risk
書き手:オワタ式
なんとも言えない空腹の倦怠感。しかも今日はどしゃ降りの雨で、屋上にも逃げられない始末。自分の無計画くさに苛立ちながら、僕は仕方なく学生食堂に足を向けていた。
その理由は単純明快。たんに僕が今朝、朝一の授業に間に合うかどうかの瀬戸際で起床しただけのこと。おかげで弁当どころか、朝食だってまともに摂っていなかったりする。
「……お腹すいた……」
というのも実は昨日、図書室で借りた小説の話が佳境に入ってなかなか寝付けられず、ついつい読みふけってしまったのだ。いつの間にか机に突っ伏して寝ていたことにも気づかず、小鳥の軽快な鳴き声に起こされた時刻が午前八時ジャスト。どんな悪魔も一気に目覚める風雲に、僕は慌ててアパートを飛び出した。
結果から言えば、授業には間に合った。だけど、安堵したその瞬間から、空腹を訴えるお腹の虫が泣きだし始めたのである。そのせいで授業の内容も右から左。本末転倒とはまさにこのことだ。
「はぁ……僕は一体なにをしてるんだ……」
とはいえ、背に腹は代えられない。午後の授業もまた同じ失態を繰りかえすなら、たとえ手痛い出費になってもきちんと食事を取るべきだ。
そうして取り出したブタさんの小銭入れ。空疎な手応えの中身はワンコイン。僕は頭を抱えた。
「今日のタイムセールを考えたら、どうしても三百円は残したい……。でも、僕はかけうどんだけで、これからを乗り切れるのか……?」
供給源のない僕の体はメルトダウン寸前。呟く言葉はセミの抜け殻のように、輪郭さえも失って落ちていく。
僕はいつも以上に、空腹と残高の葛藤に悩んでいた。敵対心をむきだしにして喉を鳴らす食欲旺盛な悪魔と、今晩の献立を守り抜こうとする理性の貧乏天使。どっちも敵に思えてしまう僕の思考は、とっくに断末魔を上げている。
「いや、ダメだ。今日は心を鬼にしてかけうどんにしないと、ただでさえ困窮している生活がさらにヒドイ有り様になる……」
そうと決めたら、あとはできるだけ考えないようにするだけだ。少しでもランチ定食のことを考えたら、僕はすぐに誘惑されてしまいそうになるから。
頭の中で呪文のように繰り返す『かけうどん』という単語。これじゃまるで稚拙な暗示のようだけれど、あいにくと否定できない自分がいるので口を噤むしかない。
「やっと、着いた……」
学生食堂は、この那楼大学に通う学生たちにとっては貴重な生命線である。安い、早い、多い。この三点を重視したメニューの数々は、しかし数年前から、その味付けにも変化が加わって旨いと評判になっている。
食堂にただよう独特の喧騒は、まるでコンサートホールだ。鼻腔をくすぐる食材の香りが、あたかも選び抜かれた編成にしたがって協奏する楽器の音色のように脳髄を刺激する。その手前には、友人たちで卓を囲む学生たちの賑わいが歓声のように入り乱れていた。
「なんて、何でもかんでも創作するのはよくないな。それより、かけうどんかけうどん」
厨房の手前で順番待ちをしている学生たち。僕はその列の最後尾に加わって、自分の番が回ってくるのを静かに待つ。
「はい、次の人ー」
「すみません。かけうど―――」
待ちに待ち続けて十分ほど。ようやく回ってきた順番に安堵しながら、僕はかけうどん、と言おうとして目を見張った。なぜかというと。
「って、イソさんじゃないか」
「あ、オワタさん。お久しぶりーっす」
厨房で学生たちの注文を受け付けていたのが、文芸部の仲間の一人だったから。
彼の名前はイソ。野性味のあふれる精悍な顔立ちに、体操選手さながらの体格が印象的な、僕と同い年。たぶん、文芸部でもトップクラスの運動能力を持っていると思う。
「イソさん、どうして厨房にいるんですか?」
「あれ、言ってませんでしたっけ? 俺、ここでバイトしてるんですよ。ほら、働かざるもの食うべからずって言うでしょ?」
そういえば彼は、手先の器用さが求められる料理や裁縫などが得意だったっけ。こうした人は集中力が高く、真面目な人が多いと聞いたことがある。
いつでもどこでも気負いのない自然体。その厚い胸板の前で腕を組む姿には、どっしりと腰を据えた安定感があった。
もしかすると。食堂の味が変わったって言うのも、ひとえに彼の参入があったからなのかもしれない。
「大変ですね、これだけの人数を毎日さばくなんて」
「まあ、慣れですよ、慣れ。体力には自信がありますからね、任せてください」
そこで一拍を置いて、彼は言葉を続けた。
「でも、珍しいですね。オワタさんが食堂にくるなんて」
「まあ、色々とありまして……。イソさん、かけうどん貰えますか?」
「それだけでいいんですか? ちゃんと食べないと、体に毒ですよ?」
「ええ、まあ。今日はあんまりお腹が空いてなくて……」
その瞬間、ぐぎゅるるるる、と猛反発する本能の悪魔。学生たちの視線が一斉に僕へと突き刺さる。
「……本当はお腹、空いてるんじゃないですか?」
「うぅ、すみません……。実はお金がなくて、かけうどんしか頼めないんです……」
どう言い繕っても、それが現行犯なら素直に白状するしかない。昼食をとるか夕食をとるか。生活臭が染みついた思考の狭間で、僕の貧乏性が露呈する。
「はぁ、……分かりました。ちょっと待っててください」
そう言って、イソさんは厨房の奥へと踵を返した。しばらくすると、こんもりと盛り上がる炒飯を乗せた銀のトレーを片手に戻ってくる。そしてそこに、注文したかけうどんを乗せて僕に手渡した。
「え、これって……」
「どぞ、受け取ってください。俺のまかない分ですけど、それなりに旨いと思いますから」
僕は立ち尽くしていた。驚いた、それ以上に嬉しくて、なかなか言葉が出てこないのだ。
「あ、でも、イソさんの分が……」
「いいんですよ、同じ部の仲間じゃないですか。困った時はお互い様。そうでしょ、オワタさん」
イソさんは親指を立てて、さわやかな笑顔を向ける。僕は改めて頭を下げた。
「すみません、イソさん。ありがたくいただきます」
唯一のワンコイン。注文したかけうどん分の代金が差し引かれ、複数の小銭になって戻ってきた。
「それじゃあ」
「ええ、それじゃあ」
挨拶を交わし、僕は列の出口へと向き直る。ちょうど入口の反対側に着くと、すぐ目の前に空いている席を発見した。
今日はここで食べよう。僕は平穏に過ごしたい。青空に照らされた屋上は、僕に平穏を与えてくれる。だけど、今日はそれが叶わない。それならせめて、静かな場所に身を置けば、平穏に近づくことはできると思うから。
トレーを卓上に、椅子を引いて腰かける。手と手のしわを合わせていただきます。
まずはかけうどん。お汁を一口、うん、おいしい。トレーの箸を手に取り、麺をつかむ。今日で初めての食事、僕は思わず頬を緩ませ―――た、その瞬間に轟音が響く。
「な、なんだ……?」
正体は分からない。聞こえてくるのは車輪の咆哮と、肉食の唸りを想起するエンジン音。
大気を震撼させる駆動の息づかいが風を切り裂くなら、解き放たれたスロットルよりもなおけたたましい大音声は、一体だれのものなのか。
「ひ、一人しか思い浮かばない……」
平穏に過ごすためには確かめたくないけど、それでも放置しておくには精神衛生的にひどく悪い。必然、僕はイヤな予感しかない音のする方へ振り返る。
と、窓がブチ破られるのはほぼ同時だった。そしてそのまま、僕の頭上になにか、巨大な長方形をした鉄の塊が落ちてくる。
「な―――ッ!?」
そんなもの、避けるどころか反応することだって難しい。海の中でイルカに直面したような体感速度。飛び跳ねた鋼鉄の躍動は、容赦なく僕を押しつぶそうとして真上に着地する。
「ハァーッハッハッハッハッハ! 俺の飯はどこだー!」
床に頭をしこたま打ちつける。けれど、直前に仰け反ったことで辛うじて、バイクの直撃だけは免れることができた。
「な、な、な、何をやってるんですか! 工場長さん!」
さらに、何かが僕の顔に覆いかぶさった。熱い液体、白く長い固形物。手に持っていたかけうどんが、直下の僕にそのまま落ちてきたのだろう。
もう、どうにでもしてほしい。
「おお、イソさん! さっそく俺のランチ定食を作ってくれ!」
「って、その前に言うことがあるでしょう! だいたい、こんなにブッ壊しちゃってどうするんですか!」
「……また、つまらぬ壁を壊してしまった……」
「つまらなくねーよ! つか壁じゃなくて窓だから! もう大惨事もいいとこだよ!」
「嵐を呼ぶ男、見参ッ!」
「時代の旋風をここで巻き起こさないでください!」
ああ、意識が遠のく。周囲の雑音が耳に入っても、それを認識することができない。せめて痛みがないことが、不幸中の幸いなのかもしれなかった。
「ハッハッハ。イソくん、そうカリカリするな。手先が器用なのは良いことだが、万事で細かい事にこだわっていると、そのうちカルシウムが足りなくなるぞ?」
「細かくない! どこをどう見たって被害甚大じゃないですか! 早く直してくださいよ!」
「えー、俺は昼食を食べにきただけなのに……」
「それはこっちの台詞です! なんでご飯を食べにきただけで窓を破壊されなくちゃいけないんですか!」
「常識の壁を、ブチ破れ!」
「だから壁じゃないから!」
はるか遠い意識の外から、見知った誰かの叫び声が聞こえて遠ざかっていく。それが僕の意識の限界なのか、それとも相手との距離なのかは分からない。
でも、ただ一つだけ言えることがある。
「……食べ物は、粗末にしちゃいけない、ぞ……」
というか、ぐうの音も出せない意気消沈。このまま意識も消沈してしまいかねないけど、もう抵抗する気力も体力も底を尽きてしまったので潔く諦める。
「んー、ここは形勢不利か。じゃあ、そゆことで」
「何しにきたんだよアンタは!? つか、窓を直せぇ!」
なんだか眠くなってきた。これが僕たちの日常だから、抵抗するよりも先に耐性が身についてしまうのだ。
「……これが永眠になりませんように……」
忘れ物は、時として命取りになる。何も考えないように思考する矛盾。視界は黒一色。なんだか僕は、いつも正しく間違えているような気がする。
けれど、そんな憂鬱も思慮の外。疲れた体はそのまますぐに、深い眠りへと落ちていった。
あとがきは懺悔の場。
イソさん、工場長さん、本当にすみません!
この作品は僕の脚色でできておりますので、実際の皆さんとは違います。はい、それだけは過去作品にもこれからの作品にも言えることですので、先立って謝罪のほどを。
というか、なんだか最近、終わり方が強引なような気がする……。