第八節『歓迎会』
8話目です。
よろしくお願いします。
あれから5分程経っただろうか。気が付けばバイクは速度を落として、徐々に飛行から滑空へと切り替わっていた。
近付いてくる地面をぼんやりと眺めている内に、目的地へと辿り着く。
そこは、いわゆる教会と呼ばれている施設だった。
黎児にはあまり馴染みのない施設だ。
住んでいた国は宗教色が薄かったし、黎児自身も信仰心と呼べるものはそこまで持ち合わせていない。重視しているのはクリスマスや元旦といった行事ぐらいのものだろう。
「ここが、そうなのか?」
「そ、レヴィア教会。名前からお察しだと思うけど、レヴィアさんがシスターとして務めてる教会よ。そして同時に私達の学生寮でもある。どう? 凄いでしょ」
イヴが得意気に語る。
実際、黎児はその雰囲気に圧倒されていた。
数十人がBBQをしても余裕がある程広大な庭。
堂々と聳え立つ灰色の尖塔。
重厚な歴史を感じさせる石造りの外壁は重いのに軽やかで、無駄がない。洗練されているものの、夜の中においてその無駄のなさは少しばかり不気味だった。
今の心境も相まってか。
光の届かない深海で、口を開けながら獲物を待ち続ける怪物を思わせた。
何となく目を逸らしたくなって、黎児は教会を抱くようにして建てられているコの字型の建物に意識を向けた。
教会は尖塔の背が高いのみで規模はそこまで大きくなかったが、この建物は庭の広さに見合う規模を誇っていた。
窓の数的に三階建てだろうか。こちらは比較的作られて新しいのか、白亜の壁は汚れも劣化も少ないように見える。
推測するに、あのコの字型の建物が学生寮として機能しているのだろう。
「時間も時間だし、もう皆食堂に集まってるみたいね。お腹も空いたし、早く行きましょう」
「皆、か」
少し憂鬱な気分になる。今まで出会った神徒は黎児が愚徒である事を気にしない人ばかりだった。
だが、全員が全員そういう訳ではあるまい。
きっと、毛嫌いしている人も居るはずだ。
先程襲われた件、その際にもたらされた様々な情報のせいで、肉体的にも精神的にも疲労が蓄積している。
故にこのままあてがわれた部屋で休みたい、というのが黎児の正直な感想だった。
無論、この先を思えばそんな身勝手は許されない。
新入りが挨拶もなしにそんな真似をすれば、印象がより悪くなってしまうのは想像に難くない。
「……」
芝生の上に敷かれた石畳の上を進み、黎児とイヴは巨大な観音開きの扉の前に立った。扉の片方をイヴが力を込めて開ける。ぎい、と鈍く重い音がして扉が開いた。
軽い足取りで中に入っていくイヴの後ろを、黎児は恐る恐る着いていく。
「……すご」
「どう、なかなかに立派でしょう?」
足を踏み入れた途端、外界とは全く異なる空気が黎児を出迎えた。その空気は、教会という特殊な建造物によって長きに渡り醸成されたものだったのだろう。
結婚式等で用いられるような、いわゆるチャペルと呼ばれるものとは趣からして異なる。眼前に広がるのは、不必要な装飾を排し礼拝の為だけに存在する儀式場。
この空気はたったの数年、数十年で生み出せるものでは決してない。この教会が長い年月を歩んできたであろう事は、幾つか点在する調度品が証明していた。
誰も居ないからか灯りは点っていない。アーチ型の大窓――――ステンドガラスというやつだろうか――――から注ぐ、薄布じみた月光のベールだけが、教会内を照らす灯りとして機能していた。
「ああ。こういうの、厳かなっていうのかな。なんかちょっとピリピリするというか……うん。神様ってやつが本当にいるんじゃないかって、そんな錯覚を起こしそうだ」
黎児は教会全体を見渡して、そんな感想をこぼした。
教会の最奥には石造りの重そうな扉、そしてその手前には講壇が置かれている。
更に手前には講壇へ平伏するかのように、年季の入った木製の長椅子が中央を縦断する赤いカーペットを挟む形で二列縦隊に整列していた。
窓から注ぐ蒼い月明かりは隔るような濃淡を落とし、神秘的ではあるが、同時に正体の掴めない恐怖を見る者に抱かせる。
夜に沈んだ教会は、まるで人知れず海底で微睡む沈没船のようだった。
「同感。けど、あまり表立ってそういう発言はしない方が良いわ。地上じゃどうか知らないけど、エルヴァーナでは神様はいるってのが通説だし、結構熱心に信仰している人達が多いから」
「っと、そうだよな。ごめん、迂闊だった」
宗教色が強くない国出身なのが裏目に出たようだ。一言だけ謝って、会話を切り上げる。
その間にイヴは教会内を縦断し、講壇の奥にある石製の扉の前に立っていた。
石製の扉には奇妙な紋様が刻まれていた。何十もの白い花が咲いた一本の巨木と、その下に走っている花と同数程の『根』。イヴは根の内の一つに触れると、静かに呼吸を取り入れ始めた。
「『名無しの経典。罪雪ぐ礼拝。不浄の五指を以て、その叡智を辿り食らえ』」
路地裏でも聞いた、この世のものとは思えない力を孕んだ発声。
発声に応じるが如く根の部分に赤い血のような光が走り、巨木で顔を覗かせる花へと到達する。
そして、花の紋様が果実の紋様に書き換えられた直後不動を思わせた石の扉がいとも簡単に開き、黎児達を迎え入れた。
「教会は誰でも入れるけど、ここは別。予め扉に『血』を登録して、決まった詠唱を唱えないと開かないから覚えておいて」
「ん、分かった。……ファンタジーすぎるよな、色々と」
ポツリとだった。
魔術という概念を当たり前の日常として消化する事が出来る日は遠そうだと苦笑を浮かべてから、黎児はイヴに続き石の扉を潜った。
吹き抜けとなっているエントランスを真っ直ぐ縦断し、観音開きの扉の前に立つ。そしてイヴが、それじゃ開けるわよーなんて軽い調子でノブに手を伸ばした。
「ちょっと待て」
「きゃっ」
イヴが意外にも(失礼かもだが)可愛らしい悲鳴を上げた理由は、黎児が手首を掴んだからだった。
掴まれた本人は悲鳴を上げてしまった気恥しさからか、ほんの僅かに顔を赤らめつつ、実に不服そうに黎児を睨みつける。
「ちょっと、何するのよ」
「そりゃこっちのセリフだよ。……俺は愚徒なんだ。イヴやレヴィアさんはさほど気にしてなさそうだけど、他の神徒が愚徒にどんな印象を抱いているか、俺は知らない。だから――――」
それにもう一つ、とある理由で黎児は神徒に対して罪悪感を抱いている。
これに関しては先人の行いは関係なく、黎児個人の問題だった。
その罪悪感が、躊躇いを生んでいた。
「……そうね。昼間はああやって発破かけたとは言え、直後にあんな事になっちゃったし。私がアイツらなら大丈夫、なんて言っても黎児くんは信じられないか」
「……悪い」
黎児の謝罪に、別に黎児くんが謝る事じゃないでしょ、とイヴは笑って返す。
そして、改めて扉に手を掛けた。
イヴは僅かに首を傾けて、
「今の私には貴方を安心させる事なんて出来ない。その不安を拭うには、貴方自身が自分でどうにかするしかない。だから――――自分の目で、自分の耳で、自分の言葉で、アイツらを見極めて」
扉を開け放つ。
黎児は一度だけ肺に酸素を取り入れてから、部屋へと踏み入った。
――――直後、花火のような色とりどりの閃光と乾くような破裂音が視界に溢れた。
「は……?」
閃光はやがて明確なカタチを帯び、宙でネオンの看板のように文字を象りはじめる。
『ようこそ、エルヴァーナへ!!!』
共通言語で、そう書かれていた。
「『――――錨鎖型術式、凍結解除』。そらテメェら、手筈通りにやれ!」
「あいよ!」
「うん!」
赤い髪の男子が激を飛ばしたと同時、みっともなく膝をつく黎児の周りにワラワラと人が集まってきて、あろう事かそのまま胴上げされるという暴挙に出た。
乱暴に視界がシェイクされ、力加減を知らないのか、危うく天井に突き刺さりそうになる。
堪らず、黎児は叫んでいた。
「ちょ、やめ……イヴ! 助けてくれ!!」
「え〜どうしよっかなぁ」
「っこの……ニヤニヤしてんじゃねぇよ!」
埒が明かない。
そう判断した黎児は上げられた瞬間、身体を捻って天井へと足を着けた。
そのままバネのように衝撃を吸収してから、天井を蹴りつけて胴上げ集団から1メートルほど離れた地点に着地する。
「クソ、何だってんだ……」
戸惑いもそこそこに立ち上がり、改めて周囲を見渡す。
ここは食堂だろうか。二つの長テーブルと三十以上の椅子がズラリと並んでいる。長テーブルには既に料理が置かれており、壁にはパーティでもするかのような装飾が施されていた。
幾ら朴念仁な黎児でも、ここまでされれば流石にその意図に気が付くというものだ。
しかし、だからこそ困惑した。
これではまるで――――黎児という異分子が、歓迎されているみたいではないか。
「へぇ。魔力も使わずあんな曲芸じみた真似出来るとはな。地上の人間って奴は全員そうなのか?」
指示を飛ばしていた赤髪の男子生徒が、輪から外れてこちらへ歩み寄ってきた。
身長は175の黎児より幾分か高く、180を僅かに超えるだろうか。野性味溢れる精悍な顔立ちに、燃えるような赤い髪が良く映えている。眼光は鋭いが、浮かべる笑顔は柔らかく人懐っこい。虎のような男だった。
「……どうかな。出来る人は少ないと思う。ああいやそんな話はどうでもいい。その、何でこんな歓迎ムーブなんだ?」
「あ? 何言ってやがる。新顔が増えるってのに歓迎しない理由はねぇだろ」
返ってきた答えはあまりにも簡潔だった。拍子抜けと言っても良い。
あまりにも簡潔過ぎて、言葉を返す機能がショートしてしまった。
「っと、自己紹介が遅れたな。俺の名前は暁劉璋。同郷のよしみって事でよろしく頼むぜ」
劉璋、と名乗った男子生徒はそのまま黎児に向かって手を差し出してきた。断る理由はないため、おっかなびっくりだが劉璋の手を取る。ゴツゴツとした男らしい手は力強く逞しかった。
「……神代黎児だ。よろしく、劉璋」
「おう。へっ、なぁに不安そうな顔してやがる。俺達、そんなにも取っ付き難そうなツラしてるか?」
「Hey 少なくとも劉璋の顔は結構怖いと思うんだゼ」
「DB、テメェには聞いてねぇ黙ってろ」
ギロリ、と劉璋はDBというらしい少年を眼光鋭く睨みつける。
何となく地上でアイツらとしていたやり取りを思い出して、思わず笑みが零れた。
「ごめん。別に劉璋の顔が怖かったとかそういうんじゃないんだ。ただ……」
ただ、こんなにも受け入れようとしてくれるとは思わなかった。
しつこいようだが、黎児は愚徒だ。過去、神徒と確執があったもう一つの人類。
それに――――愚徒でさえ反魔教育という神徒に対して悪感情を抱くような教育が近年までされていたのだし、神徒の間でもそういった教育がされていてもおかしくない。
むしろ迫害を受けた神徒の方が、そういった教育は活発だったはずだ。
「ただ、俺は愚徒だ」
前を向く。それだけは譲れない。まるでそれが矜恃であるとでも言うかのように、黎児は告げる。
「本当は神徒だった? そんなのは関係ない。俺には愚徒としての過去がある。だから如何なる理由があろうと、これからどんな事があろうと、俺は愚徒だ。
劉璋たち神徒とは永遠に交わるはずのなかった存在だ。それが何の間違いか、俺はここにいる。俺は劉璋たちにとっては異物で、癌みたいなものなんだと思う。それぐらい俺たちは分かり合えない存在だと、そう思っていた。……だからこそ意外だったんだ」
何十もの瞳に見つめられながら、黎児は懺悔するかのように己の抱えていた不安を吐露していく。
「イヴやレヴィアさん、そして劉璋達。これまで出会った神徒は皆、俺に対して最初から普通だった。……地上では神徒は俺たち愚徒を嫌っていて、絶対に分かり合えない存在だと散々教えられてきたのに」
特に黎児の経歴上、その思想は当たり前のように周囲に根付いていた。黎児自身はそこまでその思想に馴染んでいた訳ではないが、否定するような真似もせず、迎合していた。
そういうものなのだと、機械的に受け入れていた。
――――受け入れなくては、やっていけなかった。
「俺は、正直まだ不安だ。ちゃんと馴染める気がしない。地上とは人種も技術も常識も異なるエルヴァーナが、怖い。俺は本当にここに居て良いのだろうかって気になってくるんだ。ここには俺の居場所なんて、ないんじゃないかって」
言葉が詰まる。段々自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。けど、何を言いたいのかだけは分かる。
黎児は、ただアイツらと同じように――――
「居場所、ね。エルヴァーナに馴染めるかどうかはお前さん次第だからな。そこは自分で何とかして貰うしかねぇが……この場所に馴染む事だけは、結構簡単だと思うぜ」
ニヤリ、と。劉璋が不敵に笑う。どういう意味だろうと疑問符を浮かべる黎児に対し、横からイヴの声が滑り込んできた。
「ま、私達も世間にとっちゃ異物みたいなもんだしね。今更問題児が一人二人増えたところで大して変わんないわよ。そんな事より、早くパーティ始めない? 私、お腹空いちゃった」
「そんな事って……いや、それよりイヴ達が異物ってどういう意味だ?」
「そのままの意味よ。私を筆頭に、この場にいる連中の殆どが世間からはみ出した異物ばっかって事。だから、同じく異物である君もこのクラス配属になったんだろうし」
何でもない事のように、イヴはそう言い放った。思わず目を白黒させて、周りを見渡す。この場にいる全員、その言葉を否定するような素振りは見せなかった。
「……そうは見えないけど、マジなのか?」
「まあ、な。わりかしデリケートな問題だから詮索は止してくれ。俺らの間でも誰がどんな問題を抱えているかってのは詮索しないのが、暗黙の了解なんでね」
苦笑を交えながら劉璋はそう言った。イヴの発言はどうやら本当の事らしい。
「お前さんの懸念は正しいもんだ。実際、新聞でお前さんの事が報道されてからエルヴァーナは揺れた。愚徒から神徒への『突然変異』。大半の国民にとっては異物そのものだかんな。……神徒と愚徒が分かり合えない存在だってのは、俺達の間でもそう珍しい認識じゃねぇ。反感は当然のものだったし、実際昼に襲われかけたんだろう? そういった過激な奴らが出てくるぐらいには、お前さんは歓迎されていない異分子ってやつなんだろうよ」
それは、当然の事だと思う。イヴや劉璋達が特殊なだけで、本来は忌避感を抱くのが普通なのだ。
黎児だって自分の学校に神徒が転入してきたら、少なくとも仲良くはしなかっただろう。
そして、もし誰かに虐げられていたとしても、関わらぬよう見て見ぬふりをしたはずだ。
改めて自分がエルヴァーナに適応出来ない事を痛感して、表情が歪みそうになる。
しかし、そんなのは今更だ。
それはエルヴァーナ行きが決まった時から分かっていた事なのだから。
しかし、続く劉璋の言葉は黎児の予想とは違った。
「そう不安そうな顔すんな。世間からの風当たりからは俺達が守ってやる。言っただろ? エルヴァーナに馴染む事は難しいが、ここに馴染む事は難しくねぇってよ。何せ、ほぼ全員お前さんと似た者同士だからな。人間、同じ境遇に立たされた奴には優しくなれるってもんさ」
お前さんがロクでもない人間だっていうなら話は別だがね、と。
劉璋は笑いながら言った。
「……いい、のか」
「あん?」
「俺は異物だ。それでも、俺と――――」
「だからよ、気にしねぇって言ってんだろうがいい加減しつけぇぞ。おいテメェら、もう一度胴上げしろ。このわからず屋に俺達の歓迎の意を思い知らせてやれ」
劉璋の指示の直後、主に男子生徒がわらわらと集まってきて、黎児を再び胴上げする。
「ちょっ、やめ……うわぁピザ生地みたいに回すな!!!」
ぐるんぐるんと視界が回る中、俺は叫ぶ。
そして叫びながら、口元が綻ぶのを感じていた。劉璋の口振りから、エルヴァーナに住まう殆どの人は黎児に対して良くない感情を抱いているという事が分かった。
けど、この寮の皆だけは違う。コイツらになら、神代黎児という存在を預けられる。そんな気がした。
この数日間、ずっと気を張り詰めさせていたからだろう。
ようやく訪れた安堵は実に心地よく、視界だけでなく思考もぐにゃぐにゃに――――
「ふふ、何だか楽しそうですね」
「おう、レヴィアか。コイツがちと後ろ向き過ぎたからな。今強引に矯正してるところだ」
「それはいい考えです。黎児くんは控えめな性格をしていますからね。これぐらい強引じゃないと、私達に対して後ろめたさを感じてしまいそうですもの」
「確かにそうなんだけど、あれ大丈夫? 黎児くん遠い目をして微笑みながらされるがままになってるけど。止めた方がいいんじゃない?」
「む、確かに頃合か。よしテメェら! もういいから降ろせ!」
ややあって大の字に床に下ろされる。天井が波打つみたいにぐわんぐわん動いていた。十秒ほど経つと完全に収まってはいないがマシになってきたので、手を突いて立ち上がる。
「ひ、酷い目にあった」
「お前さんがなかなか割り切らねぇからな。背中をそっと押すんじゃなく、蹴り飛ばすのが俺らのモットーってやつでね」
「強引すぎるだろ……」
流石、イヴが委員長を務めるクラス。
その強引さは昼間にイヴが見せた強引さにとても良く似ていた。
だが、その強引さに救われたのは事実だ。言葉では文句を言っているけど、嫌な気持ちは全くない。むしろ劉璋達には感謝している。
黎児はこれからクラスメイトになる連中をぐるりと見回して、言った。
「まあその、なんだ。皆、ありがとう。全く気にしない事は無理かもしれないけど、早く馴染めるよう頑張るよ。だからこれから、よろしく」
黎児は小さく、ぎこちなく頭を下げる。
すると皆口々に黎児の事を歓迎するような言葉を投げかけてくれた。再び胴上げが始まりそうな雰囲気だったので、それは全力で回避したけれど。
そうしてその後、予定より少し遅れての歓迎会が始まった。
クラスメイト達が協力して作ったという料理に舌鼓を打ちながら、周りの奴らと歓談する。
色々な話をした。
俺個人の話に始まり、地上での生活の話、逆にエルヴァーナについての話を振ったりもした。お互いの文化の違いに驚いたり、似たような文化には共感し合ったり。
その時間は今まで抱えていた不安や恐怖を根底から覆す程、楽しい時間だった。
「……ふぅ」
歓迎会の後。皆が寝静まってから、黎児は宛てがわれた自室を抜け出し庭をなぞるように歩いていた。春とは言え夜は寒い。それに空に浮かぶ大陸という事もあってか、地上よりも寒さはやや上だった。
ほう、と小さく息を吐いてから空を見上げる。
エルヴァーナは一定の座標に浮いているのではなく、少しずつ移動しながら浮遊しているらしい。
だからだろう。黎児が地上から見ていた空とは、住み慣れたアパートから見ていた空とは姿が違う。違いはそれだけに留まらない。
星は近く。
月は深く。
夜は包み込むようにして、その瞬きを閉じ込めている。
電灯は少ないのに月明かりが深いからだろう。地上の夜より、この場所の夜の方がどことなく自然で柔らかかった。
それはこの場にイヴのバイクで降り立った時には抱かなかった感想だ。
寧ろ恐ろしかったはずの夜の気配を、今は好ましいものに感じている。
心境の変化が視野を広げてくれたのかもしれない。
我ながら単純だと苦笑していると、後方から芝生を踏む音がした。
「風邪、ひくわよ」
振り返ったと同時、足音の主であるイヴは声をかけてきた。両手に一つずつ、白い湯気を立てるマグカップを持って、その片方をこちらの方へ差し出している。
「あ、ああ。ありがとう」
軽く礼を言ってからマグカップを受け取り、口を付ける。中身は紅茶だった。
「わざわざ悪いな」
「別に。何となく部屋の窓覗いてみたら、黎児くんの姿が見えたから。こんな夜に外に出て、寒くないの?」
「それ、イヴが言えたことか? そんな格好で外出ると風邪ひくぞ」
言って、横目でイヴの格好を確認する。部屋着のまま出てきたのだろう。薄手のシャツに白いパーカーを合わせているが、パーカーの方はだらしなく着崩れており、袖しか通されていない。加えて履いているのはホットパンツときた。
明らかに黎児より防寒対策がなっていない。
「私の魔力保有量で風邪なんてひくわけないでしょ……って言っても分からないか。とにかく私の心配は要らないって事。素っ裸でも風邪なんてひかないわ」
ふふん、とイヴは誇らしげに胸を張る。成程。魔力ってのは自身の免疫力にも作用するらしい。
それでも夜の冷たさは防げないのでは、と心配したが、それも何らかの魔術行使で緩和しているのかもしれない。
「それで、こんな場所で何してたの? 面白いものでも見つけた?」
「いや、別に。空を眺めてただけ」
「ふーん。それでセンチメンタルな気分に浸ってたと」
「……否定はしないけど。女々しいと思うか?」
「女々しいかどうかを女に聞かないでよ。何だか貶された気分になるから」
それもそうだ、と軽く笑う。気が付けば紅茶も残り半分ほど。イヴの方も同じぐらいのペースだった。この紅茶が無くなる頃には戻ろうと決め、先よりゆっくりとしたペースで紅茶を飲み始める。
「ね、私達のクラスどうだった?」
どこか悪戯っぽい笑みを浮かべて、イヴが黎児に問いかける。
「馬鹿ばっかだな」
「むぅ、的確なレビューね」
「けど、良い奴らだった。俺もここでなら、楽しくやっていけるんじゃないかって、そう思えたよ」
素直に答える。
つい半日前とは真逆の発言に、黎児自身が苦笑しながら。
「そ。良かった」
どこか嬉しそうにイヴは言って、残っていた紅茶を全て飲み干した。唐突に始まったこのお茶会も、終わりが近付いている。
「ま、精々頑張りなさい。私達も出来る限りのサポートをしてあげるから。魔力の扱い方とか魔術行使のやり方とか、全く知らないんでしょ? 学院が始まるまであと1週間ちょっとなんだし、スパルタで鍛えてあげる」
「……少しは加減して欲しいなぁ、とか」
「イヤよ、そんな余裕ないもの。しっかりしなさい。そんな気概じゃ、講義についてなんていけないんだから」
ビシッと指を突き付けられる。
どうしようもなく正論だった。何せ今から新しい知識や常識を、イチから築いていかなくてはならないのだ。並大抵の努力では、今まで順調に勉学に励んできたであろう周りの生徒に追いつけやしないだろう。
「……悪いな。色々動いてもらってるみたいで」
「気にしないで。一応は私このクラスの長だし、クラスメイトが困ってたら助けるのは当然でしょう?」
イヴは胸を張る事もせず、至極当然とばかりにそう言ってのける。黎児は小さく笑って、そっか、とだけ返した。
容姿もさる事ながら、イヴという少女は中身も眩しかった。人を突き放す事をせず、だからと言って安易に励ます事もしない。イヴの背中を押して前を向かせる激励は、後ろ向きだった黎児にとって最も効果的な薬となった。
その眩しさに救われた。
それは本当に、感謝すべき事だと思う。
「そろそろ私は部屋に戻るけど……」
「ああ、俺はもう少し星を見てるよ」
「そ。ほんと、風邪だけには気を付けてね」
最後に心配の声を投げてから、イヴは黎児に背を向けて教会の方へと歩いていく。その堂々たる背中を、夜を駆ける星にそうするかのように、黎児は静かに見送ろうとした。
「……イヴ!」
けど、その前に。星がどこかに消えてしまう前に、その輝きを呼び止める。
イヴが何事かと黎児の方へ振り向いた。
呼び止めたとは言え何か大した用件があった訳では無い。ただ、言っておくべき事は言っておかないと黎児の気が済まない。
「ありがとう。俺はお前に、お前たちに、救われた」
少女の真っ直ぐさに、その輝きに少しでも報いられるように。
感謝を言葉に乗せる。
感謝を受け取ったイヴは目を丸くしていた。けどすぐに驚きを楽しげな笑いに変える。後ろ手に両手を組んで、少し気恥しそうに頬を赤らめて。
「――――うん。これからよろしくね、黎児くん」
そう言い残して、今度こそイヴは教会の自室へと戻っていった。それを見送った後、すっかり冷めきった紅茶を喉奥に流し込んで、夜空を見上げた。
地上から見えるものとは、少しだけ異なる風景。けれど変わらないものだって確かに存在する。
「……」
前を向き始めたとは言え完全に地上での生活、思い出を忘却した訳ではない。完全に切り離せないのは未熟な証拠だ。文化や法律、常識が全く異なるエルヴァーナで生きていくには、その未熟は必ず己を縛る枷となるだろう。
しかし、今の自分の立ち位置を受け入れるという事は、過去の自分を全て捨て去る事と必ずしも同義ではない、と思う。
過去の自分と今の自分は地続きだ。ならば過去の自分を噛み締めたまま、想い出を保持したまま、前を向く事だって出来るだろう。
黎児はそう思いたいし、そう在りたい。
少しずつ、少しずつでいいから前を向いて進んでいこう。
急ぐ必要は無い。少しづつエルヴァーナに慣れていって、自分の目標とか、やりたい事とかを見つけていくのだ。
「よし。指針は決まった」
そう独りごちて、黎児は寮に向かって歩き出した。
こうして、何もかもが変わってしまったと思っていた一日の幕が下りる。
今も変わらないものは、自身の胸の中に。
それらを道標に、ゆっくりと着実に、未来に向かって歩んでいくとしよう――――