黒の王
悪魔が棲むという孤高の城。暗雲渦巻く闇の王の城。果てには、そこは魑魅魍魎のひしめく魔物の巣窟とさえよばれ、人間達に恐れられた。
世界の果てに、王がいる。
人間達の見ることの無い暗闇の世界の王がいる。
しかし彼は、もともとその身は人間だといわれ、それ故に彼の岸へは渡らずに未だあの岬の城に住んでいる。
その名を人は、黒の王と呼んだ。
†††
「クロ、クロ起きて」
少女が、小さなこぶしで棺を叩く。
「もう夜よぅ」
くるんと巻いた金髪が棺を覗き込む。
まるで墓穴から掘り出してきたかのような古ぼけた葬式用の棺が横たわっていた。
「う……その名で呼ぶな…」
ぎしぎしと軋む棺を開けてでてきたのは、まぶしげに目を細める、まだその顔に幼さを残す青年。棺の上部を押し開いた手は、だらんと顔の上に落ちその長い睫毛を撫でる光をさえぎった。
彼はこの地方では珍しい、闇色の髪に金色の目をもっていた。それにくわえて、この世のものではないような美貌をもっていた。
その異形のその姿は人間達に畏怖を抱かせ、いつのころからか頼みもしないのに生贄までも送ってよこすようになった。
彼は、黒の王だった。
昼の世界に住む人間のはかりしらない、闇の世界を統べる王。
黒の王は、お互い住んでいる世界が違うのだから、係わり合いにならなければいいのにといつも思う。しかしそうさせないのが人間のもつ恐怖心というやつだそうだ。
黒の王には理解できない。
「だって黒の王様なんでしょ。だからクロちゃんでいいじゃない」
白く華奢な、触れれば途端に壊れてしまいそうな少女の指が、青年のすっと整った鼻をつまんだ。
「ひゃんだ、くりぇら」
「ミミがね、夕食つくってまってるの。それと、おはよう」
そういって少女は棺にかがみこみ、軽く黒の王の額に唇を触れさせた。
少女の名前はクレラ。
その昔は、少女自身の名前の後に彼女の家を意味する名前がついていたがそれもこの城にきたとき捨てた。
人の時間でかぞえれば、彼女は気の遠くなるような時間をこの城に来て過ごしていた。
黒の王はクレラに甘い。それは城の中の、いや、もしかしたら黒の王の配下すべての周知の事実だ。
少女は、黒の王に捧げられた十二人目の生贄だった。冥界の王に捧げられた贄だけあって、その容姿は美しい。
長い金色の髪が白いミニドレスを着た背にかかって彼女が歩くたびにふわりと泳ぐ。くりくりした群青の瞳は小動物を思わせ、常に好奇心に輝いて気づくと何か心躍るものを探している。ふとした瞬間に見せる、いたずら好きそうな目は周りのものたちの目を釘付けにし、唯一魔性を思わせた。
まだ少女の面影を残す体ははかなく華奢で、それでも両腕に抱きしめるとその体の柔らかさや甘い髪の香りがひどく彼女を大人に見せた。
「…ああ」
額に少女の接吻を受け、黒の王は棺から起き上がる。
黒の王が活動するのは夜も深くなってからだ。
眠る必要はないが起きていたいわけでもない。彼はクレアがこの城にくるまで大抵の時間を寝ってすごしていた。
同じようになにかを食べる必要もないのだが、このところクレアにつきあって何十年ぶりかの食事を楽しんでいた。
「おいしい!」
満面の笑顔でクレアがフォークを口に運ぶ。
その様子を眺めながら黒の王は優しく目を細めた。こちらはゴブレットを片手に持ったままだ。その様も優雅で見るものが見れば卒倒するような美しさだったが、クレアは王よりもテーブルの上の食べ物に夢中だった。
「やっぱりミミは料理上手ね!」
視線を転じると、クレアの脇で自分の背ほどもある盆をかかえた二本足の猫が照れたように笑っていた。
猫耳だから、ミミ。黒の王のクロと全く同じつけかただ。
王はふとクレアの思考回路を垣間見た気がした。
「ふん。シチューとはこんな味だったか」
王にとって食事は懐かしい。もともとそんなに食べ物を口にする機会もないのだ。食べる食べない依然に、今では異物を腹に入れることに違和感を感じる。
この食事会も戯れ程度にクレアにつきあっていた。
王は手をとめかたわらの少女に向き直る。
「…お前ももはや人間の食物を食す必要はあるまい。なぜこんな不毛なことをしようとする気になったのだ?」
「食事をするのは楽しいわ。私はね、時間が長いとか短いとか関係ない。生きている今を精一杯楽しみたいの」
ちぎったパンを口に投げ込みクレアは即答する。
「…楽しむ、か」
クレアというお気に入りがくるまで一日中棺に身を横たえていた王には久しくわかない感情だ。
いや、そうでもないか。
黒の王は考える。
クレアを見ているときのこの感情は、『楽しい』に入るかもしれない。
「じゃあクロはどうして?」
「なにがだ」
杯一杯に満たされた果実酒をごくりとのみこんで、クレアは今度は自分の手をとめて黒の王の金色の瞳を見つめた。
「十二人いた生贄のなかで十一人は村にかえしたのに、どうして私だけあなたと同じにしたの?」
少女の瞳が黒の王をまっすぐにうつし出す。
黒の王は十二人目の生贄を自分と同じにした。つまり、彼と同じ時を生きるモノにした。
それは人間を超える存在になるという闇との契約。しかし対価はクレアではなく王がしはらった。
すべて、クレアが城にきて目をさました後には終わっていたことだ。
「…お前はここにいるのが嫌なのか」
少女をうつさずに手元の赤い液体が入った杯をうつす黒の王の瞳が薄く曇った。
「そうじゃないけど」
少女は口元を膝の上にあったナプキンで拭く。
城にきた当初はどうして私がこんな目にあうのかとさんざん神を恨んだものだが、その神も今では捨ててしまった。
今ではここで愛するものたちと何不自由なく暮らしている。身の回りにいるのは魔物ばかりだが、慣れてしまえば可愛いものだ。なによりクレアももう人ではない。
「ただなぜかなと思って」
不機嫌に目を細める黒の王の前でも、少女は落ち着いた動作で椅子から立ちあがった。
黒の王の逆鱗の前ではどんな上級の魔物でも恐れおののくというが、この少女の目にはまったくと言っていいほど恐れが見えない。
「…では教えてやろう」
「ほんとっ?」
「ああ」
黒の王も優雅な動作で立ち上がった。
その動きのまま少女の腰を軽く引き寄せ金の前髪をかきわけた。
「え、クロ…?」
そのまま額に唇を落とすと少女は困惑したように目をみはっていた。
黒の王はクレアを深く抱き込み、力をこめる。
「私はな」
耳元で低くささやかれ、それだけで少女の心臓は高鳴りする。
「お前の魂が欲しかったのだ」
「た、魂…?」
魂といえば、あの?クレアも漠然としか認識しないがなんとなく想像はできる。
「どういうこと?」
闇の世界に鎮座する黒の王にもなれば、人間の魂など安々と手に入れられそうなものだが。
「私はお前の魂が欲しかった」
黒の王は少し芝居がかった口調で、切なげに声をひそめた。
繰り返しクレアの髪をゆっくりと手で梳き始める。
耳元で話始しめたので王の息が耳にあたってクレアはくすぐったくて身をよじる。するともっと強く抱きしめられた。
「だからまずお前の体を手に入れようと思った。私が願うやいなやお前が贄に捧げられこの城へきた。…まあ、お前が贄に選ばれここへきたのは偶然だろうがな。
しかし人間の体と言うものは儚いものだ…すぐに器から逃げ出してしまう」
「それでクロは…」
クレアに黒の王と同じ時をあたえたのだ。自らその対価をはらってまでも。
「…わかったか」
黒の王が身を離し、クレアの顔を覗きこんだ。その表情は心なしか嬉しげにも見えた。
少女はこっくりと、まるで幼子のように頷いた。
そうしてきいた。
「それで、私の魂は手に入ったの?」
途端に黒の王の顔が渋くなった。
「…わかっていない」
「え?」
「私はお前の魂が欲しかったんだ」
そういうと黒の王は少女をぐいっとひきよせてその唇を奪った。
「んっ…」
長い髪も、しなやかな胴体も乱暴に掻き抱く。
クレアが黒の王の前髪が自分の額に触れるのを感じてから果てのないような時間がながれた。
少女が立てなくなるほどに長々と口付けをし、黒の王は憂いを帯びた顔でつぶやいた。
「器ではなく…」
王は涙目で抗議の目をむける少女を横抱きにすると随分とつかわれていなかった城の寝室への階段をのぼった。
翌日である。
少女は月明かりの元目をさます。
人間であったときは目覚めると太陽を見たものだが、この城にきてからは夜行性が板についてしまった。
もちろん日のなかを歩けないなんてことはないが、黒の王が夜の方が好きだからというので彼にあわせているとこうなってしまった。
真横に当の黒の王の整った顔がある。
「…!?」
そうだ。そういえば昨日は一人で寝たのではなかった。
今も裸でベッドの中にいる。少女はシーツをかき寄せた。
昨日は何故だかしらないがクロを怒らせて寝室にまで運ばれた。
クロは「仕置きだ」とか言ってベッドに私を放り込み、そのまま覆いかぶさってきた。
裸の鎖骨に赤い印が残っている。私は起き上がり、姿見の前に立った。ああ、首にも胸にも背中にもある。そのままクローゼットに寄り、中から赤い印が隠せるような、適当なドレスを一着選んだ。
「…」
ドレスに袖を通しながら、冷静になった頭で考える。
それよりもどうして昨日、クロが怒ったのかわからない。
怒ったというか、不機嫌になっていた。
視線を眠るクロに移す。クレアはドレスを着ると、自分もその傍らの位置にもどった。
私の魂が欲しかった、とかいっていたよね。でも今私が生きてるってことは、それに失敗したのかな?
「魂って、なんだろ…」
私はぼそりとつぶやいた。
思えば、魂がなにかなんて考えたことがなかった。
魂。私の魂。
死んだら人の魂は、どこへいくというのだろうか。
「う……」
傍らでクロが身じろいだ。
「クロ、月がでてるよ」
私はクロにささやいた。
長い睫毛がふるえ、しばらくの後に金色の瞳が瞬いた。
憂いと倦怠感が混ざり合ったような空気のなかで、黒の王はため息をつく。それだけで彼の周りは言いようもない色気がでているのだがクレアは動じない。
「…お前の部屋か」
「そうよ」
瞳がゆらりと部屋を見渡した。
そうして最後に自分の傍らに座っていたクレアに止まる。
「起きていたのか」
「クロは私より早く起きたことないでしょ」
そうして彼女が気を抜いた途端、腕を引かれた。
油断していた腕が体重をささえきれずに、体が王のほうへよろめいた。
「あ…」
クレアは黒の王の腕に絡みとられ、再び彼の胸に身を投じていた。
「…クロ?」
黒の王は体制を転じ、クレアをベッドに縫いとめ、彼女の脇に両手をついてクレアの首筋に唇をつけた。
「きゃ…っ」
数時間前に散々愛撫された体がまたまさぐられる。
昨日といい、クロはいったいどうしたというのか。いつもはこんな、荒々しいことはしないはずなのに。それほど私は気に入らないことをしたのだろうか。
息もできないほどの深く長い口付けに、強く光る瞳に、心は揺さぶられ震えが走る。
「いやっ!!」
私は思わずクロを突き飛ばしていた。
逃げるように背にした寝室で、天井を見上げて両腕を広げ寝そべったクロがぽつりとつぶやくのをきいた。
「…器ではなく」
昨日も聞いたその言葉に、なぜか私の背筋はぞくりとした。
†††
「それはまずいことをしましたな、お嬢さん」
「やっぱり…?」
クレアは顔なじみである商人の魔物と話していた。
「黒の王はまことに気まぐれでいらっしゃるという噂。お嬢様はいつ消し飛ばれても不思議はない」
「だ、だよね…」
あれからクロとも顔をあわせづらくて部屋にこもるようになった。幸い、人だった時のように物を食べずに生きていけるのでそれも何日も何日もこもっていた。
クロは私が起こしに行かないとあの棺から起きてこないので黙ったままだ。
私がひとたびあの棺に近づいたらどうなるか。
「ね、ねえ商人さん」
「はい?」
「魂って…魂って、なんなんでしょうね?」
「魂?」
商人は呆けた顔でこちらを見ている。
「あ、いえ、やっぱりいいです。突然わかりませんよね」
焦ったように手をふるクレアを、思慮深かげに見て商人は言葉を選ぶ。
「…そうですねえ、生き物から体を無くせばあとに残るのは魂なんでしょうねえ」
「…わからないんです、私」
古めかしい城に、その調度品のなか立つ少女は、商人の目には儚く見えた。
「クレア様」
商人は手を伸ばす。それは魔族のなかでは暗黙の了解で禁忌とされた行為。クレアは肩に触る商人の手を不思議そうに見た。
「あの方のお側はおつらいでしょう…わかっております」
「え…」
商人は熱っぽい目でクレアを見つめる。それはいつのころからだろう。そう、黒の王が彼女に魔性を授けたときから。その身に潜む異常な魔力が奏でる内から湧き出すような美しさに、商人は我を忘れてクレアの虜となっていた。
その、いつ主人の怒りを買い身を破滅させるかもしれない情熱を、彼は城を訪れるたび燃え上がらせていた。
「わたくしでさえよければ、いえ、貴女様が許していただけるならば、私はかの黒の王にもはむかいましょう。この城をぬけだすのです。いえ、貴女はそうすべきです。あの冷酷非情な黒の王が貴女様の魂を狙っている!なんということだろう。私は高ぶる思いとあの方への嫉妬で身が切られる思いです」
「そんな…わたしはそういうつもりで言ったんじゃないわ」
クレアの肩にかけられた手に力がこめられる。
「クレア様、私は貴女をずっとお慕いしておりました。どうかこの私と…」
「はっ、はなして!」
手を払いのけようとしたが、魔物はものすごい力でクレアを捕まえている。
「クレア様…この城で何度かお会いするうちに私の心は小汚い人間が貴女様のお姿に魂を奪われるように、貴女に捕まえられたのです。貴女があの男のものであるなどあってはならない。誰にも触れられてはならない」
「何言ってるの?…はなして!!」
バチッと耳を裂くような音がして、クレアの肩から商人の手が離れた。
「…やれやれ。すごい魔力ですね。一度にそれほど放出するとは」
「………」
商人は火傷を負ったかのように赤く腫れあがった手を痛々しげに振りながら、それでも一歩近づいた。
クレアは信じられないものでもみるかのように商人を見た。
この魔物は黒の王にはむかおうとしている。狂気の沙汰だ。
「こうなっては力ずくで手に入れるしかありませんね…」
商人の顔が薄く笑った。その目は、冷たく熱く、燃え上がりすぎた炎のように、青く澄んでいた。
†††
今日は珍しく、クレアの声ではなくクレアのお気に入りの猫型の魔物ミミの声で目を覚ました。なにやら騒いでいる。王は再び目を閉じた。
「主殿っ主殿ぉっ!」
いつもは恐れて近づかない棺のある部屋にも迷いなく飛び込み、ミミは王の棺をだんだん叩く。普段なら考えられないことだ。王の寝起きの機嫌が悪いことは城に住むものなら誰でも知っている。ミミはその昔、王の寝起き時に彼の棺につまづいてものすごく怖い思いをして体の中の毛を真っ白にしていた。それ以来城のものは王の棺の間には近づかないようにしている。
唯一の例外はクレアだ。彼女は城の住民のすべてがひきとめるなか、目覚めるとすぐに恐ろしく機嫌の悪い寝覚めの王に会いに行った。そして無事に彼の王の腕をひっぱり皆の前に無事に姿をあらわしたとき、城中のものが彼女に賞賛とも尊敬ともとれる眼差しを送ったものだ。
王はそんなことを思い出して苦笑する。
「主殿ぉっ!主殿ぉっ!」
ミミは半泣きで王の棺を叩く。
黒の王はいいかげん疎ましくなったのかようやく棺をあけて姿をあらわした。
「…なんだ」
ミミはその凍るような視線に涙をだらだら流して耐えながらも、声を震わせて王に伝える。
「クレア様が!!クレア様がぁ!!」
黒の王はぱっと立ち上がり、ミミを小脇に抱え走り出した。
「クレア!!」
黒の王が姿をあらわした。
商人の魔物はクレアの前で立ちすくむ。
「どうやら小魔物が彼を起こしてきてしまったようですね」
商人は王の足元にうずくまる猫の魔物を冷たく眺め見た。
「レグノア…貴様」
口にされた商人の名は、昔黒の王の直属の配下であった魔物の名。
「お久しぶりですね、王。だが少し遅かったようだ」
レグノアはクレアに目を向ける。黒の王もその光景に目をみはった。
クレアがその美しい金の髪に赤く紅い血をつけ、その腹からとめどなく血をはきだしてその場に倒れたのだ。床を真紅の液体が広がる。クレアの命が逃げていく。
「これで彼女は永遠に誰のものでもなくなった。あなたのものでも、もちろん私のものでも。それでも私はこうしないではいられなかったのです。貴方から彼女を奪い取りたかった…」
恍惚の表情で、そして勝ち誇ったような魔物の笑みが王を嘲り笑った。
黒の王の瞳が怒りに大きく見開かれた。
途端にその魔物の体は炎上し、黒の王の怒りにあい絶命した。
それでも城の天井に高らかに響くレグノアの笑い声は、いつまでもやむことがなかった。
「クレア…」
黒の王はその体を抱き寄せる。軽すぎるその体に、王は喪失感と恐れを隠せない。
冷たくなっていく体がわずかに震えた。
唇が、わずかに動く。生きている。王は一縷の望みをかけてクレアに話しかける。
「クレア、今…」
言いかけて、黒の王は口をつぐむ。
クレアが目を開けたのだ。
とても億劫そうに、今にも眠りにつきそうに、重たい瞼をあげて黒の王の漆黒の髪を、金の瞳をとらえた。
この少女を再び、彼女の了解もなくして自分が生かしていいのか。
王は迷う。
自分の望みのために、彼女を生かしていいのか。彼女から死の権利を奪っていいのか。
彼女が城に来たときのように…。彼女があの時自分を心の底から恨んでいたのを知っている。自分はまたしても…。
時間が刻々と過ぎていく。焦りにそんな考えも吹き飛んだ。
自分はこの少女を失いたくないのだ。
だから、言わずにはいられなかった。
「私を、残していくのか?」
クレアは目を開ける。もう体の痛みは消え、目の前に金の瞳の王がいた。
寒い。手足が氷もように冷たい。
黒の王が、美しい顔を泣きそうな顔に歪めている。
クレアはそれを見ても、ただいつものように美しいとしか考えなかった。
商人は見えない。クロの姿を見て、逃げたのかもしれない。
口を動かそうとしたが、何かを話そうにも力が入らなかった。
黒の王がつぶやいた。
「私を、残していくのか?」
クレアは瞬いた。
黒の王は泣いていた。クレアの知る涙のようなものは見せなかったが、黒の王は泣いていた。
「お前は私を置いて、どこかへ去ろうというのか」
手を引く親の手をなくした子供のように、黒の王はそこへ、クレアを抱いて座りこんだ。
命の欠片の残る躯を抱いて、王はクレアを責めるように言葉を綴る。
「私から、逃げるのか…」
そこにはクレアの計り知れない悲しみが、こめられているようで彼女は焦る。
"魂が欲しい…"
かつての王の言葉がよみがえる。
今なら彼の言葉がわかる気がした。
この王に、孤独な王に、何か。何か…言わなくちゃ…。力が抜ける。気を抜くと、意識が飛んでいきそうになる。
彼に、何か。彼を救えるような、何か。考えれば考えるほど頭の中は真っ白になった。
それは、義務のようにも自らの責任のようにも、思えた。
抱きしめられて間近くなった黒の王の顔に、微笑みかける。
それは引きつったような笑みで、それでも王には伝わったようだ。
彼女の口元に耳を寄せる。
少女は必死に声をしぼりだした。
「クロぉ…」
涙がひとつ、頬を伝った。
「大好き…」
何が悲しいのだろう。
別れが、悲しいのだろうか。
ううん、違う。彼が悲しむのが、私は悲しいのだ。
クレアは泣きながら目を閉じた。
離れたくなかった。
†††
ああ、当然だ。
あんなやつにクレアを奪われてなるものか。
私のお気に入りをやつと共にいかせるなど、この闇の王が許すと思うのか。
彼は傲慢に言いきった。
目を覚ました少女のベッドの側で。
少女はとくに相手にもせずに言葉もなく、起き上がるとすぐに王の首に腕をまわし、きつく抱きしめた。
脇にいたミミがきゃっと言って目を覆い隠した。
王は何も言わずに、満足そうに彼女を抱きしめかえした。
クレアは黒の王との再開に、こみ上げる幸せをかみ締めた。
†††
黒の王は少女の魂を手に入れた。
気づかぬ間にその手に入れていた。
彼女のあの言葉はただ確認に過ぎなかった。ただ、王の揺らぎが、彼を風に揺らめく蝋燭の炎のように、揺らめかせていただけなのだ。
黒の王は闇夜を支配する。
その多大な力で心を支配する。
それは人間であっても魔物であっても変わらない。
その伝説は今のこの世にも伝わっているという。
END




