悪魔の樹
石を手に、ゆっくり大きく息を吸った。
目を閉じて、ただ祈る。
マルバスが回復することを。
じんわりと石を持つ手が温かくなる。石の変化に驚いて、両手の中を覗くと、石はほんのりと淡く発光しはじめている。祈る想いが増すほど、光は増す。
あたりが、少し見える。この谷は、瓦礫でできている。川が流れている気配はない。
枯れ果てた、そんな印象だ。
左手に石を持ち、右手は獣に戻ったマルバスの傷口に当てる。ジワジワと何かを放っている感触がある。
マンバがアガリアレプトを癒したあの時の感覚が、甦る。
私にもこの石が使えるのだと、初めて確信する。
バアルに使った時は、無我夢中で、よくわからなかった。
「ウゥゥ……」
獣の咆哮をひとつ。マルバスの体は薄く膜が張ったように光りだす。体がだんだんと人形に変わっていく。深く刻まれた眉間の皺が、ゆっくりと解け、苦しそうな表情は次第に弛んでいく。
「マリア様……ああ、本当にあなたは……」
私の手をとって、マルバスは目を細める。
「なんて神々しいんだ……光り輝いている……」
マルバスの目に、涙が溢れる。満足そうな顔で笑みを浮かべた。マルバスは私の手にそっと掌を当てたまま、眠りにつく。寒々しいこの空間が、暖かい光に満ちる。
重ねた手をそっと引き抜いて、彼の額に手を当てる。
穏やかな呼吸で上下する胸を見て、一息つく。
まだ発光している石を掲げて、辺りを見回した。
荒涼としたここから、どう脱すればいいのだろう。右の後方に何か大きな石ではない何かを見つける。
恐る恐る、近づくと、それは樹のように見えた。
かなりの大樹で、それは完全に枯れ果てていた。
ガサガサの樹肌に触れる。
すると、石が呼応して、ひときわ強く光りだす。
「え、なにこれ」
スポンジが水を吸い上げるように、その樹は光を飲み込んでいく。怖くなって、後ずさる。
枯渇していたはずの樹は、触れた部分だけ生木の瑞々しさを取り戻している。
「……これが……悪魔の樹?」
だとしたら、これを復活させるのはまずい。本能的な恐怖から、私はその場からできるだけ逃れようとするけれど、足が全く動かない。まるで、その場に貼り付けられたようだ。
「……どうすれば」
悪魔の樹の全貌を見ようと、光をできるだけ高く石を掲げた。
そして、驚く。
枯れた木の上に、呼応するように、薄紅の淡い光を放つものがあった。
「……まさか。待って、違うはず……きっと」
あれがもし、これと同じ石だとすれば……、私があの樹の上まで登って降りてこないとあの石を取ることはできない。そして、あの石がもし私のものだとすれば、私はここに召喚されたということになる。
……誰も立ち入れないここで、私が召喚されたなら、いったい誰が私をあの城まで連れて行ったのだろう。
点と点が繋がらない。
混乱でなにも考えられなくなっている。
ただ、わかることは、このままこの枯渇した樹に登れば、きっと崩れてしまうだろうということ。
もしあの高さまで登れたとしても、崩れて落ちてしまえばあの石も無事かはわからない。
マルバスの回復を待ったとしても、答えは同じだろう。
そして、このツルが伸び、高くまで枝を張り出しているこの樹を再生させれば、もしかしてこの瓦礫の谷底から、這い上がれるかもしれない。
最悪、この手に石を取り戻せる。
けれど、伝説が真実なら、悪魔がこれからここで増殖することになる。
「どうしよう……どうすればいい?」
どうせいま動けない私にできるととは、この石でこの樹を再生させることだけしかない。
このまま朽ちるか、この樹を復活させて諸刃の剣の活路を見出すか……。
なにが正しいのか、わからない。
もしこのまま、この世界に悪魔が増えたら?
ルシファーは眠りについていて、バアルはまだ幼い。
私がここで朽ちた方が、まだ幾分時間を稼げるのかもしれない。
でも、そうすると、私を守ってここまでついてきてくれたマルバスは……?
「……誰も欠けさせないって、決めたんだった!」
頭の中のモヤモヤを吹き飛ばすように叫んでから、私は覚悟を決めて、樹肌に手をついた。