dusk
書き手:オワタ式
「はぁ……落ち着くわ……」
桜の季節もとうにすぎて、五月晴れに恵まれた放課後の屋上。カー、と鳴くカラスの行方を見上げながら、銀雪さんはそう呟いた。
「いやホント、ごめんねオワタさん。突然、かくまって、なんて言ったりして。でも、おかげで助かったよ」
「別に、銀雪さんのためじゃありませんから」
僕は持参した水筒のふたを取り外し、麦茶を注ぐ。まだ五月だっていうのに、今日の最高気温は三十度ちかくになるそうだ。いくら日陰に身を寄せているとはいえ、その暑さはじっとしているだけでもむず痒い。
「よかったら、どうぞ」
「あ、いいんすか?」
意外そうに銀雪さんが振り返る。その額には、すでに少量の汗がにじみ出ていた。きっと、今まで走っていたせいだろう。
「いらなければ、僕が飲むだけです」
「ああ、いえいえいえ、いただきますいただきます。ちょうど喉が渇いてたんですよ」
受け取るやいなや、彼はあっという間に麦茶を飲み尽くした。ふう、と一息。
「ありがとう、オワタさん」
「どういたしまして」
手渡されたふたを取り付ける。僕は水筒をかばんになおしてから床に寝そべった。同時に、銀雪さんも同じように体を仰向けにする。どうやら、相当つかれているようだった。
「風、気持ちいいっすねー」
「そうですね」
「あ、麦茶おいしかったです」
「そうですか」
「いつも持参されてるんですか?」
「暑い日だけですが」
「お弁当とかも、作ったり?」
「そうですね」
「すごいなー。俺にはとても真似できないや」
「………………」
しばしの沈黙。咳払いをした銀雪さんが起き上がり、僕の顔を窺うようにして振り返った。
「……あの、もしかして俺、お邪魔してます?」
「ドラクエでセーブデータが消えた時ぐらいに邪魔ですね」
「うわっ、なんか共感できるのに胸が痛くなるのはなんでだろう!」
「じゃあ、洞窟で使おうとしたリレミトが、不思議な力でかき消された時ぐらいにしておきます」
「共感できてさらに落ち込む自分がイヤだ! せめてもう一声! もう一声おねがいします!」
「パパスが死んだ時」
「ぬわーーーーっっ! やーらーれーたー! って違ぁぁぁぁう! それ泣き所! つかむしろ、ストーリーのメインですから!」
「まさかのノリツッコミ」
「させたのはお前じゃねえかぁぁぁぁ!」
陽射しに溶けてこだまする、銀雪さん魂の叫び。はぁ、と肩を落として横になる。
「ここでも玩具にされるのか、俺は……」
「でも、さすがは銀雪さんです。数々のボケにことごとくツッコんできた腕前は、伊達じゃありませんね」
「まあ、普段のあのメンバーが魅力的すぎますからね。これぐらいなら、へっちゃらです」
「頭カラッポの方が、夢を詰め込めるってことですね、分かります」
「地球のみんな! 俺に元気を分けてくれマジで!」
「だが断る」
「お前が代表者かよッ!?」
そうして溜息。そろそろ疲れてきたようなので、軽いボケを提供するのも取り止める。
「よかった。元気がないようでしたので、癇にさわったらすみません」
「あ、そういうことなんだ。そっか、もう安堵することもフラグかと思ったよ」
銀雪さんは上半身を起こす。何気なく視線を向けた先に、彼の横顔が目に映った。
クセがかった艶やかな髪。筆の穂先がのこす匠の筆勢のような眉も、切れ長に映える力強い瞳も、鋭角をたどる輪郭のうちに整っている。
一目で分かる文句のつけようもない顔立ちをした彼は、名前を銀雪という。文芸部に所属する二回生。その気さくな人柄から仲間の信頼も厚く、まあ、いろんな意味で合掌したくなる人である。
そんな彼が、普段あまり来ることのない屋上へと腰を落ち着けているのにはワケがある。彼は逃亡者だ。ゆえに、追跡者から難を逃れるために辿り着いたのが、僕のいる屋上らしかった。
とはいえ、その、猫耳と刃物を手に持つ二人の追跡者は今現在、僕の偽情報に惑わされて別の場所に去っているのだけれど。
「しっかし、ホント気持ちいいですねー、ここ。オワタさんが気に入るのも分かります」
「さすがに一年中、とまではいきませんけどね。季節や天候の影響をもろに受けますから、ここに僕がいない時はまず見つかりません」
「じゃあ、今日は運が良かったんだ」
「晴れている日は、たいてい屋上にいますよ」
「やっぱり、読書かなにかを?」
「ええ、ほとんど図書室から借りた物ですが。なかなか面白いです」
「ちなみに、今はどんな本を読んでるんですか?」
「略奪紳士 〜昼下がりのインターホン〜」
「俺はツッコまない! 俺はツッコまないぞ! ちゃんと学習してるんだ!」
「積極的なネガティブですね」
「あのメンバーの中にいると、たまに自分で言っていて何を言ってるのか分からない時があるから……」
そこまで言って、銀雪さんは脱力した。
「はぁ、もういいや。俺に安息っていう言葉がないということが分かったから」
「でもそれは逆に言えば、銀雪さんが一人じゃないってことです。大勢の仲間に囲まれて、困った時には誰もが手を取り合える位置にいるんですよ。あなたは、文芸部のみんなから必要とされているのですから」
銀雪さんが振り返った。僕はかまわず言葉を続ける。
「だから、あなたがいるべき場所はここじゃありません。迷いがある人は空を見上げて過去を視る。けれど、今の銀雪さんの迷いは、決して過去を振り返るものではないはずです」
彼は押し黙った。僕はにこりと微笑み返す。
「また、骨休めにはいらしてください。たまには現在を見下ろすのもいいものです。その時には、またお茶をご馳走しますよ」
「もしかすると、もう来ないかもしれませんよ?」
「現在が充実している、それは最高の幸せです。他の誰でもない、あなただけのカタチでしょうから」
彼は肩をすくめた。しばしの逡巡を経て、向き直る。
「オワタさん、カッコつけすぎじゃないですか? ちょっと古いですよ、今の台詞」
「ああ、やっぱりそう思いますか? 次の小説の決め台詞にしようと思っていたのですが……」
「もうちょっとシンプルな物がいいですね。それじゃあ、曖昧すぎて人には伝わりにくいと思います」
「そうですか。……では、もうしばらく考えてみようと思います」
「ええ、そうした方がいいと思います」
そう言って、彼はおもむろに立ち上がった。
「じゃあ、俺はここで失礼します。そろそろ文芸部にも顔を出さないと」
「はい。行ってらっしゃい」
日陰の角。そこで唐突に、銀雪さんが立ち止まった。
「次の作品ができたら、今度みせてくださいね」
「もしかすると、完成しないかもしれませんよ?」
「そしたら、また俺がここにくるだけです」
人は空を見上げて過去を視る。現在という思い出は、間違いなく未来の僕たちにとっての過去だった。
「これは一本とられました。降参です」
「それじゃあ」
「ええ、それじゃあ」
さよなら、ではなく。
また、でもなかった。
未来は無限に分かれている。だから、僕たちの挨拶に予告はいらない。そんなことをしなくたって、出会う時は出会うものだから。
銀雪さんの背中が消えた。残された僕はひとり、カー、と鳴くカラスの行方を見上げて溜息をつく。
黄昏色のお日様は、少しずつ傾こうとしていた。
本ッ当にすみません!
もう銀雪さまには顔向けできない……。
もう、なんていうか、本当にごめんなさいでした!