マルバスの想い
地鳴りと同時に切り立った岩に亀裂が入る。
マルバスの足元がぐっと歪む。獣の体が、機敏な動作でバランスをとる。
足元の岩は砕け、ガタッと下降する。だが、何かに引っかかったのか、絶妙なバランスで落下を免れている。
この下は考えたくもないけれど、真っ暗な谷底が待ち構えている。
「マリア様!」
「マリア、モートル!」
みんなが崩れた岩の端から覗き込んでいる。上から手を伸ばして、私たちを掬い上げようとしている。
「マリア様、早くみんなのところに跳び移ってください」
「……何言ってるの、マルバスが跳んで」
「……跳んだ瞬間に、この岩ごと落ちます。ギリギリのバランスです」
たてがみを掴む指先に感触がない。冷たく冷えきって、飛んだところでうまくいくとも思えない。
ラーラの体が、ゆらゆらと光を放ち始める。
「だめ! ラーラ! ドラゴンにはならないで! 見つかっちゃう!」
バアルの命が危険に晒されるようなことは、絶対に避けたい。
「……モートル、行きなさい」
「なっ」
「やだよ!」
「うるさい! 体重の軽い順よ! いい、モートル、何があっても必ず人間の村に行くのよ。……そこで会いましょう」
「ま、マリア……」
「さぁ!」
モートルの尻を押し上げて、みんなの手が、モートルの手を掴む。ぐっと引き上げられ、モートルの足が離れた瞬間、ガタっと大きな音がした。
「マリア様!! 捕まって!!」
マルバスの声を聞き終えるかどうかの瞬間に、強烈な浮遊感が襲ってくる。マルバスの体は真下へと滑降する岩の上で、超絶技巧でバランスをとる。山肌にぶち当たり、岩が砕ける。岩から岩に跳び移るが、崩れた岩がマルバスの視界を遮る。
「……くっ」
低い呻きがして、捕まったたてがみ越しにはりつめるのを感じた。硬い体が、岩を避け、山肌を駆け下りる。いや、駆け落ちている。
ギリギリのバランスでなんとかコントロールしているだけで、少しでも間違えば、転がり落ちて潰れてしまうだろう。
振り落とされないようにだけ、意識を集中させる。
どれほど続いたか、マルバスは動かなくなった。
瓦礫のぶつかる音で、鼓膜はおかしくなっているけれど、しがみついた体から、早鐘のような鼓動を感じる。でも、それは自分自身のものかもしれない。
「マルバス……?」
「……マリア様……ご無事ですか?」
荒い呼吸の合間に、マルバスが呼びかける。ぎゅっと抱きついて、その血潮を聞いた。安堵で目を閉じる。
「マルバス、ありがとう」
「……よかった」
瓦礫の上、マルバスも体を地に付けて弛緩する。そっとその体を労わるつもりで撫でる。手のひらが滑り、ハッと気づく。真っ暗で何も見えないけれど、撫でた指先のヌルつきで、マルバスの身体中が傷だらけだと気づく。
「大丈夫なの!? ごめんなさい、マルバス!」
「……マリア様がご無事なら、それで……」
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
避けられるはずの欠片も、私に当たらないようにきっとこの体で受けてくれたんだと気づく。その優しさに涙が溢れた。
「……マルバス……私が魔王の母親だからって……こんなに……」
「マリア様……それは、違う」
マルバスは、ゆっくりと人間に姿を変える。触れていた体が、滑らかな皮膚になる。
「俺は……叶わないと知っていても……あなたが好きなんです」
「……マルバス……」
「身分も違う、あなたはそもそも、ルシファー様の妃……わかってはいます、でも、初めて会った日から……ずっと」
マルバスの冷たい手が、私の手をとる。
「あなたの……どんなときも挫けない心も、優しい気持ちも、バアル様を守る強さも……あなたが、ここに転生する前に会いたかった。ーーーーあっちの世界なら、身分なんて、ないんでしょう?」
マルバスの手が、小刻みに震えている。その真摯な言葉に、私もマルバスの手を握りかえす。
「……向こうの私なんか、全然冴えないんだよ。外見だって、地味だし。恋なんかしたことなかった」
「……だったら、俺が初めての恋の相手になれたかもしれない」
「何言ってるの」
ふふふ、と笑うと、マルバスの指先に力が入る。
「笑わないで。外見なんて、今更関係ないんです……あなたの運命が、俺のものだったらよかった。魔王になりたいなんて、そんな大それたこと、今まで思ったことはなかったけれど……あなたが一緒にいてくれるなら……魔王になりたかった」
マルバスが私の手を引き寄せて、その頬に触れさせたのがわかった。そして、その目からこぼれ落ちる涙を感じて、思わずその体を抱き寄せた。
「ごめんなさい、マルバス。……大好きよ」
万感の想いを込めたその言葉で、マルバスは私の手を離した。
「残酷だなぁ。俺が言った同じ言葉でも、全然違うって、すぐにわかる」
マルバスは小さくため息をついてから、そっと体を丸めてもう一度獅子の姿に戻った。
「少しだけ、眠らせてください……きっと傷も回復します」
そうとだけ言って、マルバスは沈黙した。
遠く高く、はるか頭上に光が見える。この垂直の谷間から、這い上がることはととてもできない。
光も届かない谷底に、生きて降りれたとはいえ、ここからどうやって村に辿りつけるのか。そもそも、食べ物すらない。
闇にだんだんと目が慣れてくる。
それでも、辺りに何があるのかはわからなかった。
手探りで自分の周囲を確認していると、布に包んだ石が見つかる。ホッとして抱き寄せた。
力を増幅するこの石が、何か役に立たないか考える。
そもそも、アガリアレプトを治したのも石だった……。
私もこの石が使えるはずなんだから、もしかすればマルバスの傷をこれで治せるかもしれない。
回復すれば、バアルにしたように、魔力を増幅して……この谷からなんとか這い上がればいい。
私は大きく息を吸って、石に手を当てた。
そして、今までで一番、強く強く、絶対に誰がかけることなく、生きるんだと誓った。




