは何も知らない。
今日のために、王太子は特別な準備をしていた。
楽団には事前に楽曲を依頼済み。
断罪の主題曲。
悪役令嬢の登場曲。
新しい恋人との愛の旋律。
そして、悪役の退場曲。
すべて完璧だった。
開演時刻。
指揮者が舞台中央に立った。
観客が静まり返る。
指揮棒が掲げられた。
その瞬間。
「エレオノーラ!」
王太子が立ち上がった。
「俺は今ここで、お前との婚約を破棄する!」
ジャジャジャジャーン!
金管楽器が一斉に鳴り響いた。
ティンパニが轟く。
シンバルが打ち鳴らされた。
王太子は胸を張った。
完璧だ。
これ以上ないほど劇的な幕開けだった。
エレオノーラは、ゆっくりと王太子を見た。
「……殿下」
「何だ!」
「なぜ、ここで?」
「何がだ!」
「婚約破棄でございます」
「場所に何か問題があるのか!」
「いえ、てっきり舞踏会でなさるものかと」
「なぜ舞踏会なのだ!」
「皆様、舞踏会でなさっておりますので。殿下もそうなさるものかと」
「非常識だろう! 婚約破棄を舞踏会で行うなど!」
「…………」
エレオノーラは舞台に並ぶ60人の楽団を見た。
続いて、満員の客席を見渡した。
「……殿下は、ずいぶん独創的でいらっしゃいますね」
ポロン。
ピアノが小さく鳴った。
「……何だ、今の音は!」
舞台の指揮者が答えた。
「気まずい沈黙を表現いたしました」
「そんな演出は頼んでおらん!」
「場面に合わせて演奏するよう、ご指示をいただいております」
「俺の見せ場を盛り上げろと言ったのだ!」
「承知いたしました」
指揮者は楽譜をめくった。
表紙には、こう書かれていた。
『王太子殿下の華麗なる婚約破棄』
作曲依頼者、王太子アルフォンス。
全4楽章。
演奏予定時間、30分。
「エレオノーラ! お前には数々の罪がある!」
ダダダダン!
ティンパニが鳴った。
「まず、男爵令嬢リリアへの嫌がらせだ!」
ギギギギ……。
弦楽器が不穏な旋律を奏で始めた。
エレオノーラは舞台を見た。
「……この曲は?」
「悪役令嬢の主題でございます」
指揮者が答えた。
「私のことでしょうか」
「はい」
「どなたが作曲を?」
「殿下からのご依頼でございます」
エレオノーラは王太子を見た。
「……殿下」
「何だ!」
「私の主題曲までご用意なさったのですか」
「当然だ! 俺の婚約破棄を盛り上げるためにな!」
「…………」
ポロン。
客席から小さな笑いが漏れた。
王太子は気づかなかった。
「お前はリリアを茶会に招かなかった!」
ジャーン!
「招待状はお送りしております」
ポロン。
「では、なぜ来なかった!」
ダダダン!
「ご本人が欠席なさいましたので」
楽団の演奏が止まった。
「……なぜ止めた!」
「進行表にないご回答でしたので」
「臨機応変に対応しろ!」
「承知いたしました」
指揮者が指揮棒を振った。
ポロン。
「それは何の音だ!」
「困惑を表現いたしました」
「俺の困惑を表現するな!」
客席から笑い声が上がった。
王太子は眉をひそめた。
おかしい。
観客が笑っている。
ここは本来、悪役令嬢が追い詰められる場面のはずだった。
「まだある!」
王太子は声を張り上げた。
ダダダダダダン!
「お前はリリアのドレスを汚した!」
ジャジャジャーン!
「いつでしょうか」
「先月の夜会だ!」
「その夜会には出席しておりません」
シーン。
楽団が完全に止まった。
「……なぜ止めた!」
指揮者は楽譜を確認した。
「予定と異なる展開になりましたので」
「何が違う!」
「この場面では、エレオノーラ様が罪を認める予定でございます」
「…………」
エレオノーラは首を傾げた。
「私、そのようなお約束はしておりませんが」
「殿下からいただいた進行表には、そのように」
「進行表?」
エレオノーラは王太子を見た。
「……殿下」
「何だ!」
「私の返答までお決めになっていたのですか」
「演出上の都合だ!」
「ですが、事実と異なります」
「細かいことを言うな!」
ポロン。
客席が笑いに包まれた。
「だから弾くな!」
王太子は怒鳴った。
すると、客席から拍手が起こった。
実は観客たちは、王太子の婚約破棄を新作音楽劇だと思い始めていた。
王太子本人が主演。
婚約者本人が相手役。
しかも全編即興。
なんと贅沢な演目だろう。
観客は大喜びだった。
「とにかく! 俺はリリアを愛している!」
ジャジャジャジャーン!
楽団が壮大な愛の旋律を奏で始めた。
ヴァイオリンが高らかに歌い、ハープがきらめく。
王太子は客席に向かって両手を広げた。
「リリア! 俺と共に未来を歩んでくれ!」
チャララララーン!
男爵令嬢リリアは、客席から立ち上がった。
「……殿下」
「リリア!」
「私、まだお返事しておりませんが」
キュイーン……。
ヴァイオリンが悲しげな旋律を奏でた。
「何だ、その曲は!」
「失恋の主題でございます」
「俺は失恋しておらん!」
「ですが、進行表ではリリア様が愛を受け入れる予定でしたので」
「予定どおりに進めろ!」
「ご本人のお返事が必要でございます」
王太子はリリアを見た。
「リリア! 俺と結婚するだろう!」
リリアは困った顔をした。
「……殿下」
「何だ!」
「婚約破棄が正式に成立してから、お返事してもよろしいでしょうか」
「…………」
ポロン。
客席から大きな拍手が起こった。
「素晴らしい!」
誰かが叫んだ。
「恋愛劇なのに、契約手続きがしっかりしている!」
別の貴族もうなずいた。
「現実味のある台詞ですな!」
王太子は客席を見渡した。
「……お前たち、何を言っている?」
誰も答えなかった。
全員が次の展開を待っていた。
エレオノーラは時計を確認した。
「殿下」
「何だ!」
「開演予定時刻を20分過ぎております」
「それがどうした!」
「本来の演奏会が始まりません」
「今、演奏しているだろう!」
「私たちの婚約破棄に伴奏しているだけでございます」
「それが何だ!」
「なぜ、ここで?」
ポロン。
「その台詞はもう聞いた!」
客席が爆笑した。
エレオノーラは困惑した。
王太子は怒っている。
楽団は演奏している。
観客は笑っている。
婚約破棄の話は、まったく進んでいなかった。
そのとき、ホールの支配人が舞台袖から現れた。
「王太子殿下」
「何だ!」
「大変申し訳ございません」
「何だ、申せ!」
「本日の演目について、確認がございます」
「演目?」
「はい。こちらの特別演奏でございます」
支配人は楽譜の表紙を見せた。
『王太子殿下の華麗なる婚約破棄』
「それがどうした!」
「当初は30分の予定でしたが、すでに45分が経過しております」
「だから何だ!」
「大変な好評でございます」
「……何?」
支配人は客席を指した。
貴族たちは笑いながら拍手していた。
「皆様、即興音楽劇としてお楽しみになっております」
「……音楽劇?」
「はい。王太子殿下ご本人が主演される、非常に斬新な作品でございます」
「違う! これは本物の婚約破棄だ!」
「…………」
支配人は感心したようにうなずいた。
「なるほど。最後まで役を崩されないのですね」
「役ではない!」
「素晴らしい役作りでございます」
パパパパーン!
楽団が祝福の音楽を奏でた。
「だから演奏するな!」
客席はさらに盛り上がった。
「もうよい!」
王太子は叫んだ。
「エレオノーラ! 俺はお前との婚約を破棄する! これは決定だ!」
ジャジャジャジャーン!
金管楽器が鳴り響いた。
「そして、俺はリリアと結婚する!」
チャララララーン!
ハープがきらめいた。
王太子は胸を張った。
「これで終わりだ!」
指揮者は楽譜をめくった。
「……殿下」
「何だ!」
「最後の曲が残っております」
「最後の曲?」
「はい。悪役の退場曲でございます」
「……そうだったな!」
王太子は満足げにうなずいた。
「よし! 演奏しろ!」
ダダダダン!
低音の弦楽器が鳴り始めた。
ティンパニが重々しく響く。
不吉な旋律がホールを満たした。
王太子はエレオノーラを指さした。
「さあ! 退場しろ!」
しかし、エレオノーラは動かなかった。
楽団は重々しい退場曲を演奏し続けている。
「……殿下」
「何だ!」
「私が退場するのでしょうか」
「当然だ!」
「ですが、私はこちらの席で演奏会を鑑賞する予定でございます」
「婚約破棄されたのだぞ!」
「それと演奏会は別の問題かと」
「…………」
退場曲はまだ続いていた。
王太子は指揮者を見た。
「……おい」
「はい」
「なぜまだ演奏している!」
「殿下のご指示でございます」
「悪役が退場する曲だろう!」
「はい」
「ならばエレオノーラが退場するはずだ!」
「ですが、エレオノーラ様はお席を立たれておりません」
「…………」
エレオノーラは静かに演奏会のプログラムを開いた。
リリアも席に座った。
王太子だけが立ったままだった。
退場曲は、いよいよ終盤に差しかかっていた。
「……殿下」
「何だ!」
「ご退場なさいますか?」
「なぜ俺が!」
「現在、退場なさる方が殿下しかおりませんので」
「俺は悪役ではない!」
ジャジャジャジャーン!
楽団が最後の和音を奏でた。
客席から割れんばかりの拍手が起こった。
「ブラボー!」
「素晴らしい喜劇だった!」
「王太子殿下の演技は見事ですな!」
貴族たちは立ち上がり、拍手を続けた。
王太子は呆然としていた。
「……何だ、これは」
支配人が駆け寄ってきた。
「殿下! 大成功でございます!」
「何がだ!」
「本日の特別音楽劇でございます!」
「音楽劇ではない!」
「皆様、大変お喜びでございます」
「俺は婚約破棄をしたのだ!」
「はい。その迫真の演技が素晴らしかったと」
「演技ではない!」
支配人は深く頭を下げた。
「ぜひ、次回公演もお願いできませんでしょうか」
「……次回?」
「はい。続編のご希望が多数寄せられております」
「続編などあるか!」
「題名は『王太子殿下の華麗なる婚約破棄・第2幕』でいかがでしょう」
「婚約破棄は1回で十分だ!」
ポロン。
指揮者が小さく伴奏した。
「……今のは何だ!」
「続編がないと伺いましたので、残念な気持ちを」
「余計なことをするな!」
客席から、また笑いが起こった。
翌朝。
王都では、昨夜の演奏会が大きな話題になっていた。
『王太子殿下、王立音楽ホールで新作喜劇を披露』
『全編即興! 婚約破棄を題材にした斬新な音楽劇』
『観客800人総立ち! 続編を望む声多数』
王太子は新聞を握りしめた。
「……違う!」
側近が答えた。
「何がでございますか」
「俺は本当に婚約破棄したのだ!」
「存じております」
「ならば、なぜ誰も信じない!」
「王立音楽ホールで、60人の楽団を使って宣言されたからかと」
「…………」
側近は別の書類を差し出した。
「なお、ホールから出演料が届いております」
「……出演料?」
「はい。大変な好評でしたので、特別出演料をお支払いしたいとのことです」
「…………」
王太子は金額を見た。
思っていたより、かなり高かった。
「……悪くないな」
側近は続けた。
「ただし、次回公演の契約書も同封されております」
「次回公演?」
「はい。演目は『婚約破棄、その後』でございます」
「…………」
王太子はしばらく考えた。
「……エレオノーラは?」
「昨日の公演について、正式な婚約解消通知が届くまでは承諾しないとのご見解です」
「…………」
「なお、リリア様からも、お返事は正式な手続きの後にと」
「…………」
王太子は新聞を見た。
見出しには、こう書かれていた。
『婚約破棄の結末は次回公演へ!』
「……まさか」
側近が尋ねた。
「いかがなさいましたか」
「俺は、婚約破棄するために、もう1回舞台に立たねばならんのか?」
「いえ、書面でお手続きいただければ済むかと」
「…………」
王太子は首を横に振った。
「それでは意味がない」
「……と申しますと?」
「俺は800人の前で、華麗に婚約破棄を宣言したのだぞ!」
「はい」
「なのに、誰も婚約破棄だと認めておらん!」
「はい」
「俺が欲しいのは、婚約破棄を成功させたという称賛だ!」
「…………」
王太子は立ち上がった。
「次は遊園地だ!」
「……遊園地でございますか?」
「そうだ! 音楽ホールでは芝居と勘違いされた!」
「はい」
「ならば、芝居をする場所でなければよい!」
「……なぜ遊園地なのでしょうか」
「観客が大勢いるからだ!」
「…………」
ポロン。
どこからか、ピアノの音がした。
「……今のは何だ!」
扉の向こうから指揮者が顔を出した。
「次回公演の打ち合わせに参りました」
「帰れ!!」
ジャジャジャジャーン!
廊下に金管楽器が鳴り響いた。
王太子は扉を開けた。
廊下には、60人の楽団がいた。
ヴァイオリン奏者が壁際に並び、チェロ奏者が階段を塞ぎ、巨大なコントラバスが通路を占領していた。
ティンパニまで運び込まれている。
使用人たちは廊下の端で立ち往生していた。
「……なぜ全員いる!」
「次回公演の準備でございます」
「まだ依頼しておらん!」
「ですが、殿下の婚約破棄は続くと伺いましたので」
「誰からだ!」
「新聞でございます」
「…………」
ポロン。
「だから弾くな!」
王太子は拳を握りしめた。
「俺は諦めん! 婚約破棄を勝ち取るまでは!」
こうして、王太子アルフォンスの婚約破棄への挑戦が始まった。
次の舞台は、王立遊園地。
予定観客数、500人。
なお、婚約者エレオノーラには、まだ何も伝えていなかった。




