『愛している』の賞味期限はずいぶん前に切れていたようです
「君を深く愛している。この気持ちに偽りはない」
美しい白銀の髪を揺らし、真摯な瞳で愛を囁く夫――アルベルト公爵。
その言葉を、私はかつてこの世の何よりも信じていた。
今日、彼が連れてきた「一人の青年」を見るまでは。
「私の隠し子だ。訳あって、今日からこの屋敷で暮らす」
夫の背後に佇む青年は、我が家の長男(16歳)に生き写しだった。ただし、長男よりも背が高く、体つきも一回り逞しい。どう見ても18歳は超えている。
平民の愛称である「リト」と名乗ったその青年は、私と息子を冷ややかな目で見下ろした。
頭の中で、急速に計算が始まる。
私は17歳で公爵家に嫁いだ。長男を産んだのは18歳の時だ。
――つまり。
夫は私と結婚する前、あるいは新婚早々の時期に、すでに平民の女と子供を作っていたのだ。
「愛している」と言いながら、私と彼の初夜の時でさえもも、彼の心には別の女と、その腹に宿る我が子が存在していた。
「……お聞きしても?」
私の声は、自分でも驚くほど冷徹に響いた。
「この方は、我が長男よりお年のようですが。私との婚姻の前に、すでに別の女性と誓いを立てていらしたのですね?」
アルベルトは一瞬、端正な顔を歪めた。だが、すぐに公爵としての傲慢な表情を取り戻す。
「過去のことだ。彼女は平民で、すでに病で亡くなった。身寄りのない彼を公爵家で引き取るのは、貴族としての義務だ。君なら理解してくれるだろう? 私が愛しているのは、今も昔も君だけなのだから」
愛している。
その言葉が、これほど汚らしく、吐き気を催すものだとは知らなかった。
彼の言う「愛」とは、都合のいい平民の女に癒やしを求め、家柄のために私を娶り、すべてが露呈した後も「お前が一番だ」と言えば許されると思っている、独りよがりの欺瞞だ。
隣で、私の実子である長男が、拳を血がにじむほど強く握りしめているのが見えた。
彼は、父の領地運営に未熟な部分があることには、薄々気づいていた。
だが、少なくとも母を愛し、家族を大切にする男だと信じていたのだ。
その最後の幻想が、今、音を立てて崩れ去った。
「――よく分かりました」
私は深く頭を垂れた。怒りで震えるのではない。あまりの滑稽さに、笑いを噛み殺すためだ。
この異世界において、公爵家の財産の半分は、私の実家である侯爵家からの莫大な持参金と、私自身が10年間かけて立て直した領地経営の利益で成り立っている。
「アルベルト様。そこまでおっしゃるなら、どうぞその『愛しい血脈』と、このお屋敷で末永くお幸せにお過ごしください」
私は顔を上げ、人生で最高に美しい微笑みを夫に向けた。
「私は本日をもって、実家へ帰らせていただきます。もちろん、我が公爵家の正当な世継ぎである、息子も連れて。……ああ、婚姻契約書の裏面、第4条を覚えていらっしゃいますか? 『不貞の発覚時、持参金は全額即時返還、および領地利益の8割を慰謝料として徴収する』。明日、我が家の弁護士が参りますので」
「な、何だと……!? 待て、エルザ!」
慌てて手を伸ばす夫を無視し、私は息子の手を引いて、一歩も振り返らずに謁見の間を後にした。
「エルザ! 待ってくれ、話を聞いてくれ!」
背後でアルベルトが情けない声を上げ、大理石の床を駆ける音が響く。
だが、彼が私たちのドレスの裾に触れる前に、私の実家から連れてきていた私兵たちがピタリと進路を塞いだ。抜刀はせずとも、威圧感だけで公爵をたじろがせるには十分だった。
「公爵様、公爵邸の敷地を出るまでは、これ以上の無礼はお控えください」
私は振り返りもせず、息子のレイを促して馬車へと乗り込んだ。
扉が閉まる瞬間、アルベルトの傍らに立つ隠し子「リト」と目が合った。彼は「計画通り、この家は俺のものだ」と言わんばかりの、勝ち誇った下卑た笑みを浮かべていた。
かわいそうに。自分が手に入れたものが、中身の腐りきった「泥船」だとも知らずに。
馬車が動き出すと、レイがぽつりと言った。
「母上……ごめんなさい。僕は、父上の裏切りに気づけなかった」
「謝る必要なんてないわ、レイ。あなたは何も悪くない。ただ、これから忙しくなるわよ。あなたが公爵家で学んだ、あの男の『領地経営のずさんさ』を証明する書類、すべて頭の中にあるかしら?」
私の言葉に、レイの瞳に冷徹な光が戻った。
「はい。父上が独断でやった公爵家の裏金、そして帳簿の辻褄が合わない箇所、すべて把握しています」
「素晴らしいわ。さすが私の自慢の息子ね」
アルベルトは勘違いしている。
私が10年間、彼の代わりに領地を動かしていたのは、彼を愛していたからではない。公爵夫人の義務を果たし、我が子レイに完璧な地盤を譲るためだ。
翌日。侯爵家の辣腕弁護士たちが、アルベルトのもとへ「婚姻契約不履行に伴う請求書」を突きつけた。
持参金の即時返還、過去10年間の領地利益の8割――それは、現在の公爵家の全財産を叩き売っても足りない額だった。
アルベルトから泣きつかれた平民の愛息リトは、ただの贅沢三昧な暮らしを夢見ていただけの男だった。いざ蓋を開けてみれば、手に入りかけた公爵家は破産寸前。彼はまたたく間に膨れ上がる借金と、貴族社会からの冷ややかな視線に、早くも音を上げ始めていた。
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一方、私とレイは、王都にある私の実家の別邸で、穏やかなお茶の時間を楽しんでいた。
そこへ、一人の男が訪ねてくる。
「――エルザ殿。お噂はかねがね」
現れたのは、現国王の実弟にして、戦時には王権代行権すら許される英雄辺境伯。
シアード・フォン・レオンハルト――王国最強と名高い男だった。
アルベルトのような線の細い美形とは違い、戦場をくぐり抜けてきた男らしい体躯と、夜空のような深い紺色の髪、そして吸い込まれそうな紫の瞳を持つ男。
彼は私の前に跪くと、私の手を取り、貴族の礼を執った。
「アルベルト公爵の愚行、聞き及んでおります。あのような至宝を泥にまみれさせるとは……。エルザ殿、もしよろしければ、我がレオンハルト領の財政と、国境の流通網の立て直しを、あなたの手で助けていただけないでしょうか?」
シアードの目は、私の「能力」を正当に評価し、かつ、ひとりの「女性」として熱い視線を注いでいた。
「もちろん、ただのビジネスパートナーとしてではありません。あなたが望むなら、あの愚か者が二度とあなたに近づけないよう、私の『妻』としての盾もご用意いたします」
「……シアード様。私は、手痛い裏切りを経験したばかりですのよ?」
私が少し意地悪く微笑むと、シアードは不敵に笑った。
「ならば、私の生涯を賭けて、その傷を癒してみせましょう。まずは――あの公爵領を合法的に叩き潰すところから、お手伝いいたします」
元夫への容赦なき経済的破滅と、私を真に必要としてくれる新しいヒーローとの、本当の恋。
天秤はすでに、傾き始めていた。
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「な、何なんだこれは……! 払えるわけがないだろう!」
公爵邸の執務室で、アルベルトは髪をかきむしり悲鳴を上げていた。
机にぶちまけられたのは、我が侯爵家の弁護士団が作成した「未払い慰謝料および持参金返還請求書」。さらに追い打ちをかけるように、領内の主要商人たちからの「取引停止”のお願い」が山をなしていた。
公爵領の経済は、私が実家から引っ張ってきた流通網で持っていたのだ。私が手を引けば、ただの干からびた土地にすぎない。
「父上、どういうことですか! 話が違う!」
そこへ、隠し子のリトが血相を変えて飛び込んできた。
「公爵家を継げば、贅沢三昧できるって言ったじゃないか! 街の店に行ったら『アルベルト様のツケはもう預かれない』って追い出されたぞ!」
「うるさい! 黙れリト! 貴様が、貴様さえもっと早くに貴族の教育を受けていれば……!」
「なんだよ!そっちから『公爵家で暮らさせてやる』って迎えに来たんだろ!? 俺は貴族になれるって聞いたから来たんだぞ!疫病神扱いするな!」
昨日まで「愛の証」だったはずの息子と、醜い罵り合いを始めるアルベルト。
平民の愛妾との「純愛」を免罪符にしていた彼は、現実の金の前に、その愛がいかに脆いかを思い知らされていた。
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同じ頃。私はシアード辺境伯の馬車に揺られ、王都で最も格式高い宝飾店へと向かっていた。
「エルザ、顔色が良くなったな。アルベルトの泥船から降りられて、少しは眠れているようで安心した」
隣に座るシアードが、深く、心地よい声で私に微笑みかける。
彼は本当に仕事が早かった。私の実家と連携し、公爵領が抱えていた鉱山の採掘権を、合法的にレオンハルト辺境伯領へと移譲する手続きを一日で終わらせたのだ。
「シアード様のおかげですわ。あの方、今頃はリトという男の子と、借金の押し付け合いをしているかしら」
「ふっ、当然の報いだ。だが、経済的な破滅だけでは生ぬるい」
シアードの紫の瞳が、ふっと冷徹な捕食者のそれへと変わる。
「今度の建国記念夜会、私と一緒に来てほしい。君を裏切った代償がどれほど大きいか、社交界の全員の前で、あの男に見せつけてやろう」
「……私を、隣に並べてくださるのですか?」
「並べるのではない。私が君を、公爵夫人の座よりも高い場所へ引き上げるのだ」
シアードは私の手を取り、その甲にそっと唇を寄せた。
アルベルトの、どこか上から目線の「愛している」とは違う。シアードの唇からは、私をひとりの対等な人間として、そして狂おしいほどに求めているという、熱い執着が伝わってきた。
「覚悟しておいてくれ、エルザ。あの男を完全に叩き潰した後、私は君を全力で口説くつもりだ」
元夫への容赦なき「社会的・経済的ざまぁ」の舞台は、間もなく開かれる王宮夜会へと移る。
そして道化王宮で開催された建国記念夜会。
会場の片隅には、場にそぐわないほど酷くやつれ、周囲の貴族たちから露骨に距離を置かれている二人の男がいました。アルベルトと、その隠し子リトです。
「父上、みんな俺たちのことを見て笑っていませんか……?」
「黙れ、リト。私が国王陛下に直接、領地の財政支援を直訴すればすべて解決するのだ」
アルベルトの衣服は一見華やかでしたが、よく見れば仕立て直した古いもの。対するリトは、マナーも歩き方も知らず、周囲から「あれが噂の平民の……」と冷笑の的になっていました。
その時、会場の扉が大きく開かれ、割れんばかりの歓声が響き渡りました。
「シアード・フォン・レオンハルト辺境伯殿、ならびにエルザ・フォン・侯爵令嬢、ご入場!」
王宮の視線が一斉にその対へと注がれます。
そこには、夜空のような深い紺色の正装に身を包んだシアードと、最高級のシルクで作られた星空のように輝くドレスをまとった私の姿がありました。私の隣には、誇らしげに胸を張る息子のレイも並んでいます。
公爵夫人の頃よりも遥かに美しく、気品に満ちあふれた私の姿に、会場中から感嘆の溜息が漏れました。
「エ、エルザ……!?」
アルベルトが人目を忘れて、狂ったように私の方へと駆け寄ってきました。
「エルザ! 探したぞ! なぜ君がシアード殿と……! 頼む、冗談は終わりにして屋敷へ戻ってくれ! 君がいないと、領地も、私も、何も回らないんだ!」
かつて「愛している」と傲慢に囁いた男が、今や衆人環視の中で地べたに這いつくばるように私に縋り付いています。
「お引き取りを、元公爵様」
私は冷ややかにアルベルトを見下ろしました。
「昨日、国王陛下より正式に、あなたの不貞による婚姻契約破棄が認められました。それと同時に、あなたが支払えなかった慰謝料の代物弁済として、公爵家は、度重なる財政不正と統治能力の欠如を理由に、王家預かりとなりました。
そして現在、その旧公爵領の管理権は、我が侯爵家とレオンハルト辺境伯家へ正式に委任されております。」
「な……に……?」
アルベルトの顔から血の気が引いていきます。
隣で聞いていたリトも、「公爵家がなくなった」という現実を突きつけられ、腰を抜かしてその場にへたり込みました。
「貴殿の耳は飾りか?」
シアードが一歩前に出て、私の肩を抱き寄せながら、アルベルトを冷酷な瞳で射すくめました。
「彼女はもう、お前のような不実な男に浪費されていい存在ではない。エルザは間もなく、我がレオンハルト辺境伯領の総責任者となり、そして――私の最愛の妻となる御方だ」
社交界に響き渡る、事実上の婚約宣言。
周囲の貴族たちから、裏切り者への嘲笑と、私たちへの祝福の拍手が巻き起こります。
「ああ、それから」
私は絶望に震えるアルベルトと、泣きべそをかくリトへ、最高の微笑みを向けました。
「平民になられたのですから、これからはお二人で、汗水垂らして働いて生きていってくださいね。かつてあなたが私に言った言葉を、そのままお返ししますわ。――どうぞ、その『愛しい血脈』と、末永くお幸せに」
警備兵によって引きずられていく元夫たちの背中を、私は一度も振り返ることなく見送りました。
「よく言った、エルザ」
シアードが私の耳元で、甘く、そして深い声で囁きます。
「これからは私が、お前のすべてを愛し、守り抜くと誓おう」
差し出された彼の手を、私は今度こそ信じて、しっかりと握り返しました。
青空のように晴れやかな私の新しい人生が、今ここから始まったのです。
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