彼の手に握られていた青い果実が転がっていった、そう言われても可笑しくないと僕は頷くだろう
翔side
複雑な造りの校舎はその日の講義の教室を覚えるのに苦労した。1年の時はなんとか過ごせたものの、2年になると選択科目により更に移動の幅が増え、未だに校舎の構造は曖昧にしか把握しきれなかった。だからこそ、この場所を見つけたのは運命だったのかもしれない。
この広い大学に数カ所ある校庭には、一面が校舎に囲まれ人のいない狭く死角のような孤立した場所もあった。
4月の終わり頃だった。たまたま立ち寄った初めてのこの場所で、僕が彼を見たのは。彼しかいないこの空間に、目を奪われたのは。
緑の葉が生い茂る一本のイチョウの木の下で、幹に背を預け片膝を立てて彼は眠っていた。
青年の白いシャツから覗く銀色の十字架のネックレスが木漏れ日に鈍く反射した。白く細いが骨ばった男の人である指は両手を合わせ軽く組み、まるでキリストに祈りを捧げてる様に見えた。
サラ、と微かな風が吹き、細い黒髪が彼の頬を撫でる。色素の薄い肌は閉じた目の長い睫毛を際立たせていた。
周りを遮断する様に囲む校舎によって影で薄暗いこの場所は、イチョウの木にかろうじて日差しがかかる程度で、その日差しを生い茂る緑のイチョウの葉が幾多に遮り、数本の柔らげな木漏れ日を彼に届けていた。
自分より大人びた顔は、色白で儚く、穏やかで無防備な表情で。
至近距離まで近付いても起きない彼は、きつく閉じられた口から寝息すら聞こえず、その整った顔立ちから、まるで人形のようだった。
(…起こしても大丈夫だろう、毒リンゴを齧ったわけじゃあるまいし)
この木が林檎の木だったら、きっと僕は声をかけられなかった。
アダムとイブのような、深く瞼を閉じた彼はそんな気さえしたのだから。
-4月の終わりの頃だった
深く眠る彼に、どう声をかけようかと頭が考える前に、気付けばしゃがんで彼の顔を覗き込み手を伸ばし、彼の頬にかかる細い髪に触れていた。
声をかける前に彼が起きた時、ここにいる言い訳が出来ない気がしたから。そして、誰かが来て彼を連れ去ってしまったら、なんて思ってしまったから。
触れた頬は少し体温が低かった。指にかかる微かな寝息に安心した。静かに目を閉じ手を組む彼は、祈りながらまるで何かを待っているかの様な。そんな神秘的な気さえした。
「…あの、もうすぐ午後の講義が始まりますよ」
髪を指に乗せたまま小さく声に出し、彼を見つめる。そよ風に音を立てず小さく揺れた彼の胸元の十字架に、少し罪悪感がちらついた。
講義が始まるのは本当だった。けど実際はもう始まっていた。腕時計の針は講義の時間から6分過ぎた所を指していた。
大学は高校みたいに授業毎に鐘がなるなんて事はないので、腕時計は必須だ。
(…これが一番効果あると思ったんだが)
嘘を付いたのが彼を守護するキリストは許さなかったらしい。嘘つきに彼は渡せない、そう彼の胸元の十字架に突き放された気がした。
すっ、と彼の髪から手を離そうとしたとき、指を柔らかい力で掴まれた。優しく触れるように指先を遠慮がちに掴んだその手の持ち主は、閉じられていた瞼をゆっくりと開け、声のした僕を見上げ、その揺らいだ黒い目が僕の方を写した。
「…あぁ、びっくりした」
掴んだ指に力を入れず優しく握ったまま呟いた彼に、それはこっちの台詞でもあるなぁと不思議と僕の思考は落ち着いていてのんびりしていた。
「心地いい声でさ。キミのアルト…天使かと思った」
深い眠りだったのかまだ開けきってない目のまま、ふわぁ、と効果音が付きそうに笑う柔らかい表情に、思わず空いていた手を僕の指を掴んだままの彼の手に重ねていた。
「…あなたは天使を見つけたら捕まえるんですか?」
「触れてみたいとは思うなぁ」
だから、天使だと思ってキミを掴もうとしたんだ。そう笑って僕の首すじに手を伸ばし傷んだ茶髪に触れた彼につい見入ってしまった。
重ねた手を拒否しない彼に、この人のが天使なんじゃないかと、思わず彼の肩越しを見てしまった。彼の背中にあったのは所々樹皮が剥がれかけたイチョウの幹だけ。翼が無いのは分かってる。でもこの手を離すとどこかへ飛んでいくような、そんな気さえした。1つ1つのトーンも優しくて柔らかい、僕より少し低めの包まれる様なこの低音の声の持ち主である、この人は。
彼の細くて柔らかいきれいな黒い髪と違い、大学デビューから染め続けて傷んだ僕の茶髪は毛先に枝毛が見つけやすい。あまり触り心地のいいものでは無いはずなのに、彼は指の腹で優しく撫でるように何度も僕の髪に触れた。首に触れた彼の手首は体温が低くひんやりとしてるが最初に触れた時より温かく、密着した所からドクンドクンとお互いの脈が重なる様な気がした。
そうだ、と彼の睫毛から見える目が瞬きする。
大きいと比喩される僕のたれ目と違い、重ためな二重にプラス長い睫毛がかかり伏せがちに見える切れ長なたれ目だ。通った小さい鼻に薄い唇と綺麗なパーツを丁寧に配置させたクールな顔立ちの中、その美しい形のたれ目が彼の柔らかさを主張していた。
「どうした、道にでも迷った?この場所に俺以外の人が来るなんてめずらしいんだ」
「あ、そういうわけで起こしたわけじゃ…すみません、起こしてしまって」
「え?そんな、責めてないよ。言っただろう?キミの声が天使みたいで心地よかったって。」
感謝したいくらいだ、と彼は僕の髪をつまんでいた手を離し、イチョウの幹に右手を置いて立ち上がった。
ん、と優しい笑顔のまま差し出された手に一瞬戸惑い固まるも、宙に浮いた手は自分でも驚くようすんなりと彼の手の上に乗せられた。
握ったのを合図のように、ふわりと体が軽くなったように膝まづいてた足が立ち上がる。まるで自分も天使の羽がついてるか、なんて彼の前では思ってしまう。
あ、と彼は地面に目をやり上半身を屈め、手に取った冊子についた土ホコリを手のひらでなぞるように軽く落とした。
「ごめん、もしかしてサボらせちゃったね」
「えっ、いえ、そんな!」
渡された冊子を受け取ると俺の教科書で、よいしょと地面に無造作に置かれていたもう一つの冊子を拾って土ホコリを落とさず彼は脇に挟んだ。おそらく彼の教科書だろう。
「僕こそ、アナタを起こさなくてすみません。もっと僕が早く起こしていればアナタもサボりにならなかったかもしれないのに…」
一冊の教科書をぎゅっと両手で抱えて彼に言葉を投げかける。少し俯きそうになったが、彼が一歩近付いたのに気づいて顔を上げた。至近距離で目が合ったのに、教科書にも鼓動が響きそうな気がした。
彼は目を見開いていて、それは目が合ったからじゃない、少し驚いたような表情をして首を傾げた。
「キミ、は本当に天使みたいだなぁ…」
いい子いい子、なんて頭をぽんぽん、と撫でて彼は眉を下げて噛みしめるように笑っていた。
微笑みや優しい笑顔の時の目を細めて笑う笑顔と違う、唇をぎゅっと閉じた目のない笑顔に、心がほぐされていくように温かかった。
今まで過ごして蓄積されてきたモヤモヤやわだかまりが浄化されていくのが、数分前に初めて出会った人の笑顔でだなんて。ほだされていくと同時にトクトクトクトクと鼓動の音がしっかりと感じた。
この人と離れるのが惜しくて惜しくて、なんて引き止めればいいか言葉を選べない、詰まる、言い出せない。
「…ここが気に入ったなら、またおいで」
教科書に重ねていた手に彼の空いてた手が重なる。包むように手の甲から優しく握られた手の温かい体温に、なんだかとても安心した。
くす、と美しく微笑んだ彼の表情は柔らかくて優しくて、儚かった。彼からこぼれた言葉が、何度も頭の中で繰り返された。
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「XX大学2年で経済学を取ってる宮下翔です。羊に羽と書いてかけると言います」
「ご丁寧に嬉しいな。俺は安藤三久です。漢数字の三に久しぶりの久でみつひさ…XX大学の3年、政治経済を取ってます。」
僕たちの再会は、出会ったあの場所ではなかった。
そもそもあの場所はたまたま行き当たりばったりで立ち寄って見つけた場所で、まず人が気付かない完全に死角の場所なのだ。あまりに浮かれていたため、それを思い出したのは夜寝る前だった。
あの場所が校庭である事しか分からず、人に聞いてもみんな顔を見合わせハテナマークを浮かべていた。
せめて彼の名前、いやもう学部でも学年でもいい。手がかりになるようなことを聞いてればよかったと激しく後悔した。
出会った場所は諦め、彼の特徴を言って彼を知る人がいないか聞いてるうちに、気付けば昨日彼と出会った時刻になっていた。
(…次の人で、今日は最後にしよう)
そして駄目だったら次は学部を回って探そう。
いくら日を費やしてもいい、彼を見つけたいと思った。それくらい彼の事が諦めきれなかった。
「すみません、あの」
無駄だと分かりつつもと声を掛け呼び止めようと手を伸ばした時、振り向いたその人に手を掴まれた。
すぐ最近感じたデジャブに、思わず目を見開いた。鳴り止まない心臓が五月蝿かった。
「…十字架のネックレスをした色白で黒髪で儚くて柔らかい雰囲気を持つきれいなお兄さん知りませんか?」
「おや、そんないい風に言われちゃうとキミは一生俺を探せないな」
キミの探し物は俺なんでしょう?そう笑う彼の胸元には銀色の十字架が揺れていた。
「俺も探し物があるんだ」
「え?」
「睫毛の長い大きなたれ目の年下イケメンで、俺を探してる可愛い茶うさぎちゃん」
「えっ、うわぁあちょ、僕そんなにアナタの事探すの目立ってました!?」
「俺を探してる人が俺の探してる人と一緒じゃないかという目撃証言がね。あ、茶うさぎちゃん見つけたよ、ありがとねぇー」
「よかったなぁ安藤、これでやっとお前講義出てくれる」
「え!?」
これ以上周りに心配させずにじゃあ早く来いよな、近くにいた彼の友人はそう言い残して講義の教室に向かって行った。
分かった、と隣で手を振る彼の横顔を見る。さっきの会話の内容からおそらく彼も僕と同様、今日の午前の講義を全部すっぽかしてお互いを探していたんだろう。
腕時計を見ると午後の講義が始まっている。彼もさっきの友達と同じ講義だろう
が、掴んだ手はそのままで教室に向かう気配は一切無い。
「あ、あの、講義始まって…?」
「俺を不良にした罰だ、今日一日一緒に不良になってもらおう」
指先だけ絡めて教室から正反対の方向へ少し早足で歩き出す。
指先を優しく掴むように握るのは、お互いのどっかが嫌だったらすぐ振りほどいて離せてしまう握り方だ。言い替えると、どっちかが嫌だと思えば成立しない握り方で。
あの時もそうだった。指先を掴んだ彼の手を僕が両手で握り返し、その上に彼の空いてる片手が重なった。
繋いだ手があの時と同じで温かかったみたいに、共犯だ、と、にっと歯を見せて意地悪に笑う彼の表情も、やっぱり柔らかかった。
「一緒にいたあの友達さんはいいんですか?」
「あぁ、俺普段精勤だし優等生だからテスト勉強の手伝いでチャラにしてくれるでしょう」
どうやらキリスト様は彼に二物も三物も与えたようだ。
反射してないのにすぐ目に入った彼の胸元の十字架は、彼の白い肌にその鈍い銀色がよく馴染むからだろう。深い存在感を現すキリスト様は彼を相当愛しているようで。
「おいで、あの場所への道を教えてあげるよ」
美貌、頭脳、ほんわかとしつつ独特の世界観を纏うミステリアスな雰囲気、そして土地勘。キリスト様は付加を4つも与えたのか。
それだけじゃないんだ、彼に惹かれたのは。彼の存在に、気付いたあの時からずっと僕の胸には彼がいた。僕を探しに費やした半日の間、彼の胸にはキリスト様じゃなく僕がいたのだろうか。でも精勤である彼が午前の講義を放り投げて自分を探してくれた事、そしてこうして午後の講義も放り投げて僕と過ごす時間を自ら選んでくれたのだから、少なくとも3分の2くらいは彼の心の中を僕が占めれたのかな。
そう思うと胸がいっぱいで熱くなり、繋いだ手のまま思わずぎゅっと背中から彼に抱きついた。
おっ、と声を上げて立ち止まった彼の細い腰に手を回すと、クスクスと笑い声が聞こえ、正面からおいで、と振り返って両腕を広げた彼に飛び込んだ。
身長的に彼の肩に頭を押し付ける。あったかいー、さすが茶うさぎ、なんて抱きしめ返してくれるのに嬉しくなった。
両腕を彼の背中に回す。華奢なその背中に翼は生えていない。翼は生えていなくても、いつかは彼はキリスト様に連れていかれるのだろうか。あの場所でもなく教会で、その指を絡め深く瞼を閉じ眠るのだろうか。
あの出会った場所まで我慢できず、会いたかった衝動を表すように、彼を壊さないようにゆっくりと抱きしめた。
甘えたな後輩ができてすごい嬉しい、そう笑う彼に、うさぎは寂しいと死ぬんです、と小さく呟いた言い訳が精一杯だった。
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