傘 ~晴れた夜にだけ、傘を差した老婆とすれ違う~
違うサイトで置いていたやつです。
誰にも読まれないのでこっちに置きます(´・ω・`)
夜勤明けの帰り道は、いつも決まっている。
店を出て、国道沿いを七分。
川沿いの遊歩道へ降りて、十一分。
最後に坂をのぼって、五分。
合計二十三分。
大学二年の春からだから、もう四百回以上は歩いている道だ。
坂の下の商店街に、実家がある。
アパートは大学に近いから借りただけで、週に一度は母の飯を食いに帰っていた。
夜勤明けに寄ると、
「こんな時間まで働いて」
と文句を言いながら、母は味噌汁を温め直してくれる。
俺が何も言わなくても、卵を一つ落としてくれる。
だから、あの道は、ただの帰り道ではなかった。
母のところへ帰る道でもあった。
◇
ばあさんに気づいたのは、梅雨が明けたころだった。
遊歩道には、古い街灯が等間隔に並んでいる。
四本目と五本目のあいだ。
ちょうど明かりの届かない場所で、俺はそのばあさんとすれ違った。
小柄だった。
黒い服を着ていた。
古い傘を差していた。
雨は降っていなかった。
雲もなく、月が出ていた。
まあ、そういう人もいるだろうと思った。
夜に日傘を差す意味はわからないが、年寄りのすることに、いちいち理由を求めても仕方がない。
ただ。
すれ違うとき、傘の先から水が落ちた。
ぽつん。
乾いた遊歩道に、丸い染みができた。
その一滴だけだった。
次の夜も、ばあさんとすれ違った。
その次の夜も。
毎晩すれ違うこと自体は、別におかしくない。
向こうにも、向こうの決まった夜があるのだろう。
そう思っていた。
◇
おかしいと気づいたのは、二週間ほど経ってからだった。
すれ違う場所が、動いている。
最初は、街灯の四本目と五本目のあいだだった。
それが五本目になった。
六本目になった。
いつのまにか、遊歩道の出口まで来ていた。
俺の家のほうへ。
毎晩、すこしずつ。
歩幅にして、三歩ぶん。
偶然だと思いたかった。
だから、試してみた。
店を出る時間を、三十分遅らせた。
けれど、ばあさんは前の夜より三歩だけ、俺の家に近い場所にいた。
三十分ぶん手前ではない。
きっちり、三歩だった。
次の夜は走った。
二十三分の道を、十四分で帰った。
川沿いへ降りたときには、肺が痛かった。
それでも、ばあさんはいた。
前の夜より、三歩進んだ場所に。
傘を差して。
俺を待っていた。
俺が近づくまで、動かなかった。
五メートル。
三メートル。
一メートル。
すれ違う直前になって、ようやく一歩を踏み出した。
時間ではない。
速さでもない。
回数だった。
俺とすれ違うたびに、ばあさんは三歩、俺の家へ近づく。
◇
道を変えた。
国道をまっすぐ歩けば、十五分ほど遠回りになる。
その夜は、ばあさんと会わなかった。
部屋に着いて、鍵を閉めた。
カーテンの隙間から外を見た。
誰もいない。
勝った。
そう思った。
翌日、元の道へ戻った。
遠回りの道は暗かった。
民家の庭から、鎖につながれた犬に吠えられた。
なにより、ばあさんを避けられたことを確かめたかった。
遊歩道には、誰もいなかった。
出口にもいなかった。
やっぱり、道を変えればいい。
安心して坂をのぼった。
坂の中ほどで、傘が見えた。
ばあさんは、前にいた場所より六歩進んでいた。
会わなかった夜のぶんまで。
俺は、道の真ん中で立ち止まった。
ばあさんも止まった。
傘の下から、何かが垂れていた。
髪だと思った。
長く濡れた髪が、胸のあたりまで垂れている。
けれど、街灯の下へ入った瞬間、それが何本もの細い指に見えた。
傘の縁を、内側からつかんでいた。
俺は目をそらした。
次に見たときには、ただの髪だった。
ばあさんが歩きだした。
こちらへ。
一歩。
二歩。
三歩。
その三歩だけ、ひどく速かった。
足はゆっくり動いているのに、体だけが滑るように近づいてきた。
俺の横を通り過ぎる。
傘の内側で、
「ひとつ」
と、声がした。
子どものような声だった。
振り返れなかった。
休んでも進む。
いや。
休んだぶんは、次に会ったとき、まとめて進む。
それがわかってから、道を変えるのはやめた。
せめて、三歩ずつにしておきたかった。
毎晩きちんとすれ違って、三歩ずつ。
近づいてくるものに、自分から会いに行く。
そうするしかなかった。
◇
一度だけ、腕が触れそうな距離ですれ違った夜がある。
九月の初め。
まだ蒸し暑い夜だった。
ばあさんまで三歩のところで、冷気が来た。
冷蔵庫を開けたときのような冷たさではなかった。
冬の川に、顔から沈められたような冷たさだった。
息を吸った。
肺の中まで冷えた。
濡れた土の匂いがした。
腐った花の匂いもした。
雨は、十日も降っていなかった。
心臓の音が、耳の内側で鳴った。
足だけが、いつもの速さで歩きつづけた。
体のほうが先にわかっていたのだと思う。
止まったら、死ぬ。
振り返っても、死ぬ。
ばあさんとすれ違った。
傘の縁から、水が落ちた。
俺の靴に当たった。
冷たいと思った次の瞬間、靴の中が生ぬるくなった。
裸足を入れられたような感触だった。
五本の指が、靴の中で俺の足をつかんだ。
叫びそうになった。
それでも歩いた。
歩くたび、靴の中の指が、足の甲を握った。
すれ違ってから角を曲がるまでの四十秒。
俺は息をしなかった。
角を曲がった瞬間、足の感触は消えた。
部屋へ着くと、便器を抱えて吐いた。
吐いたものの中に、長い髪が一本混じっていた。
俺の髪ではなかった。
黒く濡れていて、排水口へ流そうとしても、指に絡みついて離れなかった。
死ぬかもしれない。
そう本気で思ったのは、生まれて初めてだった。
◇
先週、気づいたことがある。
四百回以上この道を歩いて。
ばあさんと、五十回以上すれ違って。
俺は一度も、ばあさんの顔を見ていない。
見ていないのではない。
思い出せない。
すれ違う瞬間には、たしかに顔のあたりを見ている。
目があった気さえする。
けれど、家に着くころには、傘しか覚えていない。
鼻はあったか。
口はあったか。
人間の顔だったか。
それすら、わからない。
忘れているというより、頭の中から、そこだけを濡れた布で拭き取られている。
だから、写真を撮ろうとした。
すれ違う前に、動画を回した。
画面を見ながら、ばあさんの横を通り過ぎた。
部屋に帰って再生した。
映っていたのは、俺の足もとだけだった。
撮影していたはずなのに、カメラはずっと地面を向いている。
乾いた遊歩道。
俺の靴。
街灯の光。
ばあさんとすれ違う瞬間、画面に水が落ちた。
水滴が、レンズを覆った。
その向こうから声がした。
「あと、九つ」
数えた。
ばあさんが、俺の部屋へ届くまでの歩数だった。
◇
三日前。
ばあさんとすれ違った場所は、実家の門の前だった。
門の中では、玄関灯がついていた。
母は、起きている。
俺が寄るかもしれないと思って、味噌汁を残している。
その門の前を、ばあさんは通り過ぎた。
実家には目もくれなかった。
ほっとした。
俺の部屋へ向かっている。
母ではない。
そう思って、ほっとした。
――ほっとした自分を、いまは殴りたい。
昨夜。
ばあさんは、アパートの外階段の下にいた。
傘を差して。
動かずに。
俺が階段をのぼるのを見ていた。
たぶん、見ていた。
顔は、もう思い出せない。
階段をのぼるあいだ、背中に冷気が触れていた。
一段のぼるたびに、傘から水の落ちる音がした。
ぽつん。
ぽつん。
ぽつん。
二階へ着いて、振り返った。
ばあさんは、階段の下にいた。
けれど、傘だけが一段目に乗っていた。
ばあさんの腕は動いていない。
傘の柄だけが伸びて、階段の上へ届いていた。
瞬きをした。
元に戻っていた。
俺は部屋へ逃げ込んだ。
鍵をかけた。
チェーンもかけた。
玄関の前に、テーブルを置いた。
計算はしてある。
階段の下から、俺の部屋のドアまで。
ちょうど三歩だ。
年寄りの歩幅なら、四歩かもしれない。
けれど。
あのばあさんの三歩が、人間の三歩と同じかどうかは、考えたくなかった。
◇
だから今夜は、店を休んだ。
外へ出なければ、すれ違わない。
すれ違わなければ、進まない。
休んだぶんが次にまとめて来るとしても、少なくとも今夜ではない。
そう思った。
鍵をかけた。
チェーンもかけた。
玄関の前に置いたテーブルを、さらに本棚で押さえた。
これを書きながら、朝を待った。
外は雨だった。
今年いちばんの大雨だと、ニュースで言っていた。
窓に、雨粒が何度もぶつかっていた。
午前二時十三分。
階段をのぼる音がした。
足音ではない。
傘の先で、一段ずつ突く音だった。
こつ。
こつ。
こつ。
三回で、止まった。
ドアの前にいる。
俺は、毛布をかぶった。
口を押さえた。
スマートフォンの画面には、母への発信ボタンを出していた。
けれど、押せなかった。
声を聞かれたくなかった。
午前二時十六分。
ドアの向こうで、傘を閉じる音がした。
布のこすれる音。
骨のたたまれる音。
最後に、
ぐしゃ。
と、濡れたものを握りつぶす音がした。
それきり、何も聞こえなくなった。
呼び鈴は鳴らなかった。
ノックもない。
ドアノブも動かなかった。
ただ、玄関の下から水が入ってきた。
黒い水だった。
細い流れが、靴を避け、テーブルの脚を避けて、俺のいる場所へ伸びてきた。
床に置いたスマートフォンまで、あと五センチ。
そこで止まった。
水面に、顔が映っていた。
俺の顔ではない。
しわだらけの女の顔だった。
逆さまの顔が、水の中から俺を見上げている。
目だけが、笑っていた。
俺は朝まで、動かなかった。
◇
明るくなってから、玄関を見た。
水は消えていた。
テーブルも、本棚も動いていない。
鍵は閉まっていた。
チェーンもかかったままだった。
ドアを開けた。
廊下には、誰もいなかった。
濡れた跡もない。
階段の下まで見た。
何もなかった。
勝った。
そう思った。
これで、二度目だった。
◇
昼すぎに、母から電話が来た。
「あんた、ゆうべ、傘を忘れていったでしょう」
寝不足の頭では、言葉の意味がわからなかった。
「……傘?」
「黒い傘。玄関に置いてあったわよ」
「行ってない」
「何を言ってるの」
「ゆうべ、俺はそっちに行ってない」
電話の向こうで、母が黙った。
遠くで、食器の触れ合う音がした。
母以外の誰かが、茶碗を置いた。
「じゃあ、あの方の勘違いかしら」
「あの方?」
「年配の女の人がね。あんたの忘れ物だって、わざわざ届けてくれたのよ」
背中が冷たくなった。
「入れたのか」
「え?」
「家の中に、入れたのか」
「雨の中を届けてくれたんだから、外に立たせておけないでしょう」
「追い出せ」
「あんた、何を――」
「今すぐ、追い出せ!」
母が息をのんだ。
電話の向こうで、椅子を引く音がした。
「でも、せっかくだから」
母の声が遠ざかった。
「いま、お味噌汁を温め直してるの」
俺は立ち上がった。
「聞け。そいつを見るな。傘にも触るな。家から出ろ」
「何なのよ、急に」
「いいから逃げろ!」
「大丈夫よ。おとなしい方だから」
母は、困ったように笑った。
「さっきから、何も喋らないけど」
そのとき。
電話の向こうで、音がした。
ぽつん。
水滴の落ちる音。
「お母さん」
返事がない。
「お母さん?」
「あら」
母が小さく言った。
「傘、開いてる」
通話が切れた。
◇
何度かけ直しても、母は出なかった。
俺は部屋を飛び出した。
階段を駆け下りた。
国道を走った。
遊歩道へは降りなかった。
それでも、川の匂いがついてきた。
濡れた土と、腐った花の匂い。
走っても、走っても、耳もとで水が落ちていた。
ぽつん。
ぽつん。
ぽつん。
三歩進むたびに、一度。
坂を転がるように下りた。
よく晴れた昼だった。
雲ひとつない。
商店街には人がいる。
自転車に乗った主婦。
店先を掃く肉屋の主人。
信号を待つ小学生。
みんな、いつもどおりだった。
実家の門が見えた。
門の前に、傘が開いていた。
黒い傘。
日の当たる場所に干してある。
雨など、一滴も降っていない。
それでも傘の先から、水が落ちていた。
ぽつん。
ぽつん。
ぽつん。
水は、門から家の中へ続いていた。
「お母さん!」
玄関へ飛び込んだ。
靴が、二足あった。
母の靴。
その隣に、小さな黒い靴。
泥だらけの女物の靴だった。
廊下の奥から、味噌汁の匂いがした。
台所へ行く。
テーブルには、椀が二つ並んでいた。
一つは母の席。
もう一つは、俺がいつも座る席。
味噌汁は、まだ湯気を立てていた。
母はいない。
ばあさんもいない。
「お母さん!」
二階から、音がした。
こつ。
こつ。
こつ。
傘の先で、床を突く音。
母の寝室は、二階にある。
階段をのぼった。
一段。
二段。
三段。
上に行くほど、空気が冷たくなった。
寝室の戸は、少し開いていた。
隙間から、水が流れ出している。
母の声がした。
「入っておいで」
小さいころ、学校から帰ると、いつもそう言ってくれた。
同じ声だった。
でも。
母は、俺を「入っておいで」と呼ばない。
必ず、
「手を洗いなさい」
と先に言う。
俺は戸の前で止まった。
隙間の向こうに、母の足が見えた。
畳の上に立っている。
裸足だった。
足の下から水が広がっている。
「お母さん」
「入っておいで」
「顔を見せて」
返事はなかった。
戸が、すこしずつ開いた。
母が立っていた。
背中を向けている。
黒い傘を差していた。
天井のある部屋の中で。
母の肩が、小さく震えた。
「母さん」
呼ぶと、母はゆっくり振り返った。
顔はあった。
たしかに、母の顔だった。
泣いていた。
口だけが動いた。
声は出なかった。
逃げて。
そう言ったのだと思う。
けれど、傘の内側から、別の顔が下りてきた。
母の頭のすぐ横に。
濡れた髪。
白くふやけた皮膚。
水の詰まった、黒い口。
ばあさんの顔を、初めて見た。
見た瞬間、思い出した。
俺は、あの顔を知っている。
毎晩、すれ違うたびに見ていた。
忘れさせられていただけだった。
ばあさんは、一人ではなかった。
開いた口の中に、いくつもの顔があった。
男。
女。
子ども。
みんな、濡れていた。
みんな、口だけを動かしていた。
逃げて。
逃げて。
逃げて。
ばあさんの口から、水があふれた。
母の顔を覆った。
俺は部屋へ踏み込んだ。
一歩。
ばあさんの首が伸びた。
二歩。
傘の内側から、何本もの手が下りてきた。
三歩。
母の体が、傘の中へ持ち上がった。
俺は母の腕をつかんだ。
冷たかった。
死体みたいに冷たい。
それでも、母は俺の手を握り返した。
傘の中から、声がした。
「これで、ひとつ」
◇
気がつくと、俺は玄関の外に倒れていた。
商店街の人たちが、俺を囲んでいた。
救急車を呼ぶ声が聞こえた。
実家の中を探してもらった。
母はいなかった。
ばあさんも。
濡れた跡もなかった。
台所の味噌汁だけが、二人ぶん残っていた。
警察には、母が自分で出ていったのだろうと言われた。
玄関の防犯カメラには、誰も映っていなかった。
俺が一人で駆け込み。
一人で叫び。
一人で外へ倒れた。
それだけだった。
門の前に干されていたはずの傘も、見つからなかった。
◇
母が消えて、三日が経った。
俺は、実家にいる。
母が帰ってくるかもしれないからだ。
毎朝、味噌汁を二人ぶん作っている。
母の椀には、卵を一つ落としている。
夜になると、門の外で音がする。
こつ。
こつ。
こつ。
傘の先で、地面を突く音。
怖くて、外には出られない。
窓から見ることもできない。
けれど今夜は、音がすこし違う。
門の外ではない。
玄関でもない。
廊下にいる。
さっきから三歩ずつ、近づいてくる。
こつ。
こつ。
こつ。
居間の戸の前で、止まった。
俺は、母の椀を見ている。
味噌汁の表面に、傘が映っている。
俺の背後で、開いている。
その傘の下から、母の声がした。
「夜勤明けなの?」
振り返れない。
「味噌汁、温め直そうか」
椀の中の傘が、ゆっくり傾いた。
濡れた母の顔が、その下から出てきた。
泣きながら、口を動かしている。
来ないで。
そう言っている。
でも、背後の声は、もう耳もとにある。
「次は、どこまで三歩?」
24日の夜にほらー短編出します。
お楽しみに




