とりあえず備えよう
崇禎7年(1633年)紫禁城のとある部屋
転生してから半年が経ち自分の今の状態をある程度把握できた。
自分の母が田皇貴妃であること。
まずは父は崇禎帝で自分はその第三皇子であること。
次に自分の名前が朱慈煥であること。
これは自分の世話役である女官たちの会話から理解出来た。
当初は何を言っているのかわからなかったが中国近代史を研究する傍ら古官話(後期宋、元、明、清の時代の中国語)についてある程度学んでいたため会話がわかるようになっていた。
朱田煥太郎こと朱慈煥は焦った。
(まずい、非常にまずい。このままだと最終的に死ぬ。間違いなく殺される)
史実での朱慈煥は11歳の時に李自成による反乱軍により明は滅亡した後、宮殿を落ち延びてそ流浪の日々をすごしたり僧籍にはいって余生を75歳まで平和に過ごしたりと色んな日々を過ごす。その後、明の官吏の娘を妻として迎えて還俗して平和に過ごしていたが、些細なことがきっかけで捕らえられ清の康煕帝によって凌遅刑に処され、子や孫共々処刑あるいは自殺とされている。
しかも処刑理由は「謀反を起こした事実はないが、謀反の心を抱かなかったことがないとはいえず、これだけでも死罪に値する。さらに、明の皇子を騙り世を騒がせた罪は凌遅に値する」という物で簡単に言うと「きみ何もしてないけど何かする気がするから死刑ね」というなかなか理不尽な内容であった。
凌遅刑とは一言でいうと体を時間をかけてそぎそぎして処刑する刑である。これを聞けばいかに恐ろしい最期をたどったのかよくわかるだろう。
(冗談じゃない)
朱慈煥は転生してそんな最期を送りたくないというのもあるが、
(せっかく転生した時代でしか学べないことがいっぱいあるんだ。学ばずとしてなんとする)
彼はこの時代についてたくさんのことを学んでいきたいとも思っていた。
(どうせ、宮殿から落ち延びる南京に行ってみたいなぁ。とりあえず、一歳でやれることなんてないからしばらく二足歩行の練習をしよう)
こうして彼は、1644年に北京が陥落するまでに生き残りと若干の知的好奇心を満たすことに向けて下準備を進めていった。