勇者の孤独
地を這うような声で、彼は呻く。
「書きおきの一つもなかった。ーー家の中は空っぽで。……俺は必死にマンバを探した」
手元のグラスを乱暴に床に置いて、呼吸を整えている。その日の衝撃は、彼にとっていつまでも生々しい傷跡なんだろう。
「仕事も辞めて、この世界を探し回った。俺が親方に認めてもらった初めての剣……これを持ってな」
愛おしそうに剣を撫でる。まるで、我が子にするように愛おしそうだ。
「別に初めから剣が使えたわけじゃなかった。金がなくなったら、行った村の鍛治場で手伝って小銭を稼いだ。この世界じゃ、人間も悪魔も人をさらう。情けないだろ、マンバもそうじゃないかって……俺を嫌って、出て行ったんじゃなきゃいいって……思ってた。俺を嫌って出て行った方が、あいつの無事は確実なのに、俺は本当に身勝手で、情けない男だ」
祈るような、取り縋るような、そんな切ない声音だった。
「俺は、取り柄もないし、ひねくれ者だし。マンバが愛想を尽かしたって、仕方ない」
「……そんなこと……」
「こんな力を手に入れたって、俺は何も変わらない。いつだっていなくなったマンバを思う。子供が生まれていれば、今頃何歳だろうとか……寂しくて、悲しくて……」
「で、俺の子を産まないかなんて、言って歩いてるの?」
「……うーん、そうなるかな。だってさ、転生してきて初めに欲しかったチートだぞ!? 俺TUEEEだぞ!?」
どうにも最後まで信用できない男だな、この野郎。
「今までの話、台無しだけど。ていうか、その力って……いつ?」
「ーーえっと。諦めきれなくてこの世界をずっと転々として……確か、探し始めて9ヶ月くらい経った頃だったかな。急に剣技が上手くなって、例の力が使えるようになったんだ」
何を思ったか、勇者はばさっと上着を脱いで、鍛えられた上半身をあらわにした。
「きゃっ! なに!? そういうのはちょっと!!」
「ほら、これ。見てくれよ」
そう言って彼が指差す胸元に、十字のようなマークが浮かんでいた。それは、マンバの鳥居のマークと同じ場所だ。
「これが浮き出てからだ。俺が勇者とか呼ばれるような、そんな力が使えるようになったのは」
「……九ヶ月……。妊娠して、どれくらい経ってたの?」
「そう言われると……予定日当たりだったかもしれないな……この痣……」
「ブリトニが生まれた日に……痣ができたなら……? マンバも魔界に来てから字が浮き出たって……あの石……。アンナも……石を……。あの石……」
何かが引っかかっている。わかりそうで、わからない。何か重要なキーが、まだ欠けているのかもしれない。
ただ、マンバも勇者も、後天的な痣で、それが現れた原因がブリトニの誕生なのだとしたら……。
「あなたが……勇者なんじゃなくて……ブリトニが勇者なんじゃないの……?」
転生した私が、魔王を生んだように。
勇者は、転生した者から、生まれるんじゃないの……?
今までの勇者の話を、調べないと真偽はわからないけれど、私はブリトニを思い浮かべる。
あの聡明で優しいあの子が勇者なら、この世界はきっと安泰だ。
「……嫌だ。子どもは戦わせたくない」
勇者ははっきりと言い切った。その勇者の顔は、まだ見ぬ子なのに、すっかり父親そのもので、たくましく感じた。
「奇遇ね、私もそうよ。あなたの娘と私の息子は、このままだといずれ戦うことになる。それが嫌で、ここにきたの」
そうだ、色々と予定外だったけれど、ここからが本題だ。
呼吸を整え、グラスを床に置く。
しっかりと向き直って、その目をじっと見つめた。
「ーーこの世界をぶっ壊すから、手伝って」