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あいつとの出会いは七歳の頃だった。
正確には生後三か月くらいには、顔を合わせていたらしいのだが、俺が認識して出会ったのは間違いなく七歳の頃だ。
当時、病気で入院しがちだった俺は、毎日病室で外を眺めて過ごしていた。純粋に雲を眺めるのが好きだった。「あの形はソフトクリームみたいだな」とか、「あの雲はきっと孫悟空が乗っているに違いない、他の雲よりも進みが速い」とか、「羊型の雲の上で昼寝したい」とか。雲という一つの存在だけでいくらでも空想でき、それに浸るのが当時の俺にとって最も楽しいことだった。
しかし、何を勘違いしたのだろう。金持ちの父親は、俺の話し相手として、同い年の女の子を連れてきた。思い返してみれば、外を眺めていたとき、毎日のように男の子たちがサッカーをしていた。父親は羨ましがっていると勘違いしたのだろう。それで女の子を連れて来てしまうあたり、どこか間違っている気もするが。
普通は「混ざって来なさい」「友達を作りなさい」と言われるはずなのに、親が選んで連れてくるという特別扱いに、当時の俺は大変ご立腹だったようだ。その憤りの行きつく先は、連れてこられた女の子だった。
藤崎茜音と名乗った女の子に、俺は大層ひどいことをしていたと思う。手段は主に無視。話しかけられてもずっと雲を見て過ごしていた。「雲」は当時の俺にとって生き甲斐であり、心のよりどころだったのかもしれない。もちろんのことだが、決して暴力は振るっていない。でも、同じくらいひどい仕打ちだったはずだ。「会話しなさい」と命じられてきたのに、相手が会話する気がないということは、合格点を取れないテストをやらされているのと同じようなことだ。
それでも、茜音は毎日のように病室にやって来ては、とりとめのない会話を聞かせてくれた。
「幸太郎くんは夏好き? 茜音はね、あんまり好きくない。汗かくし……」
「お母さんのごはんはすごくおいしいの。茜音もお手伝いするんだけど、あんまりうまくいかないんだ。お母さんは『あかねはブキヨウだから練習が必要よ』って言ってた。ブキヨウとブッキラボウって何がちがうのかな?」
「今日ね! たっくんが体育の時間にすごいシュート決めて、もうすごかったの!」
いくら茜音が楽しそうに話しても、俺は無視をし続けた。半ば意地になっていたのは否定できない。気になる話もあったし、外の世界に興味はあったけれど、認識してしまうと父親に屈した様な気がして、納得がいかなかった。茜音への恨みというのはまるでなく、自分の中での余計な意地と興味のぶつかり合いで揺れ動いていた。
そんな生活が一年も続くと、逆に茜音が可哀そうに思えて来てしまった。「返事をする気もない俺の元へ来て、親の言いつけどおりに会話を試みる。学校の友達と一緒に、放課後遊びに行くこともできない」
外で元気に遊ぶ子どもたちの姿を、改めて見る。心の中に重石が落ちてきたような感じがして、自分がとても悪いことをしているのだと気が付いた。だから、病室の窓から入道雲を眺めながら、俺は茜音に告げる。
「もう、無理して来なくていいよ。ぼくからお父様にはお話しするから」
「てい!」
返事はチョップだった。頭の中が大混線状態となり、思わず茜音へと振り返る。茜音は目尻をキッとしめ、こちらを睨み返していた。茜音が大変ご立腹になっていた。
「あたしが? いつ? 無理をしたって? なんで決めつけるの?」
「え? いや、だって毎日のようにここに来てるから、友達と遊ぶ時間がないなって」
「てい」
二発目を頂き、大混乱が続く。
「親に言われたからとか、そんなの関係ない。幸太郎くんを笑顔にするんだって決めたから、あたしはここに来てるの」
「どうして……?」
「どうしてって、幸太郎くん毎日楽しくなさそうなんだもん。顔はずっとムスっとしてるし……」
「それで、君に何の得があるの?」
「得とか損とかよくわからないけど……理由がなくちゃダメ?」
俺はゆっくりと頷いて見せる。
「じゃあ、お小遣いアップのため。それならいいでしょ?」
「……」
「どしたの?」
俺は開いた口が塞がらなかった。「『じゃあ』って何だよ。適当じゃないか」ということもあったが、それ以上に、見返りを求めていなかったことに衝撃を受けた。たぶん本人は俺のためにしているつもりなんて、全くないのだろう。ただ自分のやりたいことを想うがままにやっているのだ。そのことを理解した瞬間、俺は意地を張っているのが馬鹿らしくなってしまった。そうすると、急速に茜音のことが知りたくなってくる。
「わかった。それじゃあ君の話を聞かせてくれよ」
俺が言うと、途端に茜音は笑い出す。また俺は大慌てすることになった。
「ごめんごめん。一年も一緒にいて、今更『君』はないでしょ」
「それもそうか」
納得して、今まで心の中でずっと呼び続けてきた人の名前を、初めて呼ぶ。
「茜音」
「うん、幸太郎」
途端、茜音が「おお!」と驚いた声を上げた。
「幸太郎が笑った!」
茜音に釣られただけだ……………………………………なんて、言い訳しても仕方がない。
***
「あたっ!」
回想から帰ってくると、目の前には青色の瞳が現れた。どうやら今の脳天への衝撃は、目の前の女の子、アリスから受けたもののようだ。
「くっそ、茜音もアリスもぽかぽか殴りやがって……。馬鹿になったらどうすんだ!」
「大丈夫、もう馬鹿だから」
「相手が馬鹿ならいくらでも殴っていいって訳じゃないから!」
少し涙目でアリスの目を睨み返す。しかし、アリスの目はこちらを鋭く射抜き、まるで俺を責めているようにも感じる。
「転生者が女の子なんて聞いてない」
「え……言ってなかったっけ?」
「しかも幼馴染なんて……こっちの世界で再会できるなんて、運命みたいなものじゃ」
「そうだな、腐れ縁が世界を飛び越えてまで発揮されるとは思わなかったな。でもなんでそんなに動揺してる……」
「してない」
「ぶはっ、俺なんかした!?」
肘打ちを食らった左わき腹を押さえて、体を折る。しかし、その様子に張本人は「大丈夫?」と聞くわけでもなく、つーんとそっぽを向いていた。
こやつ、意味もなく八つ当たりしよってからに。何が気に食わないんだよ全く
……大きなため息をついた。
ここは鍛冶屋「シュメール」。
この世界への転生者で、俺の幼馴染でもある女の子、藤崎茜音。またの名を鍛冶師アメリア・シュメール。彼女が経営するお店だ。その入口近くにある紅く高級感あふれるソファーに俺とアリスは並んで座っていた。
店内の左側にはガラスケースが置いてある。中にはおたまや包丁などの料理器具が並べられていた。一方で右側には短剣や長剣、煌びやかな拳銃も飾られている。生きるために必要な道具と殺すために必要な武器が相対している店の構図に、思わず目を奪われる。直後、値札にとんでもないほどの零の数が並んでいるのに気が付いて、目を外したくなった。店の最奥にはカウンターが設けられていて、その近くに扉がある。あれが工房の出入り口なのだろう。店に戻ってくるなり、茜音は迷うことなくあの扉の中へ入っていった。
「コーヒー、おいしい」
アリスの弾むような声を聴いて、視線を落とす。
目の前の机にはお手伝いさんが出してくれたコーヒーと最中が置いてある。最中なんてどこで買ったのだろう、ぜひ場所を教えてもらって、メアリさんに買って帰りたいものだ。
そんなことを考えていると、奥の扉が開き、茜音がひょっこりと顔を出す。
「あぁ、ゴメンね二人とも。簡単な物しか出せなくて」
奥の扉から出てきた茜音は、エプロンをレジ横に引っかけた。小走りでこちらまで近寄ってくると、近くの椅子を引っ張ってきて、俺の対面へ座る。
「ごめんな、仕事中だったのに」
「大丈夫、簡単な仕事しか残ってなかったから、すぐに終わらせてきた」
「茜音さんはどんなお仕事を?」
「ほほうアリスちゃん『どんな』……と聞いた?」
茜音の目にきらりと光が挿した……ような気がした。その反応は、主に元の世界の、別の人物で何度も見てきた。クラスでなかなかしゃべらない男の子がゲームの話になると急に話に飛び込んでくるときと、同じ目だ。これは、この後茜音の独壇場『アカネオンステージ&マシンガントーク』が行わられることに違いない。
元々、茜音は理科が大好きだったが、いつの間にそこまで覚醒したのだろう。
俺はため息をついてアリスの肩を叩く。そして、大きく首を振った。
「アリス、聞かない方がいいぞ」
「え? なんで?」
なんでと申すか。うーん、こっちにある言葉でなんといえばいいのか。
しかし、スイッチが入ったオタクの前では、悩んでいる時間などなかった。
「えーっとね。鋼硬樹を切断するための手斧の開発、保温性向上を目指した新規食卓用大皿の検討、軽量性と切れ味を両立するための軽金属配合率の調査かな。鋼硬樹っていうのは太陽の光を受けると変性して硬化する特殊な液体を、長年表面に分泌し続ける木のことでね。有用なんだけど、長年かけて形成される硬化層のせいで、なかなか加工できなかったの。主な使用先が住宅の外装ってことも相まって、表面を傷つけずに切りだす必要もあったんだって。正確にかつ迅速に斬るためには……で……が……になって……を……」
唐突に襲ってくる情報量の暴力に、俺はノックアウト寸前になる。頭を振って、意識を保ち、隣を見るとアリスは完全にのびていた。行儀悪くソファーに浅く腰掛け、足は伸び切り、腹を天井に向けるような体勢で動かない。その様子にはレディのかけらも見られない。
「茜音、頼むからその辺で……。アリスが伸びてる」
「あちゃぁ、また悪い癖が……。アリスちゃん帰ってきて!」
茜音は必死にアリスの肩を揺らすが、その後しばらくアリスの意識が帰ってくることはなかった。
アリスの意識が戻ってくるまで結局二時間程度かかった。意識が回復したアリスと共に、糖分補給のために最中を食う。
最中の中に入っているのは大抵小豆餡であるが、こちらの世界ではどろどろに溶けきったカスタードクリームである。最中を割ってカスタードクリームをカップへと流し込み、甘々なコーヒーとしなっとした最中を交互に口に入れるのがこちらの世界の一般的な最中の食べ方らしい。
……意味が解らない。普通に最中食えよ異世界人。
「最中なんて久しぶりに食べるけど……。何処に売ってたんだ?」
「売ってないよ、手作りだよ」
「……」
茜音は当然のように言い放つ。俺は虚を突かれ、完全に思考を停止した。
え、今何て言った? 茜音が……? 自分で……? 和菓子を……? 作っただって……!?
「どんな食材でも爆弾に変えることができる錬金術師の茜音さんが料理!?」
「ほっほーう……誰が豆粒ドちびか!」
「その錬金術師じゃな……あいたっ!!」
抵抗する暇なく、真ん前から右手がずいと伸びて来て、脳天に突き刺さる。厳しいチョップに、一瞬、目の中に火花が散る。
「そんなこと言ってると、最中上げないからね」
「私は……いいの?」
「え? あ、アリスちゃんはいいのよ。いっぱい食べて。なんなら幸太郎のも食べちゃっていいから」
「……あはは」
アリスが乾いた笑い声を上げた。茜音のテンションについて行けないみたいだ。
二人は似たもの同士だから(二人とも俺に対して、すぐに怒るし、暴力をふるうし、小馬鹿にしてくる)すぐに仲良くなれると思ったけど、どうやらそうでもないらしい。
女子にもいろいろあるんだなと分かったふりをしておく。同性同士のことだって俺にはよくわからない。
「それにしても、連絡ぐらいしなさいよ幸太郎。さっき見つけたときは、思わず目を疑っちゃったよ」
俺は幽霊か何かですか?
「前に来たのは、十年前くらいかな?」
「三年だ」
「あれ、そんなもんだっけ?」
『やれやれ、あたしも年老いたかな』と茜音は呟いて頭を掻く。
「前回も一人で来てくれたんだよね?」
「え? 前はナルカミさんと一緒だったって……」
「あれれ? そうだったっけ?」
俺はここに来て何度目かわからないため息をついた。
間違いない。茜音のカウントダウンは、もう始まっている。信じたくはないが、目を背けるわけにはいかない。
「まあいいや。とにかく、今日は何用? 新しい短剣を頼みに来たの? それとも別件?」
「一応、別件」
居住まいを正して、茜音に向き直る。正直、こういうことを伝えるのは、いつまでたっても慣れそうにない。たぶん慣れちゃいけないんだ。おやっさんは気丈に振る舞っていたけれど、内では心を痛めていた。この痛みを感じなくなってしまったら、俺は本当に人間ではなくなってしまう。
「アメリア」
茜音ではなく、あえてこちらの世界での名前を呼ぶ。今、俺と対面している彼女は、幼馴染ではない。転生者であり、俺の短剣を打ってくれた人であり、多くの人に信頼されている鍛冶師であり、俺の今回の仕事相手だ。
「その時が来たみたいだ」
アメリアは目を伏せると、静かに笑った。