我が息子、次期魔王・バアル
出産するまで知らなかったことだけど、出産直後は全身筋肉痛になるらしい。
ベッドの中で寝返りを打つのも辛かった。
「うぅ〜〜、なんでこんな目に……。召喚魔法使えんなら、赤ちゃんも魔法で出してよ……」
出産直後は、気絶するように眠ったけれど、一日中寝ていると、さすがにこれ以上は眠れない。妊娠期間がない分、いっそ怪我人のような気分だった。
「……魔王が旦那さんって……」
ちらっと壁を見て憂鬱になる。あの肖像画がもし魔王なら、私の新婚生活は、文字通り地獄だ。
おどろおどろしい羊の頭に黒い翼……燃えるように真っ赤な目がこちらを見ている。
怖くて怖くてたまらない。
あんな怪物の子どもを産んだなんて、信じられない。
ーーーーそれに……正直なところ、処女懐胎なんですけど……。
ちゃんと恋をしたこともないのに、会ったこともない。しかも、悪魔の子どもを出産なんて、あまりにひどい。
涙がじわっと湧いてきた瞬間、ガチャリと扉が開いて、昨日の女悪魔が入ってきた。
「起きてらっしゃったんですか」
「……ノックぐらいしてください」
ムッとした顔を隠そうともしない。
そりゃ悪魔だし……、仕方ないのかもしれないけど。
大きなため息をついて、疲れた顔で悪魔はボソッと呟いた。
「……バアル様、泣きやまないんです」
「……あの子が?」
「全然寝なくて、ずっと泣いてて……ぶっちゃけ、次期魔王でなければ、今ごろくびり殺してます」
なにこの悪魔、ぶっちゃけすぎ〜。
真っ赤な目が光る。その目にビクッとしたけれど、気付けば体を起こしていた。
「連れてきて」
あの子に会いたいと思った。
あんなに怖かったのに、あんな怪物を産んだなんて、信じたくなかったのに、泣いていると聞くと、胸が痛い。
妊娠期間0日で、なんの情もないはずなのに、それでも泣いていると聞けば、抱いてあげたいと思うのは、母の証拠なのか、それとも単に職業病なのか。
「そ、それが……」
*******
膝が笑っている。
どうしても足が閉じられない。
股に何か挟んで歩いているような違和感に、壁に縋りながらガニ股でジリジリと進んでいく。
「手が付けられなくて……」
どうしても連れてこられないと泣きそうになっている悪魔にほだされて、部屋を出たのはよかったけれど、ガニ股のノロノロと歩きじゃ、ぜんぜん前に進まない。
「何をされているのです?」
後ろから、氷のように冷たい声がかけられた。心臓がドキッと跳ねる。
「アザゼル……(だっけ?)」
「今は回復期、寝ていていただけませんと」
ふわっと抱き上げられ、目玉が飛び出しそうになる。
女性のように華奢で、スーパーモデルのようにとっても綺麗な悪魔だけれど、ペンでも持つように持ち上げられて、この生き物が人間じゃないのがよくわかる。
「あの子のところに、連れて行って!」
「……なりません。悪魔は毋親と接する必要はありません。教育は我々悪魔がいたします」
「育てろって、言ったでしょ」
ムッとしたように一瞬だけ眉根を寄せて、アザゼルはすぐに無表情に戻る。
「悪魔として導くということです。ああ、人間は母親がつきっきりで世話して育てるとか。我々悪魔は、徹底した悪魔教育を周囲の者が行うのです」
「いいから、連れて行きなさい!」
思ったよりも大きな声が出て、自分でもびっくりした。
「御意」
あからさまに不愉快そうな顔を、隠そうともしない。
アザゼルはぐんぐん進む。ビクビクした顔で女悪魔が私を見ている。言いつけられないか不安なのだろう。そんなつもりはないと伝えたくて、頷いてみせる。それでも彼女の表情は硬いままだ。
「……お好きに」
部屋の前で降ろされる。
扉を開いて、その惨状に目を見張った。
「こ、これは……」
甲高いガラスを引っ掻くような不愉快な泣き声に、耳を押さえた。
部屋は、嵐でも通り抜けたように荒らされ、ぐちゃぐちゃになっていた。
中央の見事な細工のベビーベッドの真上に浮かび上がった赤ちゃんの周りに、砕けた家具の木片がバリアのように取り巻いて回転している。
「いずれ疲れて泣き止みます」
アザゼルはそう言い放って、呆れたような顔をして腕を組んでいる。
「……かわいそうでしょう! まだ生まれたばかりなんですよ!?」
「甘やかしてはなりません。魔王への道は厳しく険しいのですよ」
「バカバカしい」
私は一歩進み、声をかけた。
「おいで」
高速回転していた木片が、一瞬停止する。
「抱っこしてあげる」
ビュッ!
風邪を切る音がして、木片が一斉にこちらに向かって放たれる。
息をのんだけれど、私の眼前で、木片はピタリと止まった。
「んぎゃ!」
バラバラと木片が床に落ちる。詰めた息を思い切り吸う。その木片を踏んで、少しずつ近づいた。
この子はずっと泣きながら私を呼んでいたんだと思うと、胸が絞られるように痛んだ。
「怖いなんて思ってごめんね」
広げた手の中に、その子はすっと降りてくる。
ぎゅっと抱きしめた瞬間、その温かさに、熱いものがこみ上げる。
角があったって、人間じゃなくったって、この小さな生き物に、これほど必要とされていることに胸が一杯になる。
ーーーーこの子は、私じゃないと、ダメなんだ。
そう思った瞬間、ぐっと何かお腹の底から力が湧き上がる。
悪魔だとか、父親だとか、どうでもいい。
私が保育士として、立派にこの子を育ててみせる。
だって、今の私にできること、それ以外あるのかと自問する。
訳のわかならない世界で突然目覚めて、情けないけれど、何か縋るものが欲しい。
「……この子は、私が育てます」