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宰相・大悪魔 アザゼル

 ドッドッと心音だけが大きく響く。目の前で繰り広げられる風景が、まるで漫画かなにかのようで自分の身の上に起こっているとはとても思えなかった。大きな手が私の顎をそっと持ち上げた

 そのとき、大きな影が差した。


「あ、アザゼル様! こ、これは」

「……散れ、マルバス」


 そこにいたのは、私たちを冷たい目で見下ろすアザゼルだった。アザゼルが右手を真横に振ると、マルバスは跡形もなく消えてしまう。


「マ、マルバス! マルバスはどこに!?」

「反省させるために、少し遠くに飛ばしただけです。それより……発情期ですか」


 アザゼルは私を引き起こして、ぐっと抱き寄せた。


「ケダモノのようで悪くない。ただ、ルシファー様のお許しなしに傷物になられるのは困ります。あなたはこの世界の供物でもある」

「く……もつ?」

「そう、この世界のための捧げ物。重要な生贄(サクリファイス)ですよ」


 アザゼルの目が、ひときわの赤を放つ。目がくらんだ次の瞬間、私の総レースの黒いドレスはビリビリに破けた。豪奢(ごうしゃ)なドレスは、ただの布切れになってしまった。急に全裸になった自分の体に驚いて、しゃがみこんで、とっさに丸くなる。


「な! なにすんのよ! 変態!」

「その匂い、甘ったるく鼻につきます。それが母乳というのですか?」


 アザゼルは、彫刻のような美しい顔を近づけて、スンと鼻を鳴らす。身を固くした私を嘲笑うように、むき出しの肩を指先で弾いた。


「お召し替えを。クィーン。あなたに何かあっては、私の宰相としての名に傷がつきます。魔王のご帰還まではまだしばらくかかるでしょう。隣国は最大の敵。今度の勇者はかなりの強者と聞く。今回の侵攻には、まだしばらく時間もかかりましょう……」

「しん……こう? 戦争なんか、してんの……」

「えぇ、ここ百年は戦続きでしてね。ルシファー様もお気の毒に。先日の低空の赤い月の出現が何を意味するのかは周知の事実。ーーーー新妻が待っているのはご存知でしょうに」


 そのいやらしい視線に耐えかねて、私は目をそらせた。


「まぁ、一人寝がお寂しい時は、お声掛けを。ーーーー私なら支障のない範囲で、お慰めすることもできましょう」

 くすくすと笑いながら、長すぎる舌で私に触れた指先を思わせぶりに舐めあげる。カッとして、手元にあったシルクの黒いハイヒールを思い切りアザゼルに投げつける。


「馬鹿にするな!」


 アザゼルはその声を聞くか聞かないかで煙のように消えてしまう。

 私はカッカと火照る頬を両手で抑えた。あまりに悔しくて、腹が立ってたまらない。


 別に処女を守りたくて守ってたわけじゃない。

 この人ならと思える人に出会えなかっただけだ。

 途中からは、確かにちょっと意地になったところもあるけれど、悪魔に差し出すために大事にしてきたわけなじゃない。

 よくわからないまま、子どもまで生んでしまったけれど、それでも、私は誰も知らない。

 愛し合う誰かに触れて、安堵してその腕で迎える朝も知らない。なのに、このままあの異形の魔王にどうにかされてしまうのだろうか。

 壁にかかった肖像画が、怖くて怖くてたまらない。残されたもう一方のハイヒールを力なく投げつけたけれど、壁にすら届かないで虚しく落ちた。


「うぅ……」


 冷え切った肩が震えだす。急に寒く感じて、ベッドに潜りこもうと体をひねった。そこには大きな姿見があって、自分ではない自分が写っている。

 均整のとれた、真っ白でシミひとつない美しい華奢な体。小さな卵型の顔の中に、大きな青い瞳と小高い鼻、ぷっくりとしたバラ色の唇が絶妙な配置で収まっている。


「もうダイエットなんて、悩まなくていいんだ」


 笑ったはずなのに、笑えていない。どうしてなのかあの不恰好な自分が懐かしくてたまらない。笑った時にちょっと出る八重歯も、細くなる目ももうなかった。つまめるお腹も、すぐむくむ脚もいまはない。


「帰りたい……」


 別に最高の人生じゃなかった。仕事はキツかったけど、家族もいたし、少ないけれど友達だっていた。

 好きなテレビも漫画も小説だってあったのに。

 思わず泣き出しそうになって、ベッドに潜り込むことにした。そこには、すっかり安心した顔でスヤスヤと眠っているバアルがいた。


「……バアル」


 バアルを抱き寄せて、いっしょにブランケットの下に潜り込むと不思議と心が穏やかになっていく。ささくれ立った心が、じんわりと温かい何かに満たされていく。

 車に乗ってからの自分をどうしても思い出すことができない。戻りたいと喚いても、戻れる気がしない。ここが死後の世界なのかもしれない。


「だったら、おじいちゃんやおばあちゃんに会えるかもしれないし。いつかみんなにも会えるかもしれないよねぇ」


 口に出すとホッとして、少し笑ってから、もう一度ぎゅっとバアルを抱きしめた。


「私、生贄だって……」


 柔らかなバアルの頬にぴったりと冷たくなってしまった自分の頬を寄せた。


「そしたら、あんたはどうなんの? あの悪魔達に育てられるってこと?」


 不味そうな食事に、汚い厨房。小馬鹿にしたようなアザゼルの顔。


「ーーーー絶対、生贄なんかなってやんない」


 あのアザゼルの思い通りになるのは、絶対に嫌だった。


「……どんなことしたって、バアルは絶対、私が育てる」


 バアルは、眠りながら額をグリグリと動かして、おっぱいを探している。口元にあてがうと、満足そうに口に含んだ。遊び飲みのような、別に飲む気もない、そんな甘える仕草。ただ咥えているだけで安心するみたいだった。


 この子がこうして、ずっと無邪気に眠っていられるように、魔王が戻って来る前に、私たちはここから逃げなくちゃいけない。


ーーーー出来るだけ、遠く、ここじゃないどこかに。


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