Like
書き手:オワタ式
僕は抹茶が好きだ。
子供のころ、あっさりとした味のする羊羹と一緒に差し出された、鮮やかな萌黄色。口の中にわだかまる苦みに隠された、ほのかな甘みを見つけ出すのが理由もなく楽しかったから。
だけど、同時に不満もあった。子供のころというのはたいてい、食欲旺盛な時分。けれど、値段のわりに少量しかない抹茶は、気をつけなければすぐに飲み尽くしてしまうのだ。
もっと愉しんでいたかったのに、そうして大切なモノはいつのまにか消えて、僕をひとりぼっちにする。
「とても、おいしかったです」
なんて感傷に浸るのも、このお茶があまりにもおいしすぎたから。
苦手な正座のしびれも忘れて、僕はぜんぶ飲み干したお茶碗を床に置く。ふたたび顔を上げた視界の中心には、楚々(そそ)とした白百合のような女の子が僕を見つめていた。
「ありがとうございます。そう言っていただけて、とても嬉しいです」
その、文字どおりの形容を体現する華のような女の子が、流れるような動作で会釈する。絹のような長い黒髪をなびかせて輝くのは、見惚れるほどに優しい笑顔だ。
彼女の名前は、たしか酣酔楽と言っていた。僕と同じ文芸部に所属している一方で、姉のほしさんと一緒に、茶道部の部長と副部長を務めている。
ホント、幽霊部員の僕には眩しすぎる人である。
「初めてお茶を飲んだ時のことを思い出しました。あの頃からお茶は好きでしたが、これは本当においしい。―――もっとも、門外漢の僕では参考にならないかもしれませんが」
「いえ、そんなことはありません。私も、自分の点てたお茶を人前に出す時は緊張しますから。気に入ってもらえて、本当に良かったです」
そう言って彼女は、今度は後ろに控えていた和菓子を前に置いた。夏の涼菓を代表するぐらいにメジャーな、水まんじゅうだ。
「これですか? 僕に試食してほしい物というのは」
「はい。もしかして、苦手ですか?」
「いえ、大丈夫です。―――いただきます」
透明性のたかい弾力に楊枝を刺し、僕は水まんじゅうを口に入れる。
透き通るような冷たさ。ほどよく柔らかい歯ごたえから、一気にアンコの甘みが広がる快感。その絶妙なバランスが僕の味覚を打ちのめし、嚥下することにためらいすら覚えさせる。
だが、僕の喉は意思に反してごくりと上下した。ああ、なんてもったいない。飲み込んでしまった僕の口には、あの味をもう一度と恋い焦がれる、飢えた欲求だけが残っている。
「……すごくおいしいです。これが試作品だなんて、とても思えません」
酣酔楽さんは、ためらいがちに苦笑した。
「これでも、かなり試行錯誤を繰り返したんです。最初は自分で味見をしていて、ようやく人に食べてもらえる程度には仕上がったかなと思いまして」
「僕はこれでも充分だと思いますよ。個人的には抹茶味のも食べてみたいです。味も食感も抵抗ありませんし、たぶんみんなも喜んでくれると思います」
「ありがとうございます。よかったら、もう一ついかがですか?」
差し出されたのは、酣酔楽さんの分だった水まんじゅう。さすがに申し訳ない気持ちもしたけど、あいにくと、さっきので味をしめた僕の食欲が拒絶を許さなかった。
「いいんですか? ぜひ、いただきます」
素直になるのは良いことだ、とささやかな言い訳などを一つ。口の中に放り込んだ和菓子を舌の上で転がせる。つるんとした透明の皮は冷たく、これからの季節を考えると、確かにちょうどいい冷気だった。
その、寒天でできた透明の皮に歯を立てる。滑らかな弾力の抵抗をこえて、優しくとろけるアンコが口いっぱいに広がっていく。
不満なんてありえない満足感。酩酊する僕の味覚中枢は、まだ口の中に残されている若干の甘みのニュアンスに酔いしれる。
「……水まんじゅう、おいしかったです。試食させていただいて、ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございます。わざわざ足を運んでいただいて……。まさか、本当に来てくださるとは思いませんでした」
僕がサボり魔だと知っているのなら、そう思うのも仕方がないことだ。
つい先日、僕は偶然にも酣酔楽さんと会ったことがある。そしてそこで、少しばかり益体のない話をしているうちに、新しい和菓子の試食を頼まれたのだ。
その時はとくに断る理由もないので、僕は二つ返事で承諾したのだけれど。
「実は時々、たーくんから和菓子のお裾分けをいただいてたんです。それで近々にもご挨拶に伺おうと思っていたのですが、今日はちょうどいい機会になりました」
それに正直な話、この茶室は、青空を眺めるのと同じくらいの平穏を僕にもたらしてくれる。
まるで森林浴だ。呼吸するだけで心が洗われていく感覚に、不毛な雑念はありえない。
「ああ、そうでしたか。あの、もしお口に合わない物がありましたら、すみません」
「いえ、とんでもない。本当、どれもおいしかったです。きっと、酣酔楽さんのそばにいられる方は果報者ですね」
なんだか、お見合いみたいな会釈の繰り返し。うん、自分で言って恥ずかしいと感じるのは、一体どうしたことだろう。
なんて、バカな考えはすぐに振り払う。思わぬ横槍が入る前に、茶道部で見なれない幽霊部員はそろそろ屋上に戻るべきだ。
「……あの、オワタさん。突然ですが一つ、聞いてもよろしいですか?」
そこで酣酔楽さんが、なぜか改まった口調で僕を見た。
「はい、なんでしょう」
「気に障ったら謝ります。でも、オワタさんはどうして、いつも屋上にいるのですか?」
簡単に予想できたそれは、僕にとってはよく聞かれる当然の質問だった。けれど、彼女の視線は強い。バカと煙は高いところが好き、程度の切り返しでは、とても納得してもらえそうになかった。
いくばくかの沈黙。僕の思考は、虚飾と本音の境界線で揺れ動く。
「そうですね。……ちょっと卑怯ですが、酣酔楽さんは空を見て、一体なにを感じますか?」
「空、ですか?」
不思議そうに首をかしげた彼女は、それでも僕の言葉をすなおに受け止めて思案顔になる。
「えーっと、……高いとか、青いとか、広いとか……。あ、それと、思わず背伸びをしちゃいそうな爽やかなイメージがあります」
それは本心からの答えだったのだろう。うん、と頷く酣酔楽さんは、やっぱり僕には眩しすぎる人だった。
「ええ。きっと、それが普通だと思います。でも僕は、その空を見て『遠い』と感じてしまう類の人間なんですよ」
「遠い、ですか……?」
ますます困惑を深めた様子で、彼女は目を瞬かせた。
「でも、それって当たり前のことですよね? 空が高いのは今も昔も変わりませんし、別に気にすることじゃないと思いますけど……」
「高いということと、遠いということは、まったく別の問題なんです。その根本は、どちらも憧れから始まる感情ではありますけど」
「……私には、どちらも同じように思います」
僕は、口の端に靨を作りながら頷いた。
「その方がいいです。むしろ、僕と同じ感情を抱いてはいけない。あなたが屋上に執心してしまったら、僕の居場所がなくなってしまいますから」
そんな僕と目が合って、酣酔楽さんは少しだけ笑ってくれた。まだ納得はしてないみたいだけど、少なくとも僕が、嘘を言っていないということに満足してくれたのだろう。
だから、後ろめたい僕は心の中で謝罪する。嘘は言わないけれど、かといって肝心の部分も言わないグレーライン。あまり感心できない切り返しは、いつ使っても自責する。
「楽ちゃん、ただいまー」
と、そこで入口の扉が開くと同時に、明るい声が茶室に響いた。だけど、その快活な声の主は僕の顔を見るやいなや、すぐさま意外そうに目を見開かせる。
その心の声を代弁するとたぶん、この人だれだっけ、みたいな感じだろう。
輝くような銀髪は肩まで伸びて切りそろえられ、その隙間からひまわりにも似た瞳が穏やかに映えていた。日頃から着付けには手慣れたものなのか、髪と同じ色をした着物が本当によく似合っている。
「ほし姉さん、おかえりなさい」
彼女こそ、この茶道部の部長を務めるほしさんである。ちなみに、ここで使われる和菓子はすべて、ほしさんと酣酔楽さんの手作りだと言うのだから驚きだ。
才色兼備という言葉は、この二人のためにあるのではないだろうか。
「お邪魔してます」
なるべく粗相のないように、軽く頭を下げる。ほしさんは、ようやく得心いったという様子で晴れた表情を取り戻した。
「オワタさん、お久しぶりです」
彼女はそう言って、酣酔楽さんの隣にすわる。その動作に、なぜだか脳内で再生される、紗蘭、という擬音。二人がこうして横に並ぶと、今まで静謐だった森林浴が、あたかも花畑の静寂に変わったような気がした。
「珍しいですね、オワタさんが茶道部に顔を出すなんて。でも、たまには文芸部にも顔を出してあげてくださいな」
そういえば、ここ最近は文芸部にもめっきり顔を見せなくなっていたな、と思い出す。
「そうですね。近々、顔を出すことにします。―――でも僕が顔を出したら、久しぶりすぎて昼行灯って呼ばれてしまいそうですけどね」
ほしさんがイタズラっぽく苦笑した。
「あら、オワタさんが昼行灯というなら、イメージにはぴったり合うと思いますけど。たしか、昼行灯というのは大石良雄の代名詞じゃなかったでしたっけ?」
「忠臣蔵で有名な人ですね。僕もあの作品は好きですよ。でも、僕と彼とじゃあ、比べることもおこがましいです」
「いえ、そういうことじゃないんです。だって、他人と違っていて当たり前なのが人間でしょう? だったら、比べることには何の意味もありはしないです」
そりゃそうだ。人はそれを個性と呼ぶ。他と同一であることを求めるなら、それは機械に任せればいいことだ。
「それでしたら、僕と彼とには繋がらないと思うのですが……」
「いえ、それが繋がっちゃうんです。もちろん、あくまでもイメージの話ですけど。でも、分からなかったらそれでいいです。あまり口にすると、イメージが台無しになっちゃいそうですから」
そう言って、ほしさんがにっこりと微笑んだ。
一体どういうことだろう。そういえば大石良雄という人は、女好きでも有名だったような気がする。でも僕は、自分で言うのも哀しいけれど、女性にはあまり縁がない。だから、それが僕と彼との共通点にはなりえないはずだ。
―――どこかで聞いたような、咆哮。
……結局、僕はほしさんの言葉の意味を理解することができなかった。でも、彼女の隣では酣酔楽さんも苦笑している。僕のイメージというのは、そんなにおかしなものなのだろうか。
「うーん、僕には難しいです。今度ゆっくりと、屋上で考えてみますよ」
僕が立ち上がると、二人の視線が同時に上がった。
「あら、もうお帰りですか?」
「ええ、お二人の邪魔をするつもりはありませんから。それじゃあ、失礼します」
「お気をつけて」
酣酔楽さんが笑顔で手を振る。僕はそれに頷きかえして、ほしさんに会釈した。彼女もまた、笑顔で手を振ってくれた。
僕は、なんだか優しい気持ちになって茶道部を後にする。その途端、茶室から凄まじい破砕音が聞こえてきたけど、たぶんいつものことだろうから気にしない。
「……間一髪、間に合ってよかった……」
誰にも言えない本音をぽろり。二人のナイチンゲールに看てもらうのも悪くはないけど、それ以上に同じオチで何度も締めくくられたら、僕の体がもたないのだ。
それに何より。やっぱり最後は笑い合って幕が下りるほうが、僕は一番好きだったりする。
とうとう、四つ目になりました、オワタ式です。
酣酔楽さん、ほしさん、本当にすみませんでした!
でも、今まで書いてきた中では、わりとこれが一番好きだったりします。
ほんわかとした、またーり系を書いてみたいというのがちょっとした野望でしたので、今回はそれを実現できたかな、といった感じです。
いかがだったでしょうか。
この話を境に、投稿にはしばらくの間が空くと思いますが、また見かけたらお暇つぶしにでも読んでやってください。
ありがとうございました。