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傘 ~晴れた夜にだけ、傘を差した老婆とすれ違う~

作者: KASANE
掲載日:2026/07/23

違うサイトで置いていたやつです。

誰にも読まれないのでこっちに置きます(´・ω・`)

 夜勤明けの帰り道は、いつも決まっている。


 店を出て、国道沿いを七分。


 川沿いの遊歩道へ降りて、十一分。


 最後に坂をのぼって、五分。


 合計二十三分。


 大学二年の春からだから、もう四百回以上は歩いている道だ。


 坂の下の商店街に、実家がある。


 アパートは大学に近いから借りただけで、週に一度は母の飯を食いに帰っていた。


 夜勤明けに寄ると、


「こんな時間まで働いて」


 と文句を言いながら、母は味噌汁を温め直してくれる。


 俺が何も言わなくても、卵を一つ落としてくれる。


 だから、あの道は、ただの帰り道ではなかった。


 母のところへ帰る道でもあった。


     ◇


 ばあさんに気づいたのは、梅雨が明けたころだった。


 遊歩道には、古い街灯が等間隔に並んでいる。


 四本目と五本目のあいだ。


 ちょうど明かりの届かない場所で、俺はそのばあさんとすれ違った。


 小柄だった。


 黒い服を着ていた。


 古い傘を差していた。


 雨は降っていなかった。


 雲もなく、月が出ていた。


 まあ、そういう人もいるだろうと思った。


 夜に日傘を差す意味はわからないが、年寄りのすることに、いちいち理由を求めても仕方がない。


 ただ。


 すれ違うとき、傘の先から水が落ちた。


 ぽつん。


 乾いた遊歩道に、丸い染みができた。


 その一滴だけだった。


 次の夜も、ばあさんとすれ違った。


 その次の夜も。


 毎晩すれ違うこと自体は、別におかしくない。


 向こうにも、向こうの決まった夜があるのだろう。


 そう思っていた。


     ◇


 おかしいと気づいたのは、二週間ほど経ってからだった。


 すれ違う場所が、動いている。


 最初は、街灯の四本目と五本目のあいだだった。


 それが五本目になった。


 六本目になった。


 いつのまにか、遊歩道の出口まで来ていた。


 俺の家のほうへ。


 毎晩、すこしずつ。


 歩幅にして、三歩ぶん。


 偶然だと思いたかった。


 だから、試してみた。


 店を出る時間を、三十分遅らせた。


 けれど、ばあさんは前の夜より三歩だけ、俺の家に近い場所にいた。


 三十分ぶん手前ではない。


 きっちり、三歩だった。


 次の夜は走った。


 二十三分の道を、十四分で帰った。


 川沿いへ降りたときには、肺が痛かった。


 それでも、ばあさんはいた。


 前の夜より、三歩進んだ場所に。


 傘を差して。


 俺を待っていた。


 俺が近づくまで、動かなかった。


 五メートル。


 三メートル。


 一メートル。


 すれ違う直前になって、ようやく一歩を踏み出した。


 時間ではない。


 速さでもない。


 回数だった。


 俺とすれ違うたびに、ばあさんは三歩、俺の家へ近づく。


     ◇


 道を変えた。


 国道をまっすぐ歩けば、十五分ほど遠回りになる。


 その夜は、ばあさんと会わなかった。


 部屋に着いて、鍵を閉めた。


 カーテンの隙間から外を見た。


 誰もいない。


 勝った。


 そう思った。


 翌日、元の道へ戻った。


 遠回りの道は暗かった。


 民家の庭から、鎖につながれた犬に吠えられた。


 なにより、ばあさんを避けられたことを確かめたかった。


 遊歩道には、誰もいなかった。


 出口にもいなかった。


 やっぱり、道を変えればいい。


 安心して坂をのぼった。


 坂の中ほどで、傘が見えた。


 ばあさんは、前にいた場所より六歩進んでいた。


 会わなかった夜のぶんまで。


 俺は、道の真ん中で立ち止まった。


 ばあさんも止まった。


 傘の下から、何かが垂れていた。


 髪だと思った。


 長く濡れた髪が、胸のあたりまで垂れている。


 けれど、街灯の下へ入った瞬間、それが何本もの細い指に見えた。


 傘の縁を、内側からつかんでいた。


 俺は目をそらした。


 次に見たときには、ただの髪だった。


 ばあさんが歩きだした。


 こちらへ。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 その三歩だけ、ひどく速かった。


 足はゆっくり動いているのに、体だけが滑るように近づいてきた。


 俺の横を通り過ぎる。


 傘の内側で、


「ひとつ」


 と、声がした。


 子どものような声だった。


 振り返れなかった。


 休んでも進む。


 いや。


 休んだぶんは、次に会ったとき、まとめて進む。


 それがわかってから、道を変えるのはやめた。


 せめて、三歩ずつにしておきたかった。


 毎晩きちんとすれ違って、三歩ずつ。


 近づいてくるものに、自分から会いに行く。


 そうするしかなかった。


     ◇


 一度だけ、腕が触れそうな距離ですれ違った夜がある。


 九月の初め。


 まだ蒸し暑い夜だった。


 ばあさんまで三歩のところで、冷気が来た。


 冷蔵庫を開けたときのような冷たさではなかった。


 冬の川に、顔から沈められたような冷たさだった。


 息を吸った。


 肺の中まで冷えた。


 濡れた土の匂いがした。


 腐った花の匂いもした。


 雨は、十日も降っていなかった。


 心臓の音が、耳の内側で鳴った。


 足だけが、いつもの速さで歩きつづけた。


 体のほうが先にわかっていたのだと思う。


 止まったら、死ぬ。


 振り返っても、死ぬ。


 ばあさんとすれ違った。


 傘の縁から、水が落ちた。


 俺の靴に当たった。


 冷たいと思った次の瞬間、靴の中が生ぬるくなった。


 裸足を入れられたような感触だった。


 五本の指が、靴の中で俺の足をつかんだ。


 叫びそうになった。


 それでも歩いた。


 歩くたび、靴の中の指が、足の甲を握った。


 すれ違ってから角を曲がるまでの四十秒。


 俺は息をしなかった。


 角を曲がった瞬間、足の感触は消えた。


 部屋へ着くと、便器を抱えて吐いた。


 吐いたものの中に、長い髪が一本混じっていた。


 俺の髪ではなかった。


 黒く濡れていて、排水口へ流そうとしても、指に絡みついて離れなかった。


 死ぬかもしれない。


 そう本気で思ったのは、生まれて初めてだった。


     ◇


 先週、気づいたことがある。


 四百回以上この道を歩いて。


 ばあさんと、五十回以上すれ違って。


 俺は一度も、ばあさんの顔を見ていない。


 見ていないのではない。


 思い出せない。


 すれ違う瞬間には、たしかに顔のあたりを見ている。


 目があった気さえする。


 けれど、家に着くころには、傘しか覚えていない。


 鼻はあったか。


 口はあったか。


 人間の顔だったか。


 それすら、わからない。


 忘れているというより、頭の中から、そこだけを濡れた布で拭き取られている。


 だから、写真を撮ろうとした。


 すれ違う前に、動画を回した。


 画面を見ながら、ばあさんの横を通り過ぎた。


 部屋に帰って再生した。


 映っていたのは、俺の足もとだけだった。


 撮影していたはずなのに、カメラはずっと地面を向いている。


 乾いた遊歩道。


 俺の靴。


 街灯の光。


 ばあさんとすれ違う瞬間、画面に水が落ちた。


 水滴が、レンズを覆った。


 その向こうから声がした。


「あと、九つ」


 数えた。


 ばあさんが、俺の部屋へ届くまでの歩数だった。


     ◇


 三日前。


 ばあさんとすれ違った場所は、実家の門の前だった。


 門の中では、玄関灯がついていた。


 母は、起きている。


 俺が寄るかもしれないと思って、味噌汁を残している。


 その門の前を、ばあさんは通り過ぎた。


 実家には目もくれなかった。


 ほっとした。


 俺の部屋へ向かっている。


 母ではない。


 そう思って、ほっとした。


 ――ほっとした自分を、いまは殴りたい。


 昨夜。


 ばあさんは、アパートの外階段の下にいた。


 傘を差して。


 動かずに。


 俺が階段をのぼるのを見ていた。


 たぶん、見ていた。


 顔は、もう思い出せない。


 階段をのぼるあいだ、背中に冷気が触れていた。


 一段のぼるたびに、傘から水の落ちる音がした。


 ぽつん。


 ぽつん。


 ぽつん。


 二階へ着いて、振り返った。


 ばあさんは、階段の下にいた。


 けれど、傘だけが一段目に乗っていた。


 ばあさんの腕は動いていない。


 傘の柄だけが伸びて、階段の上へ届いていた。


 瞬きをした。


 元に戻っていた。


 俺は部屋へ逃げ込んだ。


 鍵をかけた。


 チェーンもかけた。


 玄関の前に、テーブルを置いた。


 計算はしてある。


 階段の下から、俺の部屋のドアまで。


 ちょうど三歩だ。


 年寄りの歩幅なら、四歩かもしれない。


 けれど。


 あのばあさんの三歩が、人間の三歩と同じかどうかは、考えたくなかった。


     ◇


 だから今夜は、店を休んだ。


 外へ出なければ、すれ違わない。


 すれ違わなければ、進まない。


 休んだぶんが次にまとめて来るとしても、少なくとも今夜ではない。


 そう思った。


 鍵をかけた。


 チェーンもかけた。


 玄関の前に置いたテーブルを、さらに本棚で押さえた。


 これを書きながら、朝を待った。


 外は雨だった。


 今年いちばんの大雨だと、ニュースで言っていた。


 窓に、雨粒が何度もぶつかっていた。


 午前二時十三分。


 階段をのぼる音がした。


 足音ではない。


 傘の先で、一段ずつ突く音だった。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 三回で、止まった。


 ドアの前にいる。


 俺は、毛布をかぶった。


 口を押さえた。


 スマートフォンの画面には、母への発信ボタンを出していた。


 けれど、押せなかった。


 声を聞かれたくなかった。


 午前二時十六分。


 ドアの向こうで、傘を閉じる音がした。


 布のこすれる音。


 骨のたたまれる音。


 最後に、


 ぐしゃ。


 と、濡れたものを握りつぶす音がした。


 それきり、何も聞こえなくなった。


 呼び鈴は鳴らなかった。


 ノックもない。


 ドアノブも動かなかった。


 ただ、玄関の下から水が入ってきた。


 黒い水だった。


 細い流れが、靴を避け、テーブルの脚を避けて、俺のいる場所へ伸びてきた。


 床に置いたスマートフォンまで、あと五センチ。


 そこで止まった。


 水面に、顔が映っていた。


 俺の顔ではない。


 しわだらけの女の顔だった。


 逆さまの顔が、水の中から俺を見上げている。


 目だけが、笑っていた。


 俺は朝まで、動かなかった。


     ◇


 明るくなってから、玄関を見た。


 水は消えていた。


 テーブルも、本棚も動いていない。


 鍵は閉まっていた。


 チェーンもかかったままだった。


 ドアを開けた。


 廊下には、誰もいなかった。


 濡れた跡もない。


 階段の下まで見た。


 何もなかった。


 勝った。


 そう思った。


 これで、二度目だった。


     ◇


 昼すぎに、母から電話が来た。


「あんた、ゆうべ、傘を忘れていったでしょう」


 寝不足の頭では、言葉の意味がわからなかった。


「……傘?」


「黒い傘。玄関に置いてあったわよ」


「行ってない」


「何を言ってるの」


「ゆうべ、俺はそっちに行ってない」


 電話の向こうで、母が黙った。


 遠くで、食器の触れ合う音がした。


 母以外の誰かが、茶碗を置いた。


「じゃあ、あの方の勘違いかしら」


「あの方?」


「年配の女の人がね。あんたの忘れ物だって、わざわざ届けてくれたのよ」


 背中が冷たくなった。


「入れたのか」


「え?」


「家の中に、入れたのか」


「雨の中を届けてくれたんだから、外に立たせておけないでしょう」


「追い出せ」


「あんた、何を――」


「今すぐ、追い出せ!」


 母が息をのんだ。


 電話の向こうで、椅子を引く音がした。


「でも、せっかくだから」


 母の声が遠ざかった。


「いま、お味噌汁を温め直してるの」


 俺は立ち上がった。


「聞け。そいつを見るな。傘にも触るな。家から出ろ」


「何なのよ、急に」


「いいから逃げろ!」


「大丈夫よ。おとなしい方だから」


 母は、困ったように笑った。


「さっきから、何も喋らないけど」


 そのとき。


 電話の向こうで、音がした。


 ぽつん。


 水滴の落ちる音。


「お母さん」


 返事がない。


「お母さん?」


「あら」


 母が小さく言った。


「傘、開いてる」


 通話が切れた。


     ◇


 何度かけ直しても、母は出なかった。


 俺は部屋を飛び出した。


 階段を駆け下りた。


 国道を走った。


 遊歩道へは降りなかった。


 それでも、川の匂いがついてきた。


 濡れた土と、腐った花の匂い。


 走っても、走っても、耳もとで水が落ちていた。


 ぽつん。


 ぽつん。


 ぽつん。


 三歩進むたびに、一度。


 坂を転がるように下りた。


 よく晴れた昼だった。


 雲ひとつない。


 商店街には人がいる。


 自転車に乗った主婦。


 店先を掃く肉屋の主人。


 信号を待つ小学生。


 みんな、いつもどおりだった。


 実家の門が見えた。


 門の前に、傘が開いていた。


 黒い傘。


 日の当たる場所に干してある。


 雨など、一滴も降っていない。


 それでも傘の先から、水が落ちていた。


 ぽつん。


 ぽつん。


 ぽつん。


 水は、門から家の中へ続いていた。


「お母さん!」


 玄関へ飛び込んだ。


 靴が、二足あった。


 母の靴。


 その隣に、小さな黒い靴。


 泥だらけの女物の靴だった。


 廊下の奥から、味噌汁の匂いがした。


 台所へ行く。


 テーブルには、椀が二つ並んでいた。


 一つは母の席。


 もう一つは、俺がいつも座る席。


 味噌汁は、まだ湯気を立てていた。


 母はいない。


 ばあさんもいない。


「お母さん!」


 二階から、音がした。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 傘の先で、床を突く音。


 母の寝室は、二階にある。


 階段をのぼった。


 一段。


 二段。


 三段。


 上に行くほど、空気が冷たくなった。


 寝室の戸は、少し開いていた。


 隙間から、水が流れ出している。


 母の声がした。


「入っておいで」


 小さいころ、学校から帰ると、いつもそう言ってくれた。


 同じ声だった。


 でも。


 母は、俺を「入っておいで」と呼ばない。


 必ず、


「手を洗いなさい」


 と先に言う。


 俺は戸の前で止まった。


 隙間の向こうに、母の足が見えた。


 畳の上に立っている。


 裸足だった。


 足の下から水が広がっている。


「お母さん」


「入っておいで」


「顔を見せて」


 返事はなかった。


 戸が、すこしずつ開いた。


 母が立っていた。


 背中を向けている。


 黒い傘を差していた。


 天井のある部屋の中で。


 母の肩が、小さく震えた。


「母さん」


 呼ぶと、母はゆっくり振り返った。


 顔はあった。


 たしかに、母の顔だった。


 泣いていた。


 口だけが動いた。


 声は出なかった。


 逃げて。


 そう言ったのだと思う。


 けれど、傘の内側から、別の顔が下りてきた。


 母の頭のすぐ横に。


 濡れた髪。


 白くふやけた皮膚。


 水の詰まった、黒い口。


 ばあさんの顔を、初めて見た。


 見た瞬間、思い出した。


 俺は、あの顔を知っている。


 毎晩、すれ違うたびに見ていた。


 忘れさせられていただけだった。


 ばあさんは、一人ではなかった。


 開いた口の中に、いくつもの顔があった。


 男。


 女。


 子ども。


 みんな、濡れていた。


 みんな、口だけを動かしていた。


 逃げて。


 逃げて。


 逃げて。


 ばあさんの口から、水があふれた。


 母の顔を覆った。


 俺は部屋へ踏み込んだ。


 一歩。


 ばあさんの首が伸びた。


 二歩。


 傘の内側から、何本もの手が下りてきた。


 三歩。


 母の体が、傘の中へ持ち上がった。


 俺は母の腕をつかんだ。


 冷たかった。


 死体みたいに冷たい。


 それでも、母は俺の手を握り返した。


 傘の中から、声がした。


「これで、ひとつ」


     ◇


 気がつくと、俺は玄関の外に倒れていた。


 商店街の人たちが、俺を囲んでいた。


 救急車を呼ぶ声が聞こえた。


 実家の中を探してもらった。


 母はいなかった。


 ばあさんも。


 濡れた跡もなかった。


 台所の味噌汁だけが、二人ぶん残っていた。


 警察には、母が自分で出ていったのだろうと言われた。


 玄関の防犯カメラには、誰も映っていなかった。


 俺が一人で駆け込み。


 一人で叫び。


 一人で外へ倒れた。


 それだけだった。


 門の前に干されていたはずの傘も、見つからなかった。


     ◇


 母が消えて、三日が経った。


 俺は、実家にいる。


 母が帰ってくるかもしれないからだ。


 毎朝、味噌汁を二人ぶん作っている。


 母の椀には、卵を一つ落としている。


 夜になると、門の外で音がする。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 傘の先で、地面を突く音。


 怖くて、外には出られない。


 窓から見ることもできない。


 けれど今夜は、音がすこし違う。


 門の外ではない。


 玄関でもない。


 廊下にいる。


 さっきから三歩ずつ、近づいてくる。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 居間の戸の前で、止まった。


 俺は、母の椀を見ている。


 味噌汁の表面に、傘が映っている。


 俺の背後で、開いている。


 その傘の下から、母の声がした。


「夜勤明けなの?」


 振り返れない。


「味噌汁、温め直そうか」


 椀の中の傘が、ゆっくり傾いた。


 濡れた母の顔が、その下から出てきた。


 泣きながら、口を動かしている。


 来ないで。


 そう言っている。


 でも、背後の声は、もう耳もとにある。


「次は、どこまで三歩?」

24日の夜にほらー短編出します。

お楽しみに

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