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亡くした恋、とある春

作者: 藤園ほころ

 遮断機が警告音を響かせながら棒を倒す。君は降りきった遮断棒を手で押し上げると、中へ入っていく。歩みを止めずにゆっくりと行ってしまう君を止めたかった。行かないで。そう、強く叫びたかった。桜が舞う、少し暖かい春だった。君の淡い肌色のカーディガンが風で揺れる。特徴的なリズムでこちらに迫ってくる鉄の塊は、機械的で、初めて怖いと思った。君を奪っていくそいつは、僕の大好きなものだった。そいつが君を見つけると、盛大な悲鳴をあげた。遠くへ行ってしまう直前、君は笑ってるように見えた。水風船が弾けたように散っていく君は、美しかった。


 君との出会いはまだ残暑が残る、去年の秋だった。月が綺麗だったその夜、君は僕の家の前で一人寂しく、泣いていた。今から思えば、この頃が一番マシだったのかもしれない。僕は君に尋ねた。なぜここで泣いているのかと。君の回答はこうだった。

「…なんでかな。わかんない」

涙でグチャグチャになった君は、見ていて辛かった。だから、側に寄り添った。なんて言葉をかけたらいいのか、わからなかった。ただ、一緒に丸くなった。その日はそのまま二人で眠りに落ちた。翌日目を覚ますと君はもう、居なかった。


 この間はご迷惑おかけしました。泣きじゃくる私を守ろうとしていただき、嬉しかったです。私を幸せにしてくれました。漢字で表すと、貴方は一本の棒ですね。何時か、何処かで、また会えたら嬉しいです。


 数日後、そんな手紙が僕の家のポストに入っていた。名前は書いていないけど、君が書いたことは明らかだった。無性に、唐突に、会いたくなった。それと同時に、もう会えないかもしれないと思うと、不安と焦燥が胸を満たした。何処にいるのかなんてわからなかったから、何日も、何日も僕の家の前で待ち続けた。そして、もう二度と来ないかもしれないと思い始めてしまった頃、君を見つけた。目線を集中させていると、向こうも気づいたようで、お互い長い間見つめ合っていた。君は僕を僕だと認識すると、今度は泣かなかった。哀しさに包まれたような笑みだった。守りたいような、壊したいような、どこかもどかしい気分になった。そして、君はこう言った。

「ねぇ、君のことが知りたいな」


 君は傷だらけの服や体で僕について知りたがった。僕は勿論傷について気になったけど、聞いてはいけないような気がして、聞けなかった。だから僕は喋り続けた。鉄道が好き。絵を描くのが好き。紅色が好き。人間観察が好き。春が好き。僕の好きをここまで誰かに伝えたことはなかった。僕は君に自分のことを話している時間がとても楽しかった。君が楽しそうに話を聞いてくれるから。

「…そうそう、ここの近くの路線、踏切を高架化する計画があるんだ。まだ計画段階らしいけど」

「…君は物知りだねぇ」

「えへへ、そうかな?」

褒めてくれるのが嬉しくて。時間なんて忘れて、日が落ちるまで、喋り尽くした。もっと君と喋りたい。そこで幼い僕はとある提案をした。

「夕飯、家で食べてかない?」

君は少し迷ったような素振りを見せたけれど、結局は食べていくことにした。


 僕の家庭には父がいない。父は三年前にホーム下に転落した人を助けようとして、亡くなった。僕の尊敬するような死際だった。でもそのせいか、母に鉄道のことを話そうとすると、とても苦しそうな表情をされる。それは少し悲しかった。そんな母は朝から晩まで働いて、時間が空いたら家事をしてくれていた。僕の尊敬するような生き様だった。既に作り置きされていた焼きうどんを、レンジで温める。誰かを自分の家に上げたことは、これが初めてだった。緊張で鼓動が速くなる。狭い家の小さな食卓の椅子にちょこんと座る君は、汚れた人形のようだった。レンジから温め終わったことを教えられ、焼きうどんを別の皿に半分盛り付ける。

「「いただきます」」

黙々とぱくぱく美味しそうに食べる君は、生気を取り戻したかのような、眩い笑顔をしていた。

「ありがとうね。また…ね?」

食べ終えた彼女は、そう僕に告げて帰って行った。


 そしてまた、君を見ない日々が続く。朱から茶へと色を変え、仲間を失ったように木枯らしに吹かれる葉が、寂しそうに揺れていた。頭の中は君のことでいっぱいだった。君は何処へ行ってしまったのだろうか。待っているだけじゃ駄目だと思ったから、僕は君を探しに家を出た。母が寝静まった夜中、自転車に跨って適当に周りを走らせる。冬らしい寒さが、肺に凍てつく。冷たくなってしまった僕の手を、包んで温めて欲しかった。朝に近づくほど幻想的になる街を眺めつつ、君の居場所を探す。そんな時、雷でも落ちたのかと思うくらいの怒鳴り声が聞こえた。

「あんたなんか要らないんだから!入って来ないでよ!」

「いだっ...うっ…げほっ…」

直後に聞こえた悲鳴は、紛れもない君の声だった。一階の窓から放り出された君は、やっぱりボロボロだった。背中や足、綺麗な顔にまで傷がついている。自転車を停めて、君に近づく。

「…」

大丈夫?なんて軽い言葉をかけられなかった。

「…ごめん。守れなくて」

君からの返事はない。

「…気づかなかったわけじゃない。何なら察しもついてた。…それでも、君にその姿についてを聞けなかった。聞こうとしなかった。守ろうとしなかった。…ごめん」

「…じゃあこれから、私を守ってよ」

君からの最初で最後の本気の願いで。本気の呪いで。本当の心の声を、初めて聞いた気がして。

「あぁ、勿論」

決意と嬉しさを胸に、僕らは抱き合った。


 それから君は暫く夜の間だけは、僕の家へ忍び来るようになった。トランプで遊んだり、マンガを読んだり、暇を潰してから夜中の二時くらいに家へ帰っていった。そんな下らない日々が素敵だった。僕らにとっては、宝物だった。宝石は、汚れた石があるから煌めいて見えるのであって、こんなのは当たり前のはずだった。悔しかった。君が普通の人に産まれていれば、下らない日常に憧れを抱き、幸せを感じることなんてなかったのに。君が日常の温かみに気づくのは、無くしてからでいいのに。そんな君が将来、来世で幸せを当たり前とする世界で生活できますように。そう、願いながら、寝ぼけ眼の君を、密かに描いていた。最近消え始めた、薄汚い傷跡があった、確かに美しい顔を愛でながら。


 ある日、僕の母に尋ねられた。

「最近あなたの話を聞けてなくてごめんね。忙しいなんて言い訳にするつもりはないわ。私の時間配分のミスだもの。だからあなたの近況が聞きたいわ」

僕の近況。まだ君のことを誰にも打ち明けていないし、これからも打ち明けるつもりはさらさらなかった。君を守るのは僕の使命であり、運命だと思っていた。だから、尊敬していた母にすら話さなかった。

「最近はね、友達と遊ぶことが多いよ」

「あらそうなの。家では一人にしちゃうことが多いから、その子に感謝しなくちゃね。どんな子なの?」

壊れかけの人形。

「とっても優しいいい子だよ」

「男の子なの?」

最初はぐちゃぐちゃでわからなかった。

「女の子だよ」

「まぁ。良かったわね。異性と仲良くできるなんて今のうちよ。今度親御さんにも挨拶したいわ」

やめて。壊れちゃう。

「あー、でも忙しいらしいよ」

「そう。でもあなたのことが聞けてよかったわ。またお話聞かせてね」

嘘は、言っていない。ただ、心の声が違っただけだ。こんなにも愛してくれている母に、嘘はつけなかった。自分の部屋に戻り、今頃ベッドで泥のように眠っているだろう。母のことが好きだった。それでも今回ばかりは敵だと思った。下手したら母経由で君が殺されてしまう。心ごと、全部。


 猫の気紛れのようにくる君の身体は会うたびに傷を増やしていった。だんだん麻痺していったのだろう。

「あぁ、また増えたんだね」

僕は感情のない声色で傷をじっと見るだけだった。名前も知らない君と遊ぶ時間が当たり前として昇華していく。後から思うとそれが怖いと思えなかったのが一番怖かった。君も怖かったんだと思う。いつ人形が手から離れてしまうのか。どんなふうに千切れた人形は捨てられるのか。それでも前の使用者より愛されていたのか。そんな恐怖と背中合わせの中で、笑顔だけは僕の前から絶やさなかった。少しでも長く愛されるために。だから、君は賭けに出た。

「ねぇ、二人でどこか行こうよ。遠い、誰もいない翡翠の街に。誰のものでもない二人だけの世界でただ、空を見ようよ」

その時、僕は自分が大人びていると思っていた。いや、実際大人びてはいたと思う。だけど、大人じゃなかった。

「いいね。夜に綺麗な星空を見よう。そして汚れ切った心を洗い流してもらおう。きっと、星が僕らを見守ってる」

子供の僕はそう言った。それにとても安心したのだろう。君は繕った笑顔じゃない、眩しい笑顔を僕にくれた。

「私ね、あなたのことが大好き。愛してるよ」

彼女にとってはそれは本気だったし、僕に対する足枷だった。

「僕も君のことが大好きだ。愛してる」

呼応するように零れる言葉は美しかった。


 君は本気だった。僕に会うたびに逃避行の計画を自慢していた。夢と生きることに対する希望を話している君は明るくて、見ているだけで心地が良かった。


 そんなある日、いつも以上にボロボロの君がうちへやってきた。頭は血だらけで、手足には大量の痣。腫れた目をこちらに向けた時は、正直怖かった。一瞬、誰だか判らないほどの傷は、君からの最後の心からの救難信号だった。

「もう…無理。私、限界だ」

どこか諦観したような微笑みは、微笑んでいるのかすら疑うほどだった。

「例の逃避行、行く?」

「…うん。だから、予定通りの午前二時に例のバス停で。…絶対待ってるから」

絶対待ってる。君が僕に対して発した呪いはこれで何度目かわからない。

「絶対に行くから。待っててくれ」


 午前零時。そそくさと荷物をまとめ始める。心臓の音が目立つ。


 午前一時。心臓の音がうるさい。込み上げる焦燥と不安で吐きそうだ。


 午前一時半。まだ、大丈夫。


 午前一時四十五分。眠気が醒めた。そろそろいかなきゃ。


 午前一時五十二分。もう出ないと間に合わない。


 午前一時五十八分。頼む。今動かないと確実に間に合わない。僕の足が竦んでる場合じゃないんだ。頼む。動いてくれ。


 午前二時。恐怖と震えと絶望が糸のように絡み合い、僕を縛り付ける。僕は、いかなかった。涙を浮かべるだけだった。


 あれから一週間、君を全く見なくなった。春が近づき、桜が咲き始めたとは言え、寒空の下、ただひとりぼっちで僕を待つ君を想像すると、後悔で狂ってしまいそうだった。君はもう死んでしまったかもしれない。ならば僕も死して償うしかないと思った。でも自殺をしようとすると、手が震えてできなかった。そんな自分に嫌気が差して死にたくなった。死ねないくせに。


 逃避行未遂から八日目、無気力でなにもやらなかった僕の家に、一通の手紙が入るポストの音がした。何となくそれを取ると、それは僕宛の君からの手紙だった。


 拝啓。名も知らない恋する君へ。喋りたいことはいっぱいあります。言いたいことも、伝えたいことも。直接言葉にしたかったのですが、それはもう叶いそうもありません。まずは君にありがとうと言いたいのです。私をここまで生かしてくれてありがとう。本当に感謝しています。君といる時間はまるで天国のようでした。私を生き地獄から解放してくれました。本当に嬉しかったです。だからこそ、君といない時間は苦しかった。愛おしい君にまだ会えないのかと思うと辛かった。でも、君が逃避行に同行してくれると聞いた時はやっぱり天使だと思いました。それくらい、あなたのことが好きでした。今も大好きです。来てくれなかったことはとてつもなく悲しかったけど、それでも君のことは忘れません。私のことはとうに忘れてほしいけれど。そういえば、私の名前を教えてなかったでしたね。名付け親はもう他界した父なので、気に入った名前なんです。正直言えば君の名前を知りたかったですね。最後に我儘を聞いてください。君に私を止めて欲しかった。まだ間に合うなら、君が教えてくれた場所にいます。宵宮こころ。


 美しい名前だった。体も心も粉々にされたというのに、それに相反した名前と容姿だった。自責の念で頭が痛い。吐きそうだった。もしあの時、足が動いていれば。もしあの時、母に相談できていれば。もしあの時、ちゃんと守ってあげられたら。嗚咽と涙と頭痛でぐちゃぐちゃだった。それでも、今こそ動かなければ。「君が教えてくれた場所」とは何処だ。見当もつかない。それでも関係性のあるところに行かなければ。


 がむしゃらにただ、メロスのように走った。時間がないことは文面からわかる。取り敢えずあの時いけなかったバス停へ走る。だが、いなかった。次は君の家へ走る。怒号が鳴り響いていた地獄のような家。近づくだけで悪寒がする。唾を吐き捨ててやりたかった。君は勿論いなかった。じゃあ、何処だ。何処なんだ。まずい。時間がない。刻一刻と過ぎる時計を睨みつけながら、必死に君との会話を思い出す。


 曲がりくねった坂道を全力疾走で下る。桜並木がうるさい。別れや出逢いの象徴を飾って何が綺麗だ。いや、今はそんなことはどうでもいい。赤信号でクラクションを鳴らされ、怒鳴られたが、今は関係ない。ただ、走る。頼む。頼む。間に合ってくれ。


 高架化計画の看板の傍に君はいた。

「遅いよ。ずっと待ってたんだから。」

こころを表したかのような透き通ったまばゆい笑顔で微笑む君は。


 僕こと、常盤優斗に宵宮こころを止める資格はもう、なかった。


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