第31話 「限りなく奇跡に近いこと」
鈍い音と共に、ユーリィの体が吹き飛んだ。
縄で縛られたイスごと地面に叩きつけられて、彼女の口から小さな嗚咽が漏れる。拷問器具で殴られた頬は赤く染まり、傷口からは真っ赤な血が滲み出す。
「……」
それでも、ユーリィの表情は変わらなかった。
全てのことに興味を持てないような顔で、じっと窓の外を見ている。雨と風で揺れる窓ガラスを。
「ははは、やはり気分がいいものだな! 弱いもの苛めというものは!」
ザルモゥは拷問用のレンチを弄びながら歓喜の声を上げた。古い血と肉片がこびりついたそれを、芸術品でも見るかのように目を細める。
「だが、拷問の訓練も受けているお前では、こんな行為は無駄なのだろうな。例え電気イスにかけても口を割らんだろう。我が帝国では、そういうスパイを作っていたのだからな」
地面に倒れているユーリィを見ながら、ザルモゥは静かに告げる。
「それでも、私は一向に構わないのがね。ここに並べてあるものを全て使い切ってから、また同じ質問をすればいいだけだ」
そう言って、手にしたレンチを戻すと、隣にある銀製の工具を手に取る。一見すると爪切りにも見えるそれは、相手の爪を無理やり剥ぎ取るものだった。
「これで指の爪を剥いでやろうか。それとも、こっちで指ごと切り落としてしまおうか。口さえ聞ければよいのだから、指のひとつやふたつ、なくなってしまっても構わないだろう?」
ザルモゥは屈みこんで、ユーリィの顔を覗き込む。
彼女の反応を楽しむつもりだったのだが、頬を赤く腫らした少女はまったく動揺していなかった。死んだ魚のような目で外を見ている。
その様子を見て、ザルモゥも面白くないような表情となった。
「ふん、つまらない。恐怖している人間に使うからこそ面白いというのに。何の反応もないというのも興ざめだな」
ザルモゥは爪剥ぎの器具を机に放り投げると、そばにいた白衣の男たちに目配せをする。
「……なので、さっさと取り掛かることにしよう。おい、例のものを」
「はい。用意できています」
白衣の男の一人が鞄をあけると、中からあるものを取り出した。
注射器と、薬物だ。
ガラス容器に入った液体で、ラベルはつけられていない。ただ一言、劇薬につき要注意、とだけ手書きで書かれている。
「むふふ、あの薬が見えるかい?」
ザルモゥは彼女の髪を掴むと、無理やり視界をそちらに向けさせた。
そこでは白衣の男たちが注射器に薬品を準備している。
「あの薬は何だと思う? ……自白剤だよ。あれを注射されたら頭が朦朧として、何でも答えてしまうという優れものさ」
にやり、と厭らしく笑う。
「ただ効果が強すぎてね。使用者を廃人にしてしまう副作用があるのだよ。脳をじわじわと破壊して、記憶も、思い出も、自分のことも、その全てを忘れてしまう! ははは、心苦しい限りだよ!」
「……っ」
その言葉に、ユーリィの目がわずかに揺れた。
……記憶が、なくなる?
……あの夢のようだった思い出がなくなってしまう。楽しかった学園生活も、皆でランク線を戦ったことも、食堂のプリンの味も、ミリアさんのことも、ゼノさんのことも。シローさんとのことさえも、全部忘れてしまう。
……それは。
……それだけは耐えられない!
「……ぃやだ」
「おや? 今、何か言ったかな?」
「……いやだ。やめて」
「んん? よく聞こえないな。それにお願いするときは、ちゃんと敬語を使わないとね」
ユーリィが表情を変えたことに、ザルモゥは笑みを歪める。
そして彼女は、瞳に涙を浮かべながら、憎むべき相手に懇願したのだ。
「……やめて、ください。……お願いします」
「ははっ、これはいい! あれだけの訓練をしておきながら、こんな簡単に堕ちるとは。あの学園での思い出が、よほど大切なものらしい」
ザルモゥは白衣の男から注射器を受け取ると、針先をユーリィの腕へと向ける。
「だが、残念だ。そんな楽しい思い出とは、お別れをしなくてはいけない。これからお前は新しく生まれ変わるんだよ。……そうだな、私専用の愛玩人形にしてやろう! 朝も、昼も、夜も、私の愛情を受け入れてもらおうか!」
「っ!!」
ユーリィの顔が恐怖に染まる。
ザルモゥに殴られた時も、不良に襲われそうになった時も、国境近くで一人放り投げられても。顔色ひとつ変えなかった彼女が、脅えていた。
「いやっ! やめて、やめてっ!!」
涙が頬を流れて。
逃げ出そうと必死にもがいて。
年相応の少女のように泣き叫びながら。
ユーリィは、……彼の言葉を思い出していた。他の誰よりも大好きな、あの人の言葉を。
「た、助けてください」
「ははっ、何を言っている! この私に助けを乞うなんて―」
高笑いをするザルモゥを無視して、ユーリィは叫んだ。
「助けてください! シローさんっ!! お願いです! 助けて!」
その声は、部屋に響き渡る。
だが、建物の外にまでは聞こえなかった。風と雨が吹き荒れる嵐の夜。彼女がいくら叫ぼうとも、その声が誰かに届くわけがない。
そのため、それがこの瞬間に放たれたのは。
限りなく奇跡に近いことだった。
「……あれ?」
カラン、と注射器が地面を転がった。
間の抜けた声を漏らしたザルモゥ。彼は何が起きたのかわからず、自分の腕を見て。
それまでの余裕が嘘のように大声で叫んでいた。
「な、な、なんだ、これはーーっ!」
ザルモゥが自分の腕を抑えながら、その場に膝をつく。
その腕は真っ赤に染まっていた。銃弾が貫通したような穴が空いていて、そこから血が噴き出ている。
「う、撃たれたのか!? いったい、どこからだ!?」
音はしなかった。
窓ガラスは割れておらず、小さな穴が空いているだけ。
建物の外は、夜の暗闇。
その暗闇の奥深くで、一瞬だけ光が灯った。
銃弾を放った時に輝く、刹那の閃光。
狙撃用の実弾が放たれて、高速の螺旋回転をしながら飛翔をする。そして、数秒後。それが終わるころには、ザルモゥの腕に二つ目の風穴を開けていた。




