人間と魔族
ゴクリと唾を飲み込むと、チクリとした痛みが走る。
この世界にきて、初めて、ここですべてが終わるかもしれないと思った。
ずっと現実味がなくて、どこかゲームをしているような感覚だった。
こんな冒険をやってみようとしたのも、結局はそういうこと。
だけど、いま、ひりつくようなリアリティが、私を震え上がらせている。
「……バアルの前ではやめて」
「石を、奪いにきたの?」
「あることも知らなかったのに? そんなわけないでしょう!」
「これは、魔族の手にも、勇者の手にも渡せないのよ」
アンナの台詞があまりにも予想外で、私は押し付けられた剃刀のことも忘れて、彼女を振り返る。
「いたっ……!」
薄い皮膚が傷ついて、血が流れる。
アンナは驚いて、傷に手を当てた。
「マンマァ!!!!」
バアルは火がついたように泣き出し、部屋の中の小物が浮き上がる。
「静かにしなさい!!」
アンナがバアルを一喝すると、光が集まってくる。
マンバと同じだった。
思わず、笑ってしまう。
「……なんだ。殺す気なんか……なかったんだ」
「あなた、無茶をしすぎよ!」
怒った顔のアンナが脱力して、椅子にどさっと体を投げ出す。
バアルが飛びついてきて、私はしっかりと抱きとめた。
「ごめんね、怖かったね。怖がらせてごめんね」
バアルの温かさに、心から自分の軽率さを恥じた。この子を抱けなくなるかもしれなかった。今更ながらに恐怖がもう一度押し寄せてきた。
「この石を守るのが私の役目なのよ。もしあなたが持つのが対の石なら、あなたにはあれを砕いてしまう力があるということ……あの石を砕いて誰彼なしに渡されると、この世界の均衡が崩れてしまう……虐殺が起きるわ……」
「私、そんなことしません」
「そうね……あんな状況で振り返るなんて、少なくとも悪巧みする人間じゃないわ」
アンナが笑い出して、釣られて笑う。ひとしきり笑うと、二人してすっかり脱力してしまう。
「勇者にも、渡さないんですか?」
「人間だって、いい質ばかりじゃないもの。どんな人間かも知りもしないのに」
「たしかに」
「でも、いずれ勇者たちはここに来るわ」
「……どうして?」
「この村が一番、魔界に近いからよ。だからここはすぐに戦場になってしまう」
ため息をついてから、アンナは紅茶を入れ始める。
いい香りが乱れた部屋に漂った。
だから、モートルは、村のために戦いたいのかと納得する。
「あー、渋くなっちゃった。ミルクでも入れましょ」
「アンナさん、あなた……」
「ーー私ね、記憶がないのよ」
ドキッとする。
「転生前の記憶はあるんだけどね、転生した後の記憶がなくて……気付いたらこの村で保護されてたわ」
「それって……いつぐらい……?」
「そうね、四、五十年くらいかしら」
「え、アンナさん、年…」
「六十は過ぎてるわよ」
「美魔女ーーー」
いや、そうでなくて。
記憶喪失、石……そして、ここは結界のあの海を越えて魔界から一番近い村……。
「ーーもしかして……アンナさん、あなた出産経験があるんじゃないですか?」
「ど、どうしてそれを……?」
目を見開いたアンナは、私の肩を掴んで何度も揺すった。
「私、妊娠線があるのよ……! 記憶をなくす前には、こんなのなかった……! 私に子どもがいるの!? あなた、何を知っているの!?」
揺さぶられながら、私はこの女性に何から話そうかずっと悩んでいた。
けれど、まず話さなくてはいけないのは、この言葉だろう。
ーーーーあなたは、魔王の母です、と。




