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伽耶のアジロ  作者: 長緒 鬼無里
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第三話

 俺が朱鷺に会ったのは、この日が最後だった。

 この数ヶ月後、彼女はその短い生涯を閉じたのだ。

 屋敷の庭で花を育てていた彼女は、手入れの最中に負った傷がもとで高熱が続き、あっけなくこの世を去ってしまった。

 早い段階で治療をしていれば助かったかもしれないが、西のはずれの朽ちかけた屋敷に、医師が派遣されることは最後までなかったという。


 朱鷺の死後、ヤマトの大王は早急に彼女の墓造りを命じた。

 伽耶の媛を冷遇した挙句に死なせたことが知れて、吉備の民はもちろん、配下の国々にまで不信感を抱かれることを恐れたのだろう。

 これから各国に築造していくというヤマト式の墓にいち早く彼女を葬り、丁重に扱っていたと世に知らしめるつもりのようだ。


 噂を聞いた俺は、その日の仕事を終えると、すぐさま朱鷺の屋敷を目指して走った。

 草むらを抜け、細い川沿いの道を進めば、葦の向こうに崩れかけた屋根が見えてくる。

 そこからは、朱鷺の明るい声が聞こえてくるはずだ。

 話には聞いていても、俺には朱鷺がもうこの世にいないなんて信じられなかった。

 あんなに若くて、強い心を持つ彼女が死ぬわけがない。

 祈るようにそう思っていた。


「……」


 次の瞬間、目の前に広がった光景に、俺の足は一歩も動かなくなった。

 群生していた葦は一本残らず刈りとられ、その先にあったはずの屋敷は跡形もなく消えていた。

 屋敷が建っていた場所には、真新しい湿った土が盛られ、その周りを取り囲むように、(ほり)らしきものが掘られつつあった。

 否定しようのない現実を突きつけられ、膝を落とした俺は、崩れるように地面に両手をついた。


「ヴァ……!!ヴァ……!!」


 朱鷺の名を叫ぼうとしたが、相変わらず俺の口からは獣のような嗚咽しか出てこなかった。

 こんなことになるのなら、あの日彼女をここから無理にでも連れ出せば良かった。

 土師としての腕さえあれば、二人でひっそりと身を隠しながらでも生きていけたかもしれない。

 俺は、アジロを彫ることも、彼女を守ることもできなくなった役立たずの(こぶし)を、地面に何度も叩きつけて泣いた。


『ありがとう。でも私は、ここから出ていけないんだ』


 そんな俺の中に、あの日、朱鷺が口にした言葉と、悲しげな表情が浮かんできた。

 そうだ。

 自分の立場を誰よりも理解していた彼女は、あの時無理に連れ出そうとしていたとしても、きっと俺の手を振り払っていただろう。

 吉備の民のために。

そう、彼女は誇り高き伽耶の媛君だったのだから。



「あなた様は……」


 その時、背後からか細い女の声がした。

 振り返ると、品の良さそうな老婆が立っていた。


「もしかして、クチナシ殿ですか」


 老婆はそう言って、俺に深く頭を下げた。




「媛様は、最後まで故郷を懐かしく思っておられました」


 聞けば、この老婆は朱鷺の唯一の侍女だったらしい。

 主人が亡くなり、郷へ帰る前にもう一度屋敷跡を見ておこうと、ここにやってきたのだという。

 屋敷があった場所を悲しげに見つめながら、老婆は話を続けた。


「吉備には、クチナシという口のきけない土師がいて、その者の彫るアジロは格別なのだともおっしゃっていました」


「……」


 目を見開いて、振り返った俺の顔を見て、老婆はふふふと小さく笑った。


「その方のお話をされている時の媛様のお顔は本当にお幸せそうで……。きっと、その土師に恋していらっしゃるのだろうと感じておりました」


「……」


「最後の最後にも、熱にうなされながら、何度もおっしゃっておられました。クチナシのアジロがもう一度見たい……と」


 たまりかねた俺は、その場にしゃがみ込み、膝に顔を埋めた。

 そんな俺の肩に、老婆はそっと手を乗せた。


「あなた様はまだお若い。これからもしっかり土師として生きてください。媛様の分も」




 明け方に工房に戻った俺は、その日からあるものを作り始めた。

 日中の仕事を終え、仲間たちが寝静まるのを待って、寝床から静かに抜け出し、月明かりの下で夢中で作業を続けた。


「いったい何を作ってんだ」


 ある夜、物音に目を覚ましたらしく、親方が寝ぼけ(まなこ)をこすりながら、様子を見に来た。


「お前……これ……」


 俺の手にしたものを目にした瞬間、親方は一気に目が覚めたようだった。

 そりゃそうだ。

 こんなものを作っていることを役人に知られたら、親方だけでなく、土師仲間たちも罰せられかねない。

「なんてことをしてやがる」と激しく叱責され、こいつも取り上げられるに違いない。

 覚悟を決めた俺は、固く目を閉じて背筋を伸ばした。


「やはり、お前が彫るアジロは格別だな」


 だがしばらくして、親方が発した言葉は、俺が予想もしていないものだった。

 恐る恐る目を開けると、膝を落として、俺の手に握られたものを懐かしそうに見つめている親方がいた。


「くれぐれも、役人に見つからないように気をつけろよ」


 そう言って立ち上がった親方は、後手に手を振りながら寝床へ戻っていった。





(できた)


 その夜、数ヶ月かけてようやく完成したそいつを、俺は月明かりに照らして見た。

 丸い木の板に、束ねた縄のような文様が、同心円状に連なっている。

 これは、壺台を飾るアジロを、木の板に彫ったものだ。

 遠い昔、自然の恵みを得て暮らしていた人々は、木のつるで模様を編み、同族の印にしたという。

 やがてそれは、彼らの子孫たちに紋章として受け継がれていった。

 そのうちの一つが、この伽耶の文様なのだ。


『もう、伽耶という一族がいた事も、伽耶の紋章であるアジロも、この世から消えて忘れられていくんだろうな』


 伽耶の最後の生き残りであった朱鷺は、あの日寂しそうに言っていた。

 壺台にアジロを彫ることを禁じられ、朱鷺もこの世を去った。

 このままでは、彼女が言っていたように、伽耶のことも、このアジロのことも、世間から忘れられていくだろう。

 俺は晒しで円板を包み、脇に抱えて夜道に駆け出した。


(伽耶が治める国があったことも、朱鷺がここで生きたことも、忘れさせない)


 心の中でそうつぶやきながら、俺は朱鷺の墓を目指して走った。




 数ヶ月ぶりに訪れた朱鷺の墓は、以前とずいぶん様子が変わっていた。

 段状に土が盛られた墓は見上げるほどの高さになり、周囲の濠にはすでに水が満たされていた。

 丸い山に、台形の山を組み合わせた見慣れない形状をしているが、これがヤマトが各地で築造を進めている新しい墓なのだろう。

 濠の(ふち)に立った俺は、晒しを取り去り、円板を目の前に掲げた。

 木の板にあけられた勾玉型の透かしの向こうに、朱鷺の墓が見える。

 この孔を通せば、黄泉(よみ)の国にいる朱鷺とも話せるような気がした。


(朱鷺、伽耶の媛であるあなたが、ここにいたことを伝えるために証を残すよ)


 俺は心の中で、そう朱鷺に語りかけた。


(ありがとう。クチナシ)


 その時、透かしの向こうから、そう言う朱鷺の声が聞こえた気がした。

 思わずきつく目を閉じた俺は、再び目を見開いて頭上に円板を掲げると、一気にそいつを濠の中へ投げ入れた。

 夜の濠の水は黒く、一瞬でそいつを飲み込んでいった。

 しばらくして乱れが収まった水面には、丸い月が静かに映っていた。






「これが石塚古墳……」


 私は車のドアを閉めて、草原の向こうに見える緑色の盛り上がりを見た。


(今、立っているあたりが、周濠跡かしら)


 足元の地面に視線を移しても、そこには乾いた土に低い草が生えているばかりだ。

 古墳の周囲は平地になっており、濠があった形跡はない。

 だが、この周濠跡のどこかから、あの弧文こもん円板は出土したのだ。


 ここは、奈良県の纒向まきむく遺跡にある石塚古墳。

 この古墳の被葬者が誰なのかはわかっていないが、吉備で祭祀に使われていた特殊器台とくしゅきだいに見られる文様、弧帯文こたいもんが彫られた木製の円板が出土していることから、吉備とつながりが深い者の墓と唱える学者もいる。


 最近、地元岡山の古代史に興味を持ち始めた私は、この円板の存在を知ってから無性にここへ来たくなり、休日を待って車を走らせてきたのだ。

 ここに来る前に立ち寄った資料館で再現品も見てきた。

 実物は一部しか残されていないようだが、そこに彫られた文様は、千七百年近くも昔のものとは思えないほど繊細で美しく、しばらく私はその場を離れることができなかった。


(先客がいるみたいね)


 少し離れた空き地に停められた黒い軽ワゴン車を見て、私はそう思った。

 纒向遺跡にある古墳といえば、邪馬台国やまたいこくの女王卑弥呼(ひみこ)の墓との説がある箸墓はしはか古墳が最も有名だろう。

 こんな誰の墓かもわからない古墳にわざわざ来るなんて、かなりのマニアに違いない。

 私は彼らの話に付き合えるほどの知識を、まだ持ち合わせていないのだ。


(話しかけられたら面倒だな)


 そんなことを考えながら、古墳の周りを歩いてみることにする。

 簡単な案内板があるだけで、特に整備はされておらず、初夏の青々とした緑に覆われたそれは、古墳というより低い丘のようだ。

 それでもよく見れば、確かにくびれもしっかりとある前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)だった。

 ふと立ち止まって、鞄から資料館で購入した図録を取り出し、弧文円板の写真を探す。

 でも目的のページを探し当てる前に、なぜかある写真で目が止まった。

 それは、弧文円板と同様の弧帯文が彫られた特殊器台と呼ばれる筒状の土器だ。

 弥生時代、吉備ではこの上に壺を置き、祭祀に用いていたと考えられている。

 その後に続く古墳時代に登場する円筒埴輪は、この特殊器台が変化したものだとも言われていて、吉備がヤマト王権に影響を与えた証との見方もあるが、私はその考えにはしっくりきていない。

 美しい文様を取り払い、無意味になった透かし孔だけを残すなど、吉備の職人が進んで行ったとはどうしても思えないのだ。


「弧帯文は、吉備の人たちにとっても、土師たちにとっても、アイデンティティの象徴だったはずだもの」


 気がつけば、私は声に出してそう呟いていた。


「そう。そのことを後世に伝えたくて、これを濠に沈めたんだ」


 思いがけず、間近で若い男の声がして、私ははっと振り返った。

 するとそこには、ジーンズ姿の青年が静かに立っていた。

 見たことも会ったこともない人。

 でも私は、なぜか彼を知っていた。


「あなた……話せるの……?」


 無意識に口から出た私の問いに、彼ははにかんだように笑って小さく頷いた。

 姿形は変わっていても、その瞳の奥に見える輝きは、千七百年前と何ら変わっていなかった。

 きっと私は今日、彼に会うためにここへ来たのだろう。

 遠い日に、彼がここに沈めたアジロに導かれて……。


「それなら……」


 気がつけば、私の頬を涙が流れていた。

 向かい合い、私を見つめる彼の瞳も、潤んで揺れていた。


「私の……名前を呼んで……」


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