3
「…はぁ」
「ちょっと沙耶香。人の家来るなりため息つかないでよ」
金曜日の夕方、私は幼なじみの家に来ていた。
美月ちゃんは、私と奏太さんの結婚を知る数少ない人物だ。
「で、風見ソウがどうしたって?」
「…また恋愛映画だって。しかもベッドシーン」
私の想いを知るこの親友の前では、奏太さんに関するぼやきで満たされている。
ぐずぐずと机に突っ伏す私を、美月ちゃんは呆れたように見ていた。
「まさか恋愛に全く関心なさそうだったあんたがこんなになるとはね」
「私だってわけ分からないよ」
「しかも相手が相手だしね」
「はぁ…」
もう本当、ため息しか出てこない。
奏太さんは俳優で、そして仕事命の人。
一応身内である私が言うのもアレだけど、彼は日本中からモテモテだ。
容姿からも演技力からも彼は世の女性達のハートをがっちり掴んでいる。
雑誌とかでよくやる抱かれたい男ランキングは常に上位。
夫にしたいランキングではこの間1位を取っていたっけ。
そんな彼の“本物の妻”である私からしてみれば、この人夫にすると苦労しますよ…なんて言いたいところだけど。
そんな話はさておき、女性ファンが圧倒的に多い彼には恋愛系を題材とした作品のお仕事がたくさんくる。
お仕事だから仕方ない。
彼にお仕事を頑張ってもらわないと、生活できないのも事実。
俳優というお仕事に誇りを持つ奏太さんが好きなのも事実。
だから文句なんてない。
ない、んだけど…
「うー…」
「そりゃ、目の前で旦那が堂々といちゃついてればね」
「言わないで」
心中とっても複雑なんです。
だって私は奏太さんとキスのひとつだってしたことない。
なのに、相手役だっていう私と同い年の美少女は、私より早く奏太さんの唇をゲットしちゃうんだ。
こういうの、焼きもちって言うんだろうか。
いくら恋愛結婚じゃないから奏太さんが私を好きなわけじゃないって知っていたって、面白くないものは面白くない。でも、当然キスしちゃ嫌とも言えない私。
結局、こうして美月ちゃんの前でぐずぐずするしかないんだ。
「美月いるか…って、あれ、沙耶香ちゃん?」
そんな私の愚痴タイムは、部屋に訪れたとある人物の登場によって終了した。
「あれ、真山さん」
「何してんの、真山」
茶髪に丸い目、小柄な体、耳にピアス。
相変わらず、27にはとても見えない。
真山洋文さん。
それが彼の名前だ。
「何してんのって彼女に会いに来たんだけど。酷くない?」
真山さんがそう呟いて部屋に入ってくる。
美月ちゃんに近付くなりポンッと頭に軽く手を置いて、微笑んだ。
眉間にシワを寄せながらも、少し染まった頬で真山さんを見上げる美月ちゃんが可愛らしい。
「今日は泊まりで仕事じゃなかったの?」
「ああ、でもあちらさんの都合でキャンセルになってな」
「ふーん」
会話は普通なのに、空気はどことなく甘い。
これが本物の恋人。
少し前まで愚痴っていた内容が内容だけに、寂しい思いになる私。
「私、帰るね」
邪魔もしたくなかったしさっさと帰ろうと身支度を始めれば、真山さんが何かを思い出したという風にこっちを向いた。
「沙耶香ちゃん、ソウがぶっ倒れた」
「え…!?」
何でもないように告げてきた真山さんを思わず振り向く。
真山さんは苦笑していた。
「あのバカ、撮影で水被ったまま台本読み耽っちゃってね」
「…またですか」
「うん。体暖める前に次の仕事やったら、仕事終わりに熱出したんだよ。家運んどいたから沙耶香ちゃんからも何か言ってやって」
「毎回すみません、失礼します」
真山さんは見た目は少し軽いけど、あの奏太さんのはちゃめちゃな性格やスケジュールを管理する敏腕マネージャーだ。
奏太さんは基本的仕事に高いプライドを持っているけど、夢中になりすぎて体調を一切気にかけない節がある。
体調管理も仕事のうちですよと何度も言っているけれど、どうにも夢中になってしまうと他のことが抜けてしまうらしい。
仮に熱が出てもその演技力で隠せてしまうから周りも気付きにくい。厄介な人なのだ。
そんな奏太さんを叱り、心配し、サポートしてくれる真山さんの存在は偉大だと常々感じている。
だから感謝の気持ちをこめて頭を下げた。
それから私は足早に家に向かう。
「あ、サヤだ。おかえり」
「おかえり、じゃなくて」
家につくと、奏太さんがふにゃっと笑って私を出迎えた。
滅多に見せないこの人が懐っこい笑みを見せる時は、たいてい体が弱っている時。
2年一緒にいてさすがにそれを理解していた私は、呆れ顔のまま彼の手にある台本を取り上げた。
「真山さんから聞きました。熱がある時くらいちゃんと寝てて下さい」
「真山?ああ、そっか。片岡さんの所にいたんだ」
「ほら、着替えて下さい。ベッドに行きますよ?」
「はーい」
これじゃ、どっちが歳上か分からない。
でも、こんな無防備な彼を見られるのが私だけだと思うと、ついさっきまで私を占めていたモヤモヤが飛んでいった。
「サヤ、台本…」
「ダメです。ちゃんと熱が下がってから」
「えー…」
テレビの前ではあんなにしっかりしているのに、何だこの猫。
内心毒づきながら私はおかゆを作る。
発熱時の奏太さんは、本当に心臓に悪い。
彼は体が弱ると、とたんに甘え癖が出る。
ふだん滅多に私に触ってこないのに、熱が出た途端私にべったりだ。
「サヤ」
「どうしました?」
「うん」
「え?」
「サヤが近くにいると安心する」
…ああ。
もう本当にどうしてくれよう、この心臓爆弾は。
「おかゆちゃんと食べて、薬飲んで下さいね」
「ん」
馬鹿みたいに高鳴る心臓を必死に隠して、部屋を後にする。
風邪を引くと別人みたいに甘え性になる旦那様。
可愛いけど。
嬉しいけど…!
それ以上を求めてしまいそうで怖くなる。
勘違いしそうで。
余計な荒波は立てたくない。
黙っていれば、このままいれば、私は彼の妻というポジションにいられる。
ずるくて醜い自分の考えに、ため息をつきたくなった。
「ん?」
そんな時、コツンと足に何かがあたる。
「日記帳?」
足元に落ちていたのは、シンプルな黒カバーの日記帳だった。
これは奏太さんのもの。
ページが開いたままのそれを拾いあげれば、中は文字だらけで真っ黒になっている。
昔習字をやっていたという奏太さんの字は私の数倍達筆だ。
そこには仕事でやったこと、知ったこと、反省…ぎっしりと書き込まれていた。
仕事が恋人の奏太さん。
日記帳には仕事のことしか書いていない。
1日も漏らさず、枠外にもはみ出して書きこまれている。
これが若手実力派俳優と呼ばれる所以。
「…はやく、良くなって下さいね」
そんな彼だからこそ、たとえ恋愛映画で美人さんとキスしようと良いやって思ってしまうんです。
いつだって、ぐずぐず悩んでは結局許してしまう。
だって、私は仕事にしか目がない奏太さんだって好きな奏太さんバカなんです。