ピアノソナタ第16番
数日してエヴァ様はリリアナ様の部屋へ移った。
星水晶が荷物を運ぶのを手伝おうと部屋に入ると、続き間にはピアノが置いてあった。
「すごい…ここにはピアノがあるんですね」
(弾きたい。でも手伝いに来たのに迷惑よね…)
スカートの端で指を擦りながら、星水晶がピアノから目をそらせないでいるとエヴァ様が肩に手を回し耳元でささやいた。
「セイラのピアノが聞きたい。あんなに熱心に見てたってことは、弾けるんでしょう?」
エヴァ様に導かれて、星水晶はピアノ椅子に座った。
鍵盤に指を置いた瞬間までは静かで落ち着いた曲を弾こうと思っていたが、作り始められた夕食の香りを鼻腔に感じ、心が浮き立つ。
夕暮れに料理の匂いが漂うあの感じ。オルトレー家の人々と囲む和やかで温かい食卓を思うと、その心に合わせて手は自然と弾むような曲を奏でていた。
軽快に指がキーを叩く。ここはこんなに強く弾いたらダメ…テンポも少し早いかも。だけど、楽しい。指が抑えられない。
夢中で奏で、最後の和音を響かせて鍵盤から指を離すと、いつの間にかオルトレー夫妻、リリアナ様、ユリウス様が集まっていて盛大な拍手をくれた。
星水晶の視界は滲んでぼやけ、両手で顔を覆って下を向いた。
(そうだ。たくさん練習して、初めてこの曲をつまづかずに弾けたとき、こんな風に家族から拍手をもらって…嬉しかった。)
無意識に星水晶はこの曲を選んでいた。指の間からとめどなく涙が溢れる。
「臆病なくせになんて頑固な子なの!」
エヴァ様はそう叫ぶと、星水晶に駆け寄り頭を抱き寄せた。
「あそこから連れ出して良かった。あなたずっと我慢してたのよ…」
「…っ」
顔を覆ったまま星水晶は首を振るが、こんなに涙が止まらない理由は他になかった。
神殿は静かで平穏だが、その安寧は否応なく自分自身と向き合わせる。自分の中の罪も、心も。
自由がなく全てが決められた生活に感情までも律される。
悪い所ではないが、突然別の世界に飛ばされた星水晶にとって、そこは安心できる家ではなかった。
暖かな家族が、エヴァ様と家族の心のこもったやり取りが、張り詰めた心を緩めてくれた。
自分の頭をもたれさせて、エヴァ様は星水晶の背中をさすり続けた。
「辛かったね。私にも、わかるよ…」
エヴァ様は大聖堂で星水晶と同じ気持ちを体験していた。そこでは心を激しく乱すことは不謹慎だった。
借金に苦しむ家族がどんなに心配でも会えない。泣きたくても歯を食いしばって心を落ち着けるしかない。
戒律がそこまで厳しくない神殿でも、みっともなく泣き喚けばたしなめられただろう。
巫女でもシスターでも、精神的に強く見えても、修道服を脱いだら中身は脆い心を持つ十代の少女だから。
「うっ、く、うぁっ」
「いいよ。ここなら泣いてもいいよ。」
「わぁぁぁっ……」
それから星水晶はエヴァ様の胸に顔を埋めて声を殺して泣いていた。
(帰らせて!本当はうちに帰りたい!
お父様!お母様!
耀子様…っ!
寂しい、会いたい、声が聞きたい、触れたい、ほんの指先だけでもいい。
私を知る人に、私の存在を確かめさせて!)
あの事故で自分だけ命が助かったのにそれ以上を望んではいけないと思っていた。
神様に生かされたことを嘆いてはいけない。たとえ孤独と罪悪感に苛まれても。
どうにもならない叫びを泣き声にかえて、星水晶はくぐもった呻きを上げるしかなかった。
(どうしてかな。私、エヴァ様になら身を委ねられる。知り合って間もないのに、私が縋っていいような方じゃ、ないのに…)
エヴァ様には耀子様の声が聞こえるから、重ねて見てしまっているのかもしれない。
真狒姫は素直な感情の発露を歓び、美凪様は静かに星水晶を見守っていた。
「セイラ、泣き疲れて眠ってる。」
「そうか…」
顔は泣き腫らし、身を丸めて長椅子に横たわる星水晶にエヴァ様は毛布をかけた。
「セイラには好きなように過ごさせてあげたいけど、ある程度は私たちから何か気晴らしをするように働きかけてあげた方がいいと思う。
放っといたらずっと頑なだよ。耐えるのは体に良くない。」
エヴァ様は夕食を食べながらオルトレー夫人に向かって言った。
「お母さん、謁見が終わったら町に出かけてもいい?セイラを連れて行きたいから。」
「もう、エヴァが行きたいんでしょ?
いいわよ。ただし、ユリウスも一緒にね。」
「ありがとう!」
それから星水晶は栄養のある食事と十分な休養により、徐々に元気を取り戻していった。
午前中はピアノを弾いて過ごすことが多く、リリアナ様の楽譜を借りて弾くこともあれば、元の世界のクラシック、映画音楽やドラマなどの楽曲を弾いたりすることもあった。
気ままに弾くのが楽しかった。
エヴァ様が登城する前日の夜、星水晶はエヴァ様の部屋で着付けの打ち合わせしていた。
オルトレー夫人が残念そうにため息をつく。
「巫女の礼服…地味ねえ…。せっかくの娘の晴れ姿なのに」
儀式の際はひらりとした裾に光が当たって幻想的なのだが、部屋で着ているのを見るとどうも飾りがなくぼんやりとして見える。
「これでいいよ。カインに見せるなら着飾るけど、王様でしょ?」
国王を下に見る発言にオルトレー婦人が眉をしかめる。
「王様だけじゃないわ。王子様もいるのよ。見初められるかもしれないじゃない!」
「13人もいる王子様ねー。継承権はそのうちのたった1人だよ。」
エヴァ様は興味なさげに呟く。
「魔力の強さで継承順が決まるからわからないわよ!将来王妃になれるかも。」
笑い話かと思ったらオルトレー夫人はそこそこ本気らしく、もしカインを護衛につけるならドレスを着るかとエヴァ様に持ちかけた。
「それはまあ、カインには見てもらいたいけど…」
「じゃあセイラさん、あれを。」
星水晶はご機嫌なオルトレー夫人に言われてクローゼットから一着のドレスを取り出した。
「…謀ったわねセイラ。部屋にこもって何かしてると思ったら。」
エヴァ様はニコニコしてアクセサリーや小物を合わせているオルトレー夫人を拒否できず、されるがままになっていた。
母親の可愛い服を着せたい欲に娘は逆らえないようだ。
そして謁見当日。カインは護衛として正式に依頼され、最初の仕事を得た。
星水晶はお手伝いの女性とエヴァ様の着付けをしていた。
エヴァ様の髪は短いので、撫でつけて結び目にボリュームのあるつけ毛を被せた。
低めのサイドポニーのような感じで、バランスを見てカールさせた髪を両側に垂らす。
意思の強そうな眉は形を整えて少し細く、眉尻は下げて描き、まつ毛は熱でカールさせた。
彫りの深い顔立ちなので、化粧は色むらをなくして、血色を足す程度で控えめにしたが、ドレスにも髪型にも負けない華やかさだった。
『少女漫画…!』
美凪様はエヴァ様の長いまつ毛や端正な鼻、口元を眺めて驚愕していた。
「セイラはドレスに興味あるの?」
星水晶の普段の装いはほとんど黒の詰め襟のブラウスにスカートだ。
首がほっそりして長いので似合ってはいるが、化粧っ気はなく華美ではない。
それなのにこういった技術があるのをエヴァ様は不思議に思った。
「もちろん。だって、いまエヴァ様が着ているドレスをデザインしたのは私ですから。」
商会から採寸した数値を教えてもらい、素材を揃え、縫い子さんの手もかなり借りて仕上げたものだ。
「手袋のレースが雪のように透き通った滑らかな肌を引き立てて…引き締まった二の腕からほっそりした肩の、なだらかな曲線。ここのラインは美しいので出していきます。
すらっとしたエヴァ様が着るとドレスが映えて本当に綺麗…私だと胸とボディのバランスが崩れて着こなすのが難しいデザインなので」
『星水晶ちゃん…ドレスの話になるとちょっと早口になるよね』
コルセットを締められて、スカートを膨らませる骨組みのようなパニエを装着され動けないエヴァ様は目だけ動かして星水晶を睨んだ。
「…嫌味?」
「いえ、羨ましくて…」
言い訳するようだが、エヴァ様は決して膨らみに乏しい方ではない。
ドレスに合わせるアクセサリーや髪飾りを最後に調整しながら星水晶は続けた。
「胸が大きくてもそれを引き立てるデザインがあります。むしろそちらの方が得意です。
ただ自分で着るにはちょっと…」
手持ち無沙汰なエヴァ様にそんな話をしながら、取れないようにピンで髪飾りを固定すると、最後に星水晶は大きな鏡をエヴァ様へ向かって置いた。
「さあできました。いかがでしょうか?」
「…これが私?」
まじまじと鏡を覗き込むエヴァ様を見て、星水晶は満足げに胸を張って笑った。
エヴァ様が玄関ホールへ降り立つと皆歓声をあげた。
ドレスは青みがかった紫色。胸元にはキラキラと輝くビーズ刺繍が施され、切り替えには白いリボンベルト。
ウエストからふわりと広がるスカートに布で立体的な装飾を付けてウエストの細さと対比させ、エヴァ様をより細く華奢に見せていた。
宝石を使ったネックレスやイヤリングも、シャンデリアの光を反射してキラキラ眩しく輝いている。
ヒールの靴は透明感のある白で、不安定に階段を降りる様は頼りなげで、歩くたびふわふわと巻いた髪がアクセサリーとともに軽やかに揺れている。
それは可憐な1輪の花のようで、普段の活発なエヴァ様からは想像もできない姿だ。
「見違えたよ、エヴァ。お兄さまは天使のような美しい妹をエスコートできて幸せだ。」
「本当に綺麗だ。あのエヴァがなぁ…」
ユリウスも、オルトレー氏もとても嬉しそうだが、一番喜んでいたのはオルトレー夫人だった。
「どうかな?カイン。」
エヴァ様の顔が普段より赤みがさしているのは、頬紅のせいだけではない。
「とてもお美しいですよ。」
護衛が複数いる中で、そんな風にカインにだけ声をかけたら、エヴァ様がカインのことを意識していることは明らかだ。
オルトレー氏の顔がピクピクと動くのを見て、夫人は耳打ちし、ユリウスはささっとエヴァ様を馬車へ乗せてしまった。
「オルトレー夫人、ありがとうございました。」
馬車を見送った後、星水晶はオルトレー夫人の手を握った。彼女は照れたように手を握り返してくれた。
「お礼を言うのは私たちじゃない?」
「実は私、子供の頃ドレスデザイナーになりたかったんです。夢が叶いました。」
「…そうだったの。また作る機会があったらその時はどんなデザインがいいかしら?」
いくつになってもお洒落への興味は尽きない。夫人は星水晶をお茶に誘って、ドレスやお化粧の話に花を咲かせたのだった。
そしてオルトレー氏は、巫女になったら嫁に取られないと思っていたのにと自室でさめざめと泣いていた。




