第七節『悪魔憑き』
久々に
「っ……」
夜の冷たさが肩の傷口を突き刺す。
痛みを宥めるようにして、包帯越しに傷口をさすった。
――――あれから凡そ一時間。
男を蒼色の光で吹き飛ばしたイヴは、どこからか現れた黒い外套を纏った集団と共に、男が『食事』をしていた民家の中に入っていった。
黎児は外套を纏った集団の内の一人に簡単な手当を受けたが、何かの薬品を塗布した後に包帯を巻かれただけで、当然治ってはいない。
「傷を治す魔術とかはないのかな……ゲームとかだと定番だけど」
後は服を直す魔術とかも。
正直、時間の経過で治るであろう傷よりも無惨に破れた、もとい溶かされた服の方が黎児にとってはショックだった。
「よお、兄ちゃん。さっきの戦い見てたぜ。あの化け物相手によくあそこまで戦ったな」
空を見上げていた黎児に、一人の男が話しかけてきた。
年齢は恐らく二十代後半。歯に衣着せぬ言い方をすればみすぼらしい。ボロ布のような服は、恐らく一ヶ月は洗濯していないだろう。
しかし男は格好に似つかわしくない、人懐っこい笑顔を黎児に向けている。
「へっ。見てたなら助けろよって顔だな」
「……行きずりの人間にそんな事望まないよ。それに、全く助けてくれなかったって訳じゃないだろ」
「ほう?」
「とぼけなくていい。あの黒ローブの男達、アンタが呼んでくれたんだろ?」
ニヤリ、と男が更に口角を吊り上げる。
黒ローブの男達はイヴが戦闘という名の蹂躙を終えてから五分とかからず現場に到着した。
あまりにも早すぎる。
黎児の戦闘を覗き見ていた誰かが呼んだ、と考えるのが普通だろう。
それが目の前のみすぼらしい男だと分かったのは、自分でもどうかと思うけど、勘だった。
「おもしれぇ兄ちゃんだな。俺の名前はアリってんだ。兄ちゃんは?」
「……神代黎児」
「かみしろ……ん、どっかで聞いた事ある名前だな」
「生きてれば似たような名前と出会う事なんて幾らでもあるだろ。それより何か用? 見ての通り怪我してるし疲れてるし、用があるならさっさと済ませてくれ」
肩の痛みと全身を襲う倦怠感のせいか、それとも男――――アリの親しみ易さのせいか、普段よりぶっきらぼうに黎児は吐き捨てる。
そんな失礼極まりない態度にもアリは不快感を示す事なく、寧ろ楽しそうに黎児に話しかけてきた。
「ん、まあ用らしい用はねぇんだけどな。ただ兄ちゃんに賛辞を送りに来ただけよ。魔術や身体能力の強化なんていう妖しげな手段を使わず、あそこまで化け物を追い詰めたんだからな」
「……?」
アリは少し引っかかる言い回しで黎児を褒め称える。
何が引っかかったのか思い当たる前に、人集りを掻き分けるようにしてイヴがやって来た。
「お待たせ。……誰、その怪しい人」
「初対面で随分ご挨拶だな魔術師のお嬢ちゃん。汚ねぇ見た目してんのは認めるけどよ。――――それで、あのガキはどうなった?」
イヴのあまりにも失礼な発言を軽口でいなしたアリは、表情を僅かに神妙なものに変えてイヴにそんな疑問を投げ付ける。
イヴはつまらなげに溜息をつき、同じくつまらなさそうに答えを返した。
「死んではないわ。私の魔術をまともにくらったんだし向こう一ヶ月はベッドの上でしょうけどね」
「『症状』の方は?」
「そっちも処置が早かったから特に問題なし。……問題があるとすれば心の方かな。そればっかりは他人ではなくあの子自身でどうにかするしかない。治療――――ううん、乗り越えるには時間がかかるでしょうね」
あの男を案じるように、イヴは瞳を伏せる。
正直、話に着いていけない。着いていけないが、黎児を襲った男の事を、まるで加害者ではなく被害者として扱うかのようなイヴに黎児は違和感を覚えた。
「……ま、これ以上は私たちには関わりのない話だわ。この先は事後処理が得意な連中に任せましょう。行くわよ黎児くん。すっかり遅くなっちゃったけど、教会に戻らなくちゃ」
「あ、ああ」
その違和感を言葉にするかどうか迷っている内に、イヴがこの場を後にする事を決めてしまった。
当然黎児はその決定に従うしかなく、颯爽と自身が跨っていたバイクに歩を進めるイヴを慌てて追いかけようと――――
「何だ、もう行っちまうのか」
アリが、名残惜しそうに黎児達を呼び止めた。
今までに出会った人種の中でも一際胡散臭い男だが、今の声音は心做しか熱を帯びていた気がする。
ただもう少しここに留まろうと思うにはアリとの関係は希薄だし、何より両足にのしかかる疲労が一刻も早くこの場から離れたいと訴えていた。
「さっきも言った通り、疲れてるんだ。話し相手が欲しいなら他をあたって欲しい」
「最近の若者はドライだねぇ。ま、良いか。幸い夜は長いんだ。この先、多少の気まぐれを挟み込む余地はあるだろうさ」
どこか予言めいた台詞を背中越しに聞く。
黎児は最後に、一瞬だけ後方を振り返った。
アリは何も言わない。
ただ楽しげに口元を歪め、黎児を見送っている。
――――その笑顔が。黎児には、愚者を嘲笑う蝙蝠のように見えた。
「それじゃ、行きましょうか」
「ああ。くれぐれも安全運転で頼む」
「安心しなさい。このバイクに乗り始めてから一年以上経つけど、事故った事なんて一度もないんだから」
「……」
大型バイクが男を吹っ飛ばした光景が脳裏に浮かぶ。あれは故意に轢いたと思われるため、確かに事故とは言えないかもしれないが。
「? 何か言いたげだけど、どうしたの?」
「いいや、何でもない」
「そ。なら早く後ろに跨りなさい。劉璋辺りがそろそろ空腹で暴れ出す頃だし、早く教会に帰らないと」
不穏な台詞と共に同乗を促される。
バイクの構造上、当然ながら乗るとしたらイヴの後ろだ。
黎児は恐る恐るバイクの後ろに跨り、タンデムバーに身を預ける。
「こういうの、慣れてない? その体勢じゃ身体が後ろに流れちゃうわ。危ないから私に捕まって」
「……こうか?」
躊躇いがちにイヴの華奢な腰に手を回した。
ほぼ初対面の女子の身体に密着する状況に、先程の惨状で麻痺していた理性と思考に色が戻る。
対してイヴはと言うとほぼ初対面の男に後ろから抱き着かれているというのに動じた様子はない。
「うん、そんな感じ。それじゃあ、飛ばすわよ!!」
「おい待て。さっきも言ったけど安全運転で――――っ」
言葉は最後まで続かなかった。エンジンに血が通い、獰猛な唸り声を上げ、黒い車輪が舗装されていない地面を噛み砕く。
イヴは最初はゆっくりとか、気の利くような真似はしなかった。
初っ端からフルスロットルまで踏み込み、トップスピードで駆け抜ける。
「あがががががががががっ!?」
「っ、振動凄いわね。これはさっさと飛んだ方が良いかも、ね!」
イヴはガゴン、とハンドルまわりのスイッチを親指で弾いた。
直後、バイクが飛んだ。
比喩表現ではない。景色全てを置き去りにするかのような、獰猛な飛翔だった。
「……すっげぇ」
眼下の風景が凄まじい速度で溶けて流されていく。顔面を覆う風圧は壁のようだったが、何というか――――
「気持ちいいでしょ? 機械の乗り物を考案した地上の人達に感謝しなくちゃね」
感じている事を得意げに言い当てられた。
今乗っているバイクも、どうやら黎児の銃と同じく地上から技術を模倣して作られた物らしかった。
この分だと夕方前に乗ったバスも同じように作られた物なのかもしれない。
地上の技術が流出しまくってる事に関しては少し複雑な想いだが、これからエルヴァーナに住む以上、あって困るものではないだろう。
「……それで、アイツは一体なんだったんだ? 俺には人間じゃないって事ぐらいしか分からなかったけど」
空を飛び始めて5分程が経過したタイミングで、黎児はそう切り出した。アイツとは勿論俺に遅いかかってきた大男、『悪魔憑き』というらしいニンゲンの事だ。
「まあ、知らないわよね。地上には悪魔憑きって居ないんでしょ?」
「ああ、居ない。……エルヴァーナではその悪魔憑きってやつは当たり前に居るもんなのか?」
「当たり前かどうかは人によるだろうけど……ま、非日常ってほど縁遠い存在じゃないのは確かね。黎児くんにも概要ぐらいは説明しといた方がいいかな」
「頼む」
あんな化け物、せめて知識だけでも知っておかないとその事が命取りになりかねない。
アレはそういう類の存在だと、黎児の直感が告げていた。
「悪魔憑きは、悪魔と契約を交わしてしまった愚か者の総称よ。悪魔については何か知ってる?」
悪魔。
その単語と意味は地上で育った黎児も知っている。
というか、知らない人間は限りなく少数だろう。
創作物ではかなりポピュラーな存在だし、その手の漫画や小説を、黎児も何作か読んだ事がある。
しかしポピュラーな分、知っている事柄も人並みだ。
人の弱みに漬け込み、人に災いを齎す空想上の存在。
黎児が知っている事と言えばこの程度である。
「うん。基礎知識はあるみたいね。地上から消えて久しいけど、痕跡までは消え去らなかったんだ」
イヴの言葉通り、悪魔とはかつて地上に根を張っていた存在だったのだとか。
しかし『賢者達』が大多数の神徒を伴って『楽園』に赴いた時期を皮切りに、悪魔は地上から姿を消した。らしい。
「その口振りからすると、悪魔ってのは実在するんだな」
「実在する。もっとも見た事がある人なんていないでしょうけど」
「実在するのに、見た事がある人がいない……?」
「ええ。そもそも悪魔が人間に災いを齎すのは、悪魔という種を存続させるためなの」
悪魔という種の存続。
その為には人間の魔力が必要不可欠なのだと、イヴは語った。
そして悪魔は存在こそ証明されているものの、実体を持たないため、悪魔側から干渉を受けない限りは知覚出来ないのだとか。
そして、知覚出来ない以上、人間は悪魔そのものを滅ぼす事は出来ない。
病気の治療は出来ても、その元となるウイルスそのものを滅ぼす事は出来ないのと同じだろうか。
「意外に聞こえるかもしれないんだけど、実体がない以上、悪魔は基本的に人間には勝てない。だから悪魔は同じく実体を持たない人間の『精神』に干渉するんだけど――――」
その食事法を聞いて分かったのは、悪魔が途轍もなく悪辣な存在だという事だった。
まず悪魔は、行き詰まった人間の精神に干渉し契約を持ちかける。
要するに、救いの手を差し伸べるのだ。
その際、悪魔は自身の一部を切り離し、その人間の精神に植え付ける。
その一部――――『霊的因子』というらしい――――は精神の中に潜行し、歪んだ欲望を餌として肥大化。
やがて霊的因子は人間の欲望そのものに置き換わり、理性を蝕む。
要するに自分の欲望の歯止めが効かなくなる、という訳だ。
そして、その急激な精神の変貌は肉体側にも影響を及ぼす。
――――健全なる精神は健全なる身体に宿る。
昔、人間が地と天に分かたれるよりずっと昔に、ある詩人が残した言葉だ。
この悪魔憑きという現象はその言葉をひっくり返したかのように、まず人間の精神を穢してから、次に身体の方を犯していく。
「精神が肉体にも影響を……あの大男が内臓を鞭みたいに伸ばしてたのは、そのせいって事か?」
「そ。私達はそれを『権能』って呼んでるわ。基本は契約した悪魔の性質や、その人間が抱いた欲望に沿って権能を発現させるんだけど……そうね、あの子の場合は『飢餓』ってところかしら。何十倍にも肥大した飢餓感はあの子の消化器官を犯し、そのカタチと在り方を無理やり捻じ曲げた」
「……」
悪魔憑きについては完全ではないものの、概要ぐらいは理解出来た。
ただ、先程から度々差し込まれるある呼称に、黎児は違和感を覚えていた。
嫌悪感、とさえ言っていいかもしれない。
無視できない、長虫が背筋を這いずり回るような悪寒を押し退けて、黎児は強風で乾いた唇を震わせる。
「……さっきからあの子あの子って、何でそんな呼び方であの大男を呼ぶんだ? それじゃあまるで……」
――――あの化け物が、幼い子供みたいじゃないか。
その核心的な言葉を、黎児は呑み込んだ。
イヴは最初、黎児の疑問について何も答えなかった。
それは答えてしまっていいのか逡巡するかのような、僅かな沈黙。
実際には五秒程、体感ではその何十倍にも引き伸ばされた空白の後、
「多分、貴方の想像通りよ。私があの子を吹っ飛ばした後、黒づくめの連中が来たでしょ? アイツらがあの子とあの子が食べ散らかしてた人間の身元を確認したら、あの家に住んでた3人家族だって事が分かった。
死んでいた方が父親と母親。……そして、悪魔憑きになって両親の身体を食べ散らかしていたのが、その子供。歳は六つって連中が言ってたっけ」
「ッ……」
頭の中が沸騰する。
近くに壁でもあれば怪我も辞さずに拳を振り抜いていたに違いなかった。
「これ以上はやめとく?」
「……いや、全部聞かせて欲しい。その権利が俺にはあるはずだろ」
「権利とかそういう話じゃないんだけど……ま、いっか。君がいいっていうなら止める理由ないし」
警告じみたイヴの気遣いを突っ撥ねる。
気持ちは嬉しいが、今はその優しさに逃げている場合じゃない。
これが背負う必要のない義憤である事は理解している。どこまで行っても黎児は殺されかけた被害者側であり、対してあの男は殺そうとした加害者側だ。
この構図は決して揺るがない。
同情を挟み込む余地なんて、紙一枚分すら有り得ない。
それでも、見て見ぬフリをして逃げる事は出来なかった。
黎児は確かに被害者側であるが、同時に、一人の人間の欲望を――――否、願いを踏み躙った側でもあるのだから。
「生活に余裕があるとはお世辞でも言えない家庭だったみたい。ま、よくある話よ。父親が事業に失敗してってお決まりのやつ。借金で首が回らなくなり、借金を借金で返済するなんていう生活が続いていた。当然、そんな延命は長くは続かない。日々の食事すらまともに取れず完全に行き詰まってしまった彼らは、自分達で生命を絶つ事を選んだ。
……でも、子供までは巻き込めなかったんでしょうね。家の中には2人分の、胴体を失った首吊り死体がぶら下がってた」
想像したくないのに、その光景を想像してしまう。
子供を巻き込みたくなかったという事は、夜、子供が寝静まった後などに事に及んだのだろう。
せめてその瞬間だけは、子供に見せないように。
夜半、ガタンという何かが倒れるような音で目が覚めた子供は、その音の発生源に向かう。
今にも抜けてしまいそうな床を、いつもと同じようにゆっくりと、あまり音を立てないように裸足で踏みしめる。
そして、見てしまった。
『…………あ』
日常という名の緞帳が、目前で無惨に引きちぎられる。
いつもは夜を遠ざけてくれる月明かりが、冷たくその光景を露わにする。
ギシギシと軋む荒縄。
乱暴に倒された椅子。
床を汚す糞尿。
苦痛と安堵に歪んだ――――くるくると回る、二つのてるてる坊主。
夜の美術館で目にする絵画のように現実感のない、少なくともその子供にとっては幸福だった日常の、成れの果て。
ソレを見つけた子供は、黎児たちには計り知れない絶望を抱いたはずだ。
「その絶望と、日に日に腐っていく両親の死体、それでも襲ってくる空腹感。それでも子供は誰かに助けを求める事はしなかった。多分、誰かに助けてって言う方法を知らなかったのね。……その純粋さ、その弱さを、悪魔は見逃さなかった」
「……何だよ。じゃあアイツは、ただ」
「そう。誰かに助けて欲しかっただけ。あの子にとっては手を差し伸べたのが人間か、悪魔かの違いだけだった」
胸糞悪い。
それが、一番初めに浮かんだ感想だった。
タチが悪い、とイヴが口にした理由をこれ以上なく理解する。
方法とその結果がどうであれ、両親の自殺と飢餓感で行き詰まった子供にとって、悪魔の囁きは救いそのものだったはずだ。
再三繰り返すが同情はしない。否、正しくは同情を抱くべきではない。
なのに――――あの子供に対して向けていた怒りは、嘘のように消えてしまった。
「俺が見た死体、首から上がなかった」
「でしょうね。言ったでしょ? 天井から頭だけ吊るされてたって。首から下は腐り落ちたのか、あの子が引きちぎったのかは知らないけど。で、それがどうかした?」
「……おかしな考えかもしれないけどさ。アイツ、親の顔を食わなかったんじゃなくて、食えなかったんじゃないかって。最後のその境界線だけは踏み越えられなくて、幾ら死んだとは言え親の前で醜い姿は晒せなくて、だから、親の顔だけは食べないように、他の動物に、手を、出して――――」
「ストップ」
震える黎児の言葉を、イヴの涼やかな声が静止する。
それは余分な感傷、外すべき足枷なのだと、黎児を戒める。
「確かにあの子は両親の事を愛していたかもしれない。悪食の中でも頭に口を付けなかったのはそれ故かもしれない。でも、あのまま症状が進行していたらその愛すらも食欲に上書きされてた。
だから、私たちは悪魔憑きの感情を考慮しないわ。
その余分な感傷で手が鈍れば、結果的に当人と周囲の人間をより傷付けるもの。
……難しいかもしれないけど、そのスタンスは徹底しなさい。これから悪魔憑きと対峙した時、本当に守りたいものすら、守れなくなってしまうから」
それはどこか、決意を滲ませた忠告だった。
地上で生きてきた人間にとっては容認し難い、エルヴァーナにおける基本原則。
似たような言葉を、かつて、あるお節介な友人に言われた事がある。
『――――うん。君は優しいからね。神徒は勿論、きっとどんな犯罪者だって殺せない。
でも覚えておくといい。
僕らに敵と、その処遇を決める権利なんてないんだ。そして躊躇えば躊躇うほど、自分と仲間の生存率は下がっていく。いいかい? 君が仲間を家族同然に想ってくれているなら、まずは君の優しさ、いや、甘さを捨てるべきだ。そうじゃないと、本当に守りたい誰かすら、守れなくなってしまうからね』
求められるスタンスは地と空、どちらであっても変わらない。
違うのは、一つだけ。
つまるところ。
――――黎児は敵を選ぶ自由意思を得た代償として、大義名分という名の傘を失ったのだ。