06 美羽
「・・・・・・カワイイ女の子と遊びたい。」
日の暮れかけた海の景色を見ながら、バルコニーの手摺に寄り掛かってタバコを吸っていた女が、突然呟いた。
松山は、
「は?」
『聞き間違えたか?』と、〝彼〟の背中へ言葉を掛けた。
ゆっくり、〝彼〟は振り返り、
「それなりに、人間の女とお付合いはあった。」
言う。
松山は目を丸くして食いついた。
「へぇ~、意外ですね。で、どんな子と?」
「ありとあらゆる国に〝そういう文化〟があったから、人種国籍は多種多様だ。」
そう言う〝彼〟の顔が真顔なのが気になるが、
「すごいですね、詳しくお伺いしたいところです。」
松山は灰皿を持って〝彼〟の傍まで歩み寄った。
〝彼〟は松山の持つ灰皿へ灰を落とし、
「全員生贄だが、微笑ましいか?」
タバコを口に咥えた。
一瞬、絶句した松山は眩暈がするのを押さえながら、
「ああ・・・・・まぁ、そうですか。生贄、ですか・・・・。」
呟くように言葉を漏らした。
はぁと溜め息を吐いて、
「しかし、今、女性の体にいるんですよね?どうなんですかそれって。」
松山は『男性』として訊く。
松山の言いたい意味は判る。
「男でも女でも支障はない。『俺』にカスタマイズする事は可能だ、おまえも見ただろう?」
姿形を変化させてしまう〝彼〟には、〝入れ物〟の性別は関係ないらしい。
〝彼〟は続けて、
「ただし、男に入れば精で相手を穢してしまうから使い物にならなくなる事はある。」
「使い物?」
頷いた〝彼〟は、
「最終的には俺に捧げられた食糧だ。」
「―――――。」
もう、言葉が出なかった。
顔色が青くなり始めた松山を、〝彼〟はフンと鼻で笑い、
「俺は食糧が欲しいとは言っていない、女の子と遊びたいと言った。」
「・・・・ナンパ、ですか。私の所属しているセクションって、基本男所帯ですからね。」
かわし切れるとは思えないが、松山は逃げるように目を伏せて言葉を濁した。
しどろもどろの松山の様子を面白がるように〝彼〟は、
「死に掛けでいい、用意できないのか?」
と、さらりと言った『死に掛け』の単語に、松山は頭に過ぎらせてはいけない事を思ってしまった。
「あ・・・。」
はっと気が付いて顔を上げると、松山の視界にニヤリと笑う〝彼〟の顔があった。
そして、
「武田の休みは娘が死に掛けてるから、か? じゃ、それで遊ぶ。」
読まれてしまった。
松山は当然のように声が高くなり、
「何言ってるんですか!無理です!」
言うが、〝彼〟は大した事では無いとでもいう態度で、
「海老原に連絡しろよ、おまえに意見を求めているわけじゃない。」
松山の持つ灰皿へタバコを押し付けて消した。
小刻みに体を震わせる松山の顔が、悲痛な顔になる。
〝彼〟を詰なじりたいが、元々こちらが人の感覚で相手を見ていただけで、これが『〝彼〟の日常』なのだと、絶望的に思う。
「人ではないんだと、実感しました。」
震える声で言う松山に、
「俺は最初からそう言ってる。合理的に考えろ、有効利用だ。」
さらりと言い放った〝彼〟は、新しいタバコを咥えて火を点けた。
◇◇◇◇◇
間も無く、連絡を受けた苦い顔の海老原が部屋を訪れた。
開口一番、
「無理は言わないでいただきたい。」
言うが、〝彼〟はそれには答えず、
「木星の衛星は?」
海老原が出した課題は確認できたのか?という〝彼〟の問いに、海老原は無言の間で肯定した。
ニヤリと笑う〝彼〟は、
「俺、我慢するの嫌いなんだよね。」
海老原の顔を覗き込む。
〝彼〟を睨み付ける海老原は、呻くような声で、
「わかった。」
言った。
ふふと声を漏らして勝ち誇ったように笑った〝彼〟が、
「さすがにトップになると賢いな。」
海老原へ嫌味を浴びせて、採血の時に〝痛めつけられた〟事を返礼した。
◇◇◇◇◇
病院の個室で、武田はベッドの傍らに置かれた椅子に座って呆然と、そこに横たわる娘の美羽を見ていた。
目に映る娘の顔は、もう既に生きている人間の顔では無かった。
血の気の無い顔色と、そこにある乾ききった唇は力無く隙間が開いていた。
目蓋は完全に閉じる事は無く、微かに薄目を開けた状態になってピクリとも動かない。
16歳の娘が、武田の目の前で息を引き取る寸前だった。
急変したのは今朝で、前日の美羽は笑いながら話せる程の状態だっただけに、武田はまったく心の準備ができていない。
美羽の母親ももう亡くなっていて、看取る身内は武田しか居なかった。
まったく血の気の無い美羽の顔からは人工呼吸器のマスクも外され、実際の所、息ももうしてはいない。
心電図モニタが微かに心臓が動いている事を知らせているだけで、外見的に美羽の体が動く事はもう在り得ない。
あと数十分も待たずに、医師が死亡確認の為に病室へ来る筈である。
じっと、その時を待つ。
美羽に最初に異変が起きてからここまで、あっという間に美羽の病状は悪化して行った。
検査をした時には既に全身に転移が見られ、親子揃って余命宣告も受けた。
何故?
何度もそう思った。
しかし、時間だけが過ぎて行った。
美羽自身は遺される父親を気遣って気丈に振る舞っていたが、それでも、ふとした瞬間に『どうして私なんだろうね』と言って泣いた。
代われるものなら代わりたいと、父も娘も同じ事を思っていた。
体中を蝕む病の激痛に苦しむ娘と、娘を失って一人遺され、これから訪れる孤独と闘う事になる父親の苦しみと、お互いがお互いを思っていた。
ただ呆然と事切れる瞬間を待つ事しかできない武田の口が、ぽつりと、
「美羽。」
目の前で〝生体〟ではなく〝物体〟に変わろうとしている娘へ声を掛けると、一瞬だけ心拍が上がる。
聞こえている。
美羽が答えようと反応している。
しかし、その反応も一瞬だけで、またゆるゆると落ちていく心拍はもう止められなかった。
〝逝かないでほしい〟
無理な事は判っているが、思わずには居られない。
目を逸らさず、じっと美羽を見つめ続ける武田は、生気の無い疲れた顔で深い溜め息を漏らした。
漏らした分息を吸い込むと、何故かタバコの臭いがする。
と、
「お取込み中、申し訳ないが。」
扉が閉まっている密室の、美羽と武田の二人しか居ない病室で、突然女の声がする。
美羽が横たわるベッドの向こうの壁際に、俯き加減に苦しそうな表情の松山を連れた〝彼〟が、タバコを吸いながら立っていた。
やつれた様子の武田は、
「・・・なぜ、ここに?」
ぼうっと訊いた。
〝彼〟はつかつかとベッドの側へ歩み寄り、
「詳しいことは松山に聞けよ。」
言って、美羽の額に手を当て、そのまま美羽と一緒に消えた。
武田は何が起こったのか判らず空になったベッドを見つめた後、置き去りにされた松山へ顔を上げ、
「どういう事だ松山!」
怒鳴り声に近かった。
怒声を叩き付けられた青白い顔色の松山は、武田へ深々と頭を下げ、
「美羽さんをホテルへ移します。次官の命令です。」
言った。
頭が上げられない。
そのままの姿勢で、
「あの男が・・・・瀕死の女の子を用意しろと言い出しました。」
声が震える。
松山がどんな表情で言っているのか想像はつかないが、どれほど恐ろしい事を言わされているのか、松山自身は十分に理解して口に出していた。
しかし、武田にはまったく理解できず、
「意味がよく・・・・」
判らず、言葉が続かない。
松山には、美羽の父親に向かってそれ以上の説明が出来なかった。
「少しでも人間感覚であの男を見た自分が馬鹿でした。」
頭を下げたままの松山の声は、涙声だった。
弾かれたように武田は傍らにあった上着を握り、
「ホテルへ急ごう。」
言って、病室の扉へ駆け出した。




