第19話 「とんでもない嫁」
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「えへへ、シローさん」
ユーリィがシローの背中に抱き着いている。
場所は、男子寮の一室。ベッドに腰かけているシローのことを、後ろから手を回して、首のあたりをすりすりと頬ずりしている。彼女の黒い髪が揺れて、かすかに甘い匂いが漂った。
その様子を例えるなら、主人の帰りを待っていた子犬のようである。
「……なぁ、ユーリィ。今日は、随分とくっついていないか?」
「えー? そうですか?」
惚けた声を出しながら、すんすんと鼻を鳴らす。
彼女の格好は、いつもの室内着である。つまり、シローの学園ジャージであり、何度も折り返された袖口から見える小さな手が、どこか愛らしい。
ちなみに、ユーリィの部屋はちゃんと女子寮にあるのだが、シローの部屋に入り浸っているので、用事がある時だけしか帰っていない。彼女と同室の子は、一人部屋としてのんびり使っているとのことだった。
「あ~、こうしてシローさんと一緒にいるときが、一番、幸せかもしれませんね」
「……『不幸体質』がよく言うな」
「えへっ。なんだったら、幸福少女とでも名前を変えてみましょうか?」
どこまで本気なのか、わずかに考えるそぶりを見せる。
シローとて、こんな穏やかな時間が嫌いなわけがない。ここのところ、帝国の過激派との戦いや、クリスティーナとの死闘もあったので、落ち着いた日々を送ることができなかった。本来の性格が、平穏や平和を望んでいるので、こうやってダラダラと怠惰に過ごすのも悪くはない。
だが、それはあくまで何もない状況下であってのこと。
こうやって、ユーリィが寄り添っていることと、現在、自分が置かれている状況が無関係ではないと思ってしまう。
「……で、何か言いたいことでもあるのか?」
「え?」
背中で体を揺すっていたユーリィが、ふいに戸惑いの表情を浮かべる。
そんな彼女のことを肌で感じながら、シローは努めて穏やかに尋ねた。
「別に深い意味があるわけじゃないんだが、何というか、お前が何かを聞きたいように見えてな」
「そ、そんなに顔に出ていましたか?」
「まぁ、俺がわかるくらいには」
シローが何気なく呟く。
しかし、実際のところ。ユーリィの戸惑いに気づいていたのは、学園内でシローだけであった。戦時中、スパイとして育てられたユーリィは、自分の知らないところでも感情を隠す癖がついている。辛くても、悲しくても、顔に貼り付けた偽りの笑顔が覆い隠してしまうのだ。
よって、彼女の微細な変化に気づけたということは、……そういうことである。
「それで、どうしたんだ?」
「……えっと、ですね」
ユーリィは返事に困りながら、ずるずるとシローの背中を滑り落ちていく。そして、ちょこんとベッドの上で女の子座りをした。
「この前、リティアさんが温室で言っていた、共和国の過激派のことなんですけど」
少し躊躇ってから、彼女は口を開く。
「……シローさんが狙い、ということはないでしょうか?」
「なに?」
思わず、シローは聞き返す。
学園祭に乗じて、過激派の特殊部隊が何かをしようとしている。そこまではリティアから聞いたことだ。彼女の父親が共和国評議会に関係していることから、その情報に間違いないだろう。
……だが、その狙いがシロー自身だとは、どういうことだ?
「これは、仮の話ですけど」
ユーリィが前置きをしながら、言葉を続ける。
その表情は、どこか真剣なものだった。
「シローさんの正体が『ホワイトフェザー』だと知っていて、それで排除しようとしているんじゃないかな、って」
「……それは、考えていなかったな」
言われてみれば、その通りだ。
危険を冒して、この学園に手を出す理由など限られてくる。要人暗殺だったら、シローかグラン大佐でないと、実行部隊を動かす理由もない。
何より―
「私なら、そうします」
帝国で育てられた優秀な暗殺者が断言するのだから、その説得力は尋常ではない。
共和国軍や評議会でも、最高秘匿事項になっている『ホワイトフェザー』の正体だが、なるほど。逆を返せば、彼らなら手を下すことも可能というわけか。
戦争の抑止力である英雄が、国の機関によって処分されようとしている。
もし本当なら、なんと滑稽なことだろう。
「なるほど。……で、ユーリィは俺に学園祭には出るな、と?」
「いいえ。そこまでは言いません。ですが、出場するなら相応の装備が必要かと」
そこまで言って、ユーリィは表情を和らげる。
「まぁ、それに関しては助言する必要はありませんね。だって既に、……準備を整えているようですから」
とんとん、とベッドに手を置く。
ユーリィが言っているのは、ベッドの下に隠された長細い鞄。その中に収められている白い狙撃銃『ニヴルヘイム』のことを指していた。
「使わないのに、越したことはないがな」
シローが肩をすくめる。
「既に、狙撃用の実弾も調達してある。この学園の生徒に手を出すようなら、容赦はしないつもりだが、……狙いが俺だったら、どうするかな」
「いえいえ、そこは使ってくださいよ」
にこり、とユーリィが笑う。
「シローさんの身に何かがあったら、……たぶん、その人のことを殺しちゃいますよ?」
「恐ろしいことを言うな」
にこにこと笑っている黒髪少女に、シローは顔をしかめる。
「学園祭のことは、俺も注意しよう。恐らく近いうちに、グラン大佐から指示が下るだろう。それに従うまでだ」
「はい。じゃあ、それまでは―」
ユーリィは頷く。
そして、こそこそと近づいてきては、シローの腕に抱き着いた。
「えへへ、シローさんを独り占めです!」
ぎゅっ、と腕を回して、小柄な体で擦り寄ってくる。
きっと尻尾が生えていたら、盛大に振っているだろう。これが愛玩犬なら可愛げがあるというものだが、どちらかというと、猟犬や狂犬の類いときたものだ。
……まったく、とんでもない嫁を貰ったものだな。
嬉しそうに抱きついているユーリィを見ながら、そんなことを思っていた。




