人間の世界
魔界から逃げ伸びて、幾日か経った。
後ろ髪を引かれながら、村を後にして、村人たちがくれた人間界の地図と、預かった手紙を持って、ここ数日は森の中で過ごしている。
路銀もなく、こちらと服も違う。突然、村や街に出て行くわけにはいかなくて、まぁ簡単に言えば山賊待ちだ。
逆追い剥ぎで、こちらの衣類とお金を一気に手に入れようという作戦だった。
早く山賊出てこないかなぁ〜〜とか思っている旅人は、私たち以外そういないだろう。
山賊に出会って、うまくことを運んだとしても、この悪魔たちをどうやって人間の世界に馴染ませるかが、目下の悩みだ。
このツノを隠して、目の色を誤魔化さないと、すぐに悪魔だとバレて大騒ぎになってしまう。
悪魔は変身できるものだとばかり思っていたから、人間に化けるようにいうと「そんな種類もいますけどね」とエリゴールは他人事のように呑気で、うんざりした。
「マルバスは、もうライオンってことで行こう。でもこの目の色……どうしようか」
「まぁ、そういうのが生まれたってことにしとけば?」
「いい加減な……まぁ、でも仕方ないか……。で、エリゴールは、ツノさえ隠せば大丈夫ね。ライオン使いってことで、ターバン巻こう、ターバン。で、ナアマはどうする?」
聞くのと同時に、ナアマはツノも目の色も簡単に変えてみせた。エリゴールと同じ、銀髪に緑の目。姉弟のようで悪くない。
「あ、変身できるんだ?」
「まぁ、私、サキュバスですし」
「さきゅばす……?」
「標的の好みの外見に変えて、誘惑して、精気を吸い取るの」
「あ、エッチなやつ?」
「実際にはしないわよ! 理想の夢、見てもらうだけだからっ!」
プンプン怒っているナアマは、色合いが違うだけで、なんだか怖くない。慣れたつもりだけどやっぱり赤い目は、ちょっとおどろおどろしいのかもしれない。
マルバスやエリゴールは村で狩りをして、食事は悪くない。夜は少し肌寒いけれど、季節は初秋というところか、森の中は過ごしやすい。
今日はマルバスの作った鹿肉のスープを食べて、午後を過ごした。
エリゴールはこの呑気な旅に少し焦れ初めている。
私だって、そうだ。
けれど、この旅の目的は、身を隠すことだとすれば、今のこれはそう間違ってはいないはずだ。ただ、ずっとこうはしていられない。
きっと冬はすぐにこの森にも訪れるだろう。
空には徐々に星が浮かび始める。夜の帳が降りれば、読書の時間の始まりだ。
パチパチと薪がはぜた。
チラチラと揺れる焚き火の火で、私はあの記録を読み始めた。
マルバスが獅子の形で丸まっていて、そのお腹のあたりにバアルが眠っている。ナアマもマルバスにもたれかかって寝息を立てていた。
エリゴールだけが少し離れた木にもたれかかり、眠っているのか、目を閉じているだけなのか、わからない。
ゆらゆらと揺れるオレンジの光の中で、私の文字で書かれた、知らないストーリーを追う。
ーーーー何日か前に、転生とかいう、よくわからないことになったと、悪魔に言われた。
そもそも悪魔なんて、信じられないけど、目は真っ赤だし、ツノはあるし、よくわからない力がある。
私の顔も体も、自分じゃなくなって、意味がわからない。
車に乗って職場に行こうとしていたことまでしか記憶にないから、もしかしたら植物状態とか、そういうことなのかもしれない。
私、変な夢を見ているんだと思う。
でも、それにしては、リアルすぎる。
怖いし、不安だ。
しかも、今日、妊娠しているとアザゼルとかいう女みたいな悪魔に言われた。
嘘だと思う。
だけど、この世界に私がきたのは、子どもを産ませるためらしい。
それが本当なら、私は悪魔を生むということなの?
気持ち悪いし、これが夢なら覚めてほしい。
だけど、もし、本当に本当に、この体に赤ちゃんがいるのなら、私は、今日から日記をつける。
妊娠記録は大事だから。
どんな子どもが生まれてくるのだろう。
コウモリのような、羊のような、そんな子どもなんだろか。
ずっと、気分が悪い。
これはつわりなのか、ただ不安で吐きそうなのか、わからない。
怖い、怖くてたまらないーーーー
不安な気持ちが綴られた私の記録、いや、日記に書かれた感情は日を追うごとにだんだんと変化していく。
ーーーー今日で妊娠していると言われて、一週間ほど経った。
毎日、扉の前に花が一輪、置いていかれる。
魔王が、毎日訪ねてきていると、女の悪魔が言っている。会わないのかと聞かれたので、会うつもりはないと答えた。
色とりどりの花が、花瓶に差されている。
魔王がどんな外見なのか、実はまだ見ていない。
転生してきて、ずっとこの部屋から出ていない。ベッドの下に、魔法陣のような絵が書いてあって、私はここにきて、ここから一歩も外に出ていない。
出るのが怖い。
外はどんな世界なんだろうーーーー
以前の私なら、そう感じたのかもしれない。
記憶を失った私には、気づけばもうバアルがいて、子育てや生き残ることに必死だった。
この時の私は、有り余る時間で、破裂しそうなほど不安を膨らませていた。
どちらかを選べるなら、私は今がいい。
こんな感情を持て余して毎日を過ごすのは、キツすぎる。
「代わりましょう。少し眠ってください」
エリゴールが声をかけてくれて、寝ずの番は交代することになった。
眠れそうにもないけど、私は無理にでも眠ることにした。
その時、草陰で何かの気配がした。




